第40話 お母さん

「どうした?」

 ちひろが、台所で立ち尽くしている蒼乃を見る。

「・・・」

 蒼乃は、ここ最近なぜか暗く沈んでいた。

「どうした?」

 ちひろはさらに蒼乃に体を寄せ、横から蒼乃の顔を覗き込む。蒼乃の足元には少し大きくなったミーコ―もやって来た。

「私・・」

 蒼乃は泣きそうになっている。こんな表情をするのは蒼乃がこの家に来てから初めてのことだった。

「私、家に帰りたい・・」

 蒼乃は涙をこぼした。

「お母さんが心配・・」

 蒼乃は、急に母のことが心配になっていた。ちひろと遊園地で観覧車に乗った時に、ふと幼かった頃を思い出し、ちひろの看病で、自分が小さかった頃に母に看病されたことを思い出して、急に母のことを強く思うようになっていた。

 母を恐れ、嫌い、疎ましいと思っていても、どうしても親子という強くもつれあった感情と関係は断ち切ることが出来なかった。その逃れようのない複雑な感情に蒼乃は苦しんでいた。

「私が、自分から殺し屋になりたいって頼んでおいてすごく勝手だってことはよく分かってるの。でも、でも・・」

 蒼乃はあの時、ちひろに泣きながら私も殺し屋にしてと言った時から、もう家にも学校にも戻らないと誓っていた。すべてを捨てて、生きなおすのだと自分に誓っていた。でも、湧き上がる母への想いと郷愁に似た実家への懐かしさをどうすることもできなかった。

「・・・」

 ちひろは黙って、そんな蒼乃を見ていた。

「すぐ戻って来るから」

 蒼乃はちひろにそう言って、エプロンを外し、台所から出て行った。でも、自分がここに戻って来るのか、蒼乃には自信はなかった。

 蒼乃は一人そのまま部屋を出た。

 蒼乃は家までの道のりを一人歩く。複雑な思いがあった。今さら帰っても、母は許してくれるだろうか。そういえば、あれからもうどのくらいの月日が経ったのだろうか。その月日を数えるのがなんだか怖かった。

 不安と恐怖に足がすくみそうになる。でも、なぜか不思議と心の奥底にほのかな期待もあった。

「?」

 その時、ふと、背後で何かを感じ蒼乃は振り返った。

「!」

 ちひろがいた。

「ちひろも行くの」

 ちひろは小さく頷いた。蒼乃とちひろは二人で歩き出した。


「・・・」 

 蒼乃は目の前の見慣れたはずの、自分のうちのマンションの玄関ドアを見つめていた。蒼乃は、そこからなかなか勇気が出せずにいた。母はどんは反応をするだろうか。不安と恐怖の入り混じった中で、蒼乃の体は小さく震えていた。

「・・・」

 そんな不安と恐怖の中で、やはり、母がどこかで私を抱きしめてくれるのではないかと、淡い期待のようなものを想像している自分がいた。それは強い自分勝手な願望なのかもしれない。だが、蒼乃はその想いにすがるように、勇気を振り絞ろうとする。でも、しかし・・、それを打ち消すように、どうしようもない不安が蒼乃の中にせり上がって来る。

「入らないのか?」

 ちひろが首をかしげながら、蒼乃の横顔を覗き込んでくる。

「私もお母さんていうのを見てみたい」

「うん・・」

 蒼乃は恐る恐る自宅の玄関の扉の取っ手を握り、扉を引いた。鍵はかかっていなかった。母はいるということだ。蒼乃はそのまま玄関ドアを開け、恐る恐る中に入る。その音で何かを察したのか、蒼乃の母がすぐに奥のリビングから顔をのぞかせ、出て来た。

「どこ行ってたの」

 蒼乃を見つけるなり蒼乃の母は、金切声を上げた。そして、血相を変えて玄関にすっ飛んできた。

「どこ行ってたの」

「ちょ、ちょっと」

 蒼乃が答えるか否か、母親は蒼乃の顔を思いっきり平手打ちした。蒼乃は右の壁に吹っ飛んだ。

「ごめんなさい・・」

 顔をあげた蒼乃の目に涙が浮かんだ。ちひろはガム風船を膨らませながら、無表情でそんな二人を後ろから見ていた。

「何やってんだお前は」

 さらに母親は、ものすごい怒鳴り声を、蒼乃の顔に近づけて発した。

「ごめんなさい・・」

 蒼乃は泣きながら、消えいらんばかりの声で謝った。

「ごめんなさい」

「学校にも行ってないだろう。お前は」

 母親はさらにすごい剣幕で怒鳴りつけた。そして、また一発平手で蒼乃の頭を殴った。

「ごめんなさい」

「ほんとにどうして、お前はそんななんだ」

 母親はさらに怒声を上げる。その形相は、気違いのようだった。

「お前は本当にどうしてそうなの。どうしてそんななの。なんで親の言うことが聞けないの」

「ごめんなさい」

 蒼乃は幼い子どものように泣きじゃくった。

「ほんとどうしようもない子だよ。お前は」

 だが、母親の剣幕はおさまらない。さらに怒声を上げる。

「ごめんなさい」

 蒼乃はひたすら謝るだけだった。

「ほんとに、ダメな子だ。お前は」

 母親はうずくまり頭を抱える蒼乃を、罵倒しながらその上からさらにやたらめったら殴った。

「ごめんなさい。ごめんなさい」

 蒼乃は両腕で自分を守りながら必死で謝る。しかし、母親は容赦なくその上から怒りに任せ叩き続ける。

「お前はぁ、お前はぁ」

 その激しさは叩けば叩くほど増していく。母は叩けば叩くほど興奮し、もう、完全に気が狂ってしまったみたいに、髪を振り乱し、形相が鬼のようになっていく。

「ごめんなさい、ごめんなさい」

 蒼乃は泣きじゃくり、ひたすらあやまり続ける。

「お前はぁ」

 しかし、母親の興奮は増すばかりだった。

「!」

 その時、ちひろが蒼乃の母親の前に静かに立った。

「何だ。お前は」 

 母親が手を止め、少し驚きながらちひろを睨みつける。

「何なのこの子」

 母親は蒼乃を見た。

「こんな子とつき合ってるのか。お前は」

 ちひろのド派手な格好と、その真っ白い髪を見て蒼乃の母は言った。

「お前はまったくっ」

 そして、蒼乃の母はさらに怒りを爆発させ再び蒼乃を殴ろうと腕を振り上げた。

「うごぉっ」

 その時、蒼乃の母がうなり声をあげて後ろに吹っ飛んだ。

「うぐぐぐっ」

 蒼乃の母は、廊下の壁までぶっ飛び、そして、鼻血を出しながらうめき声を漏らし、うずくまった。ちひろは、蒼乃の母を思いっきりぶん殴っていた。それは本気で相手を傷つける殴り方だった。手加減して、脅しや威嚇で殴ってるのではなかった。それは、確実に相手を壊す殴り方だった。ちひろは無言のまま、さらに吹っ飛んだ蒼乃の母に近づいて行き、蒼乃の母を上から無言で殴り始める。

「ちひろやめて」

 うずくまったまま蒼乃がその後ろから叫んだ。しかし、ちひろはやめない。

「やめて、ちひろ」

 蒼乃が叫び続けるがちひろはやめない。そして、ちひろは背中に差していた拳銃を素早く抜いた。

「やめてちひろ」

 蒼乃絶叫する。しかし、ちひろは何の躊躇もなく、銃を蒼乃の母のこめかみに当てた。

「やめて、ちひろ」

 そして、そのままちひろは引き金に力を込めた。その瞬間、蒼乃は二人の間にダイビングするかのように走り込んで、母親に覆いかぶさった。

「やめて」

 蒼乃が叫ぶ。

「殺さないで」

 蒼乃は泣きながら叫んだ。

「・・・」

 ちひろは銃を構えたまま、無表情でそんな蒼乃を見下ろしていた。

「殺さないで」

 蒼乃は泣きながら母親を必死で庇った。

「お母さんなの・・」

 蒼乃は泣きながら言った。

「私のお母さんなの・・」

 泣き過ぎて、もう言葉にすらなっていない言葉で蒼乃は言った。

 蒼乃の下で蒼乃の母も泣いていた。

「・・・」

 ちひろは、拳銃を下げると、黙ったまま玄関へと背を向けた。そして、ちひろはそのまま玄関を出て行ってしまった。

「・・・」

 蒼乃は体を起こした。母親はうずくまったまま泣いていた。蒼乃はしばらく呆然とその光景を見つめていた。

「・・・」

 蒼乃はゆっくりと立ち上がった。

「・・・」

 蒼乃は泣き崩れる母親を見下ろした。そして、蒼乃は、一度玄関を見た。そして、もう一度うずくまる母を見た。蒼乃は躊躇した。しかし、蒼乃は泣き崩れる母を置いて、ちひろの後を追った。


「・・・」

 帰り道、二人は黙ったまま並んで歩いていた。

「あれがお母さん?」

 ちひろが訊いた。

「うん・・」

「変なの」

「・・・」

 蒼乃は返す言葉もなく黙っていた。確かにちひろの言うとおりだった。

 二人はとぼとぼと歩き続ける。

「昔はやさしかったんだ」

 蒼乃がぼそりと言った。

「私が小さかった頃は全然怒ったりしなくて、いつもにこにこしていて、すごくやさしかった。殴られたことも一度もなかった。でも、離婚してパパが出て行ってからおかしくなっちゃったんだ・・」

 蒼乃はちひろにこんな話をしても、絶対に分からないだろうなと思いながら話した。

「・・・」

 ちひろは、実際理解しているのかしていないのか、黙ったまま風船ガムを膨らませながら蒼乃の話を聞いていた。

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