第11話 “好き”の自覚





俺はそれから、どこかいつも元気の出ない様子だけど、俺が話しかければ一生懸命笑ってくれるキコちゃんと、毎日を過ごした。


“彼女を避けてはいけない”


“彼女にはいつもと変わらない態度でいなければいけない”


“俺は自分の心を気にしてはいけない”


俺はその3つを、ただ本能が命ずるままに守って暮らしていた。踏み外さないように。何を?それはわからない。


朝目覚めると、彼女はちょっとさびしそうな笑顔で「おはようございます」と言ってくれる。俺はそれに、前のように「おはよう」と笑顔で返す。その時の俺がどんな顔なのかはわからない。俺は彼女に、前のように笑えているだろうか。


俺たち二人ともが言葉少なになりがちな食事の間、俺は二人の間のわだかまりを解消しようとするための言葉は口に出せない。もしそれをしたら、俺はおそらく「選択」を迫られる。でもそれがなんなのかも、俺は考えない。



俺は、キコちゃんを守ってあげたい。小さな彼女が生きていくためには、今は誰かの手元にいることが必要だからだ。でも、彼女がこのまま俺に縛られていなくちゃいけない理由もない。


俺は、キコちゃんの心のゆくままに生きさせてあげたい。それができるなら。


ただ、今のところは彼女を外に出すという選択肢がないから、そうしないだけ。


いいや、今さらこんなわかり切ったことの話をしたいわけじゃない。俺は、この先にあるものについてふれないために、キコちゃんの話をしているに過ぎない。ああ、ダメだ。考えそうになってしまう。



「…原、おい、児ノ原!聞いてんのか?」


俺は頭の上から降ってきた声に、顔を上げた。見上げると、昼下がりの日光でクリーム色に染められた教室を背景に、東先生が立っていた。先生は、少しだけ心配そうな表情を呆れ顔の中に隠して、俺を見ている。クラスメイトは一人もいなくなっていた。


あ、もうホームルームも終わっちゃったのか。じゃあ帰らないとな。俺はそう思って、今までぼーっと顔だけを向けていた窓の外をもう一度見やると、鞄に手をかける。


「すみません。ぼーっとしてました。もう帰りますよ」


今日も学校での勉強には1ミリも身が入らなかったけど、来期が終われば俺は就職するし、別にいいだろう。そんなふうに先生をほっぽって、俺の頭はまた回り出す。


すると先生は大きくため息を吐いて、「しょうがねえな」と独り言のように言った。俺がそれを聞いて先生に顔を向けようとした時には、先生は俺の制服の肩を掴んでいた。そして、俺が服を掴まれて驚く前に、先生は物凄い力で俺の体をぐいっと持ち上げてしまったのだ。俺はあやうく、掴みかけていただけの鞄を、手から落とすところだった。


「わっ、わっ、待ってください先生!すみませんでした!」


実は東先生は空手部の顧問でもあるので、かなり力のある人だ。そして、昔は大層競技会で鳴らした選手だったらしい。俺はそんな先生に引きずられてあっという間に教室からつまみ出され、それからずんずん廊下を進んでいく先生についていくため、噛み合わない足を床につっかけるように走らせていた。


「先生すみません!離してください!」


「いいからついてこい、何もしねえから。ちょっと話聞くだけだから。別にその上でみっちり百叩きとかもしないし」


「冗談ですよねそれ!?先生が言うとシャレになんないっすよ!」





「で?担任の先生が心配して話しかけても、その声が5回も耳に入らない状況を作り出した悩み事とは。なんぞや?少年」


「いきなりなんの役作ってんですか?」


俺は、ほとんどの先生が部活のためにいなくなった職員室で、中央に寄せられた事務机のうち、東先生の隣の席に座らせられていた。閑散とした職員室の外から、音楽部やら運動部の、叫び声や楽器の音がのどかに飛び込んでくる。


俺の目の前の机には、バウムクーヘンが乗った皿と、プラスチックカップに注がれたコーヒーがある。他にも生徒の成績表や答案用紙などもあったけど、それは東先生が机の隅に乱暴に押しのけてしまった。よかった、百叩きは本当に冗談だったみたいだ。そりゃそうだろうとはわかるけど、あの状況で言われたらちょっと怖い。


「まあ、話したまえよ」


先生は得意げに鼻を鳴らしてそう言うけど、俺は話したくなかった。


「はあ…えーっと、個人的なことなので黙秘していいですか」


「認めません」


「公務員じゃないですか、法にのっとって下さいよ」


「じゃあそのバウムクーヘンは先生が食べちゃうぞ、いいのか?」


いや、先生。俺、5歳の子どもじゃないんだから、バウムクーヘンじゃ釣られないですよ。


まあ、本当に心配してくれてるんだろうし、ここは早く話して先生を安心させてあげないと。それにしても、なんでこんなことを担任教師に話さなきゃいけないんだよ。ほっといてくれよ。


「わかりました、言いますよ。実は…」


そこで俺は、言葉が止まってしまった。そりゃそうだ。自分でも考えないようにしていた問題だ。話す前に整理しないと。


「実は?」


そう。キコちゃんのことだ。でも、先生にどうやってキコちゃんのことを説明するんだ?“身長20センチの女の子が…”って話し始めるのか?それこそ心配されて、病院に連れて行かれるぞ。



俺は脳味噌を搾るように回転させ、なんとか考えをひねり出した。それで、誰も信じないであろうキコちゃんの背格好、不明な出自、それから、彼女とすでに同居していること。それらはすべて省くことにした。とにかく「ただの身近にいる女の子」として話そうと思ったのだ。


「実は、女の子に好きと言われかけたんです…」


「言われ“かけた”?」



それから俺は、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をした先生に、ことのあらましだけを話した。要は、「本人の自覚無しに女の子から好意を告白され、相手にわからせる気にもなれなかったので、とても気まずい」と。



「ほー…珍しい子だな」


そうですね。珍しいですよ。何せ、手のひらサイズですし。


俺は喉元まで出かかったその言葉を、もう一度腹の底まで押し戻した。


「まあ、素直でいい子なんですけど、どうも世間がわかってないとこがあるから、それでだと思います…」


東先生はそこでちょっと安心したように息をつき、自分の前にある皿からバウムクーヘンを取って、むしゃむしゃやりだした。


「それにしちゃあなあ…。で、お前は告白されて舞い上がったけど、「付き合おう」と言い出すわけにもいかず、困ってるのか?」


「……え?……え?はい?」


俺は一瞬、耳が聞き違えをしたのかと思った。


「いや、だから。俺も好きだよとは言えないから、困ってるんじゃないのか?」


なんだって?なんでそうなるんだ?


先生は俺の気持ちを勝手に決めつけ、俺がもうキコちゃんに恋をしているつもりで話している。


「な、なんでそうなるんですか!?違いますよ!」


「え、違うの?じゃあなんでそんな困ってんの?好きじゃないなら説明して断ればいいじゃん」


「断ればって言ったって…気まずくなるし、そしたらこの先一緒にいて困るし、彼女も悲しむじゃないですか…それに…俺と彼女の今までの関係は変わるし、そしたら、友達でいられるかどうかは…」


先生はまたため息を吐いて顔の半分を覆い、もう片方の手でバウムクーヘンを口に運ぶ。器用だな。あっという間に、年輪の切れっ端は先生の口に全部入った。


先生がもぐもぐとやっていた間、しばらく場は静まっていたけど、不意に先生は何かを懐かしむように、ふふっと笑う。それから、満足そうに舌なめずりをした。


「つまるところ、気まずくなるのは嫌だし、彼女とは一緒にいたい。彼女に気持ちを自覚させたあとで、二人の関係が悪い方に転んだりしたら…お前はそれが怖いんだな?」


俺はその時先生が言ったことに、「あっ!」と声を上げそうになった。そして、なんとかそれをすんでのところで止めると、息を吸った音だけが残った。それから、あっという間にかっかと火照ってくる顔を隠すため、俺はうつむく。



そんな。そんなはずないのに。まさか。



「児ノ原」


俺は東先生の声に、顔を上げないまま「なんですか」と返した。なるべくぶっきらぼうに聴こえるように。


「バウムクーヘン、いっぱいあるから、持って帰っていいぞ」





つづく

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