第52話 隣りの部屋の青年
「あ~ん」
蒼乃が自分の口を開けながら、ちひろに言う。
「あ~ん」
すると、ちひろもそれに合わせて口を開ける。そこに蒼乃が歯ブラシを入れて、ちひろの歯を磨く。
ちひろの看病は続いていた。ちひろは、体が動かせないので、蒼乃が歯磨きもしてあげていた。
ちひろは口を開けたまま、蒼乃にすべてを任せきっている。
「ふふふっ」
なんだか、蒼乃は本当にちひろのお母さんになったみたいな気がした。
「何で笑ってるの?」
「ふふふっ、ううん」
ちひろのその素朴な訊き方に、本当に、子どもみたいだと蒼乃は思った。
「ちひろの歯ってきれいだね」
蒼乃がちひろの口の中を覗き込む。ちひろの歯は、乳歯のように純白で、幼い子どもの歯のようにかわいくきれいだった。
「あれっ?」
蒼乃が買い物から戻ると、隣の部屋の玄関の前であの美青年が、困ったように佇んでいる。
「どうしたんですか」
人見知りな蒼乃だったが、そのあまりに困り果てている姿に思わず声をかけた。
「はははっ、ちょっと、部屋の鍵を落としてしまってね」
その青年は、恥ずかしそうに笑いながら言った。
「業者に電話したんだけど、今忙しいらしくて、時間がかかるらしいんだ」
「そうなんですか」
「困ったよ。夜遅くになるらしいんだ。来れるのが」
見た目とは裏腹に、意外とおっちょこちょいな人だということに、蒼乃はなんだか少し好感を持つ。
「外は雨だしね」
今日は土砂降りの雨だった。青年は本当に困ったという顔をしている。
「参ったよ」
青年は、きれいな笑顔でまた笑う。
「あの・・」
「えっ?」
青年が蒼乃を見る。
「もし、よかったら、うちで待ちませんか?」
「えっ、いいの?」
青年が驚いた顔で訊ねる。
「はい、大丈夫です」
「助かるよ、ありがとう」
「じゃあ、どうぞ」
蒼乃は青年を部屋に招き入れた。
突如現れた青年を見て、ダイニングのテーブルに座っていた愛美が驚いて二人を見る。
「隣りの部屋の人、部屋の鍵をなくしちゃったんだって」
蒼乃が愛美に説明する。
「まあ、いい男」
愛美が青年を見て声を上げる。女性が好きなはずの愛美ですらが、その美貌に感嘆の声を上げる。
「誰?」
そこにちひろが出てきた。
「ちひろ、もう、歩けるの?」
蒼乃がその姿に驚く。ちひろは普通に歩いていた。
「うん」
ちひろの回復力はすごかった。まだケガをしてから一週間も経っていなかった。しかも、そのケガはかなりの重症だった。
「たくさん食べたからだよ」
ちひろはどや顔で言う。
「そうなの・・💧 」
蒼乃はほんとかなと思ったが、しかし、実際ちひろのけがの治りは驚異的に早かった。
「でも、一回ちゃんとお医者さんに診せた方がいいんじゃないかな」
愛美が言った。
「うん・・」
蒼乃もそれを思っていた。やはり、一度ちゃんとケガの状態を医者で診てもらった方がいい。蒼乃もそうしたかった。
「やだ、あたしお医者さん嫌い」
だが、ちひろは医者という名が出ただけで首を激しく横に振り顔をしかめた。
「絶対行かない」
そして、駄々っ子のような完全拒否をする。
「・・・💧 」
ちひろを医者に連れていくのは、相当大変そうだった。それに、銃創をどう説明するか。蒼乃は困った。
「僕が診ようか?」
その時、突然青年が言った。
「えっ」
蒼乃と愛美の二人が驚いて青年を見る。
「僕は医者の卵なんだ」
「えっ、そうなんですか」
二人は驚く。こんな近くに医者がいたとは。蒼乃と愛美が顔を見合わせる。
「隣りに行けばよかったんだね」
愛美が小声で蒼乃に言った。
「うん・・」
蒼乃もうなずく。あの時、あれほど大騒ぎしたのに、求めるべき医者はすぐ隣りにいた・・。
「この処置をしたお医者さんは相当に腕がいいね。神業と言ってもいい」
ちひろの傷口を見て、青年はしきりと感心する。
「そうなんですか」
蒼乃が隣りから覗き込む。
「うん」
やっぱり、あの医者はすごい人だったんだ。蒼乃は思った。全然そんな風には見えなかったが、その腕は確かだった。
「これほどの技術を持った医者はなかなかいないよ」
青年は傷口を見て、やはり、しきりと感心している。素人の蒼乃には全然分からなかったが、同じ医者には、そのすごさが分かるらしい。
「じゃあ、問題ないんですね」
蒼乃が青年に訊いた。
「うん、全然問題ない。このまま、しっかり、毎日ガーゼを替えて消毒していけば大丈夫だよ」
「そうですか」
蒼乃は、ホッとした。そして、愛美と目を合わせる。愛美もホッとしている様子だった。そして、蒼乃はちひろを見る。一時はどうなるかと思ったが、無事回復しているという診断に心底蒼乃はうれしかった。
「これは銃創だね」
その時、突然青年が鋭く言った。
「えっ」
蒼乃と愛美はドキッとした。青年は見抜いていた。
「・・・」
二人は何と答えていいのか、答えに困った。まさかちひろが殺し屋だとは絶対に言えない。しかし、言い訳のしようもなかった。
二人は黙ったまま、お互い目を見かわした。その場には、何とも言えない緊張した空気が走っていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。