第27話 生きている赤い血
「ん?」
蒼乃が竹かごを見ると、札束が新たにボンッと三つ置いてあった。
「・・・」
ちひろが置いたのに違いない。依然の仕事の報酬なのだろう。しかし、あまりに無造作だ。それに、どうやって、このお金を受け取っているのだろうか。やはり、まだまだ謎は多いちひろだった。
日々生活を共にする中で、ちひろが殺し屋であることを、蒼乃は忘れ始めていた。
「でも殺し屋なんだよなぁ」
蒼乃は料理を作りながら改めてちひろを見る。ちひろは相変わらず、ミーコ―をお腹に乗せ、朝からだらけきった格好でテレビを見続けている。
リビングには呑気な日々が、今日も流れている。
「・・・」
平和だった。明日の学校を心配しなくてもいい。帰ってから、母の機嫌を気にしなくてもいい。自分の安心できる居場所を探さなくてもいい。いつの頃からか蒼乃の心の奥に憑りついていた不安の原液のような濃厚な真っ黒な曇天は、消え去っていた。
「生きているって楽しいものなんだな」
蒼乃は、そんな当たり前のことを感じ始めていた。
「ごはんできたよ」
蒼乃が、リビングに置いたテーブルの上に、作ったハムエッグとサラダを置きながら、リビングに向かって言う。
「あっ」
いつの間にか、蒼乃のすぐ横に、あの丸いサングラスをかけたちひろが立っていた。そして、凍った表情で蒼乃を見つめていた。
「仕事?」
蒼乃が訊く。ちひろは黙ってうなずいた。蒼乃は緊張し、息を飲んだ。
二人は雑踏の中を歩いていた。ちひろは人混みへ人混みへと入ってゆく。蒼乃はその横を着き従うように歩く。ちひろは軽装だ。何も持っていない。どうやって人を殺すのだろうか。蒼乃はそんなことを考えながら、ちひろの横を歩いた。
「どこへ行くの」
「・・・」
ちひろは何も言わない。そのまま黙ってただ歩いてゆく。
「どうするんだろう」
周囲の人混みはさらに増してゆく。こんな人の多いところで人を殺すなんて絶対無理だろうし、考えられなかった。
「ちひろ」
蒼乃が再び声をかけようとするが、ちひろはどんどん歩いて行ってしまう。蒼乃はちひろについて行くしかなかった。
それから、ちひろはどこへ行くのか、彷徨うように雑踏の中を歩き続ける。まったく行き先が分からない。これからどうするのかすら分からない。
「どこまで行くの」
蒼乃は堪らずちひろに声をかけた。
「もう終わったわ」
「えっ」
蒼乃がふと見ると、ちひろの手は真っ赤な血でべったりと、濡れていた。その手には小さなナイフが握られている。
「・・・」
蒼乃は生の人の血を見て、息を飲んだ。
「こんな雑踏で?」
「全ては計算されているの」
ちひろは静かに言った。
「・・・」
確かに人が多過ぎて、逆に人が人に対する関心が薄い。蒼乃が振り返ると、一人のサラリーマン風の男がよろよろと倒れこんでいた。「あっ」
蒼乃は小さく声を漏らした。
「振り返らないで」
ちひろが厳しく言った。蒼乃はすぐに前を向いて平静を装おうとした。が、やはり、血を見て動揺している自分をどうしようも出来なかった。
二人はそのまま雑踏の中を歩き続ける。蒼乃は足が震えていた。初めて公園でちひろが人を殺すところを見た時のように、足が震え、世界が歪んで見えた。
「どうした。蒼乃」
ちひろが蒼乃を見る。
「・・・」
蒼乃は震えていた。ガタガタと傍から見ても分かるほどに震えていた。
部屋を植物で飾り、一人悦に入っていた自分がなんだかとても愚かな人間に思えた。今自分がいる世界はそんなおままごとみたいな平和な世界じゃない。ここは人が決して超えてはならない、その一線を越えた世界。人を殺す世界。
「・・・」
自分が今その世界にいることを、その世界に加担していることを、実感し、蒼乃は怯えた。
蒼乃は隣りのちひろを見る。ちひろは、全く動じた様子もなく、ちょっと散歩にでも出ているといったように落ち着いている。微かに鼻歌すら歌っている。いつものアニメの主題歌だ。しかし、その手はやはり真っ赤に濡れていた。
その血の色は生きていた。それは、血だった。確かに人の血だった。
ちひろは大きな商業ビルに入ると、そのまま、ビルのトイレに入り、そこで手を洗った。きれいに清掃された洗面受けが真っ赤に染まっていく。背後を何人か通り過ぎたが、誰も気に留める者はいない。何かケガでもしたのだろうくらいにしか見ていないのだろう。それにちひろは、世間ずれしたど派手な格好をしている。あまり関わりたくないというのが世間の反応なのだろう。確かに完璧だった。
部屋に帰っても蒼乃の体の震えは止まらなかった。蒼乃は一人ピンクのソファに座って膝を抱え震え続けた。
「あの人は、死んだ・・。死んだよね?」
蒼乃は自分に自問するように問い続ける。
「人が死んだ」
あの時に見た倒れてゆくサラリーマン風の男の姿と、ちひろの手についた生々しい血の色が蒼乃の頭から離れなかった。
ただ怖かった。蒼乃はただ人の死が怖かった。蒼乃は自分の体が冷たくなっていくのを感じた。
すると、ちひろが蒼乃の隣りに座った。そして、体をまるめるようにして、その小さな体を寄せて来た。
「ちひろ・・」
それがちひろなりのやさしさなのだと、蒼乃は分かった。
「ちひろ・・」
蒼乃もちひろに体を寄せた。ちひろの体は温かかった。
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