第3話 青を重ねた空

 次の日、また蒼乃は同じベンチに座っていた。今日も空は青に青を重ねたみたいにきれいに晴れ渡っている。日差しが心地よく、明るい活気に満ちた空気感が辺りを包む。

 蒼乃は今日も図書館には行かず、ここに直接ここにやって来ていた。蒼乃は昨日の少女にまた会えたらいいなと思っていた。そして、なんとなく、昨日の少女にまた会えるような気がしていた。

 グゥ~

 蒼乃のお腹が鳴った。気づけばもうお昼前だった。朝も殆ど食べずに出てきてしまっていた。朝はいつも母はまだ寝ているので、蒼乃は適当にパンなどをかじるくらいだったが、それすらもなんだか最近は億劫で殆ど食べていなかった。それでもお腹は空いているが、蒼乃はなんだか食欲は感じなかった。

「もう会えないのかな」

 蒼乃は膝に肘をつきその手に顎を乗せ、そんなマイナスなことを思った。もう帰ろうか。それとも図書館へ行こうか。蒼乃は考えた。結局今日も学校へは行けなかった。昨日の凄まじい形相の母の顔が頭に浮かぶ。

「はぁ~」

 蒼乃は小さなため息を一つついた。蒼乃の心は、牛乳が水にふわふわと溶け込むみたいに、憂鬱のブルーに浸されていった。

「ため息をつくと、その度に幸せが一つ逃げていくんだよな」

 蒼乃は、昔そんなことを誰かから聞いたことを思い出した。しかし、そのことを思い出し、またため息を一つついてしまった。

「あっ」

 その時、ふと、足元に小さく動くものを見つけた。

「ミーコー」

 いつの間にか蒼乃の足元に、白に薄オレンジ色の子猫がやってきていた。公園に捨てられた子猫だった。蒼乃は、時々現れるその子猫をミーコーと勝手に名づけ、かわいがっていた。

 ミーコーは、蒼乃の靴下に付いている毛糸の小さなボンボンみたいな丸い玉を、まだ不器用な前足でいじり遊び始めた。

「ふふふっ」

 その姿が何とも無邪気でかわいらしく、蒼乃は思わず笑顔になった。

「かわいい」

 いつしか沈んだ心も、ミーコーのその愛らしい姿を見ているうちに薄れていった。

「ねえ」

「えっ」

 直ぐ近くから突然声がして、蒼乃が驚いて横を見た。

「あっ」

 あの白髪がそこに輝いていた。それは紛れもなくあの少女だった。

「・・・」

 蒼乃は呆然とする。昨日の少女が、いつの間にか昨日とまったく同じ場所に同じ格好で座っていた。

「ねえ、あなた学校に行ってるんでしょ」

「えっ」

 少女は、蒼乃の緑のチェックの制服のスカートを、その丸いサングラスの奥から見つめていた。

「う、うん・・」

「だったら、分かるわよね」

「えっ・・、何が・・?」

 蒼乃は、戸惑い見返すように少女を見る。

「何がって、分かるでしょ」

「えっ?・・」

 しかしそう言われても蒼乃には全く分からない。しかし、少女はそんな混乱する蒼乃をよそに、今日もよく晴れている真っ青な空をゆったりと見上げ、噛んでいた風船ガムをふくらませた。

「なんで、こんなにクソなのかしら」

「・・・?」

 蒼乃は、少女を見た。

「ねえ、生きるって、なんでこんなにクソなの?」

 少女は蒼乃を見た。それはゾクッとするようなとても冷たい目だった。

「あなた学校行ってるんでしょ」

 少女は首を傾げ、蒼乃をさらに深く見つめる。

「えっ、・・・、うん・・」

「だったら分かるでしょ」

「・・・」

 それは蒼乃にも分からなかった。

「・・・」

 それは正に蒼乃が訊きたかったことだった。

「・・、学校ではそういうことは教えてくれないの・・」

 そういうのが精いっぱいだった。

「じゃあ、一体何を教えるっていうの」

「・・・」

「こんな大事なことを教えないで、一体何を教えるっていうの」

 少女は本当に分からないといった表情で蒼乃を見る。

「・・・」

 しかし、そう言われても蒼乃には答える言葉がなかった。蒼乃は黙って俯いた。

「学校で教わったことは、この世は絶望だってこと・・」

 蒼乃は口元で小さく呟いた。

「まったく、何もかもクソね」

 少女はため息交じりに呟き、ベンチの背もたれに大きく持たれると、再び真っ青な空を見上げ、風船ガムをふくらませた。

 蒼乃の足元では、ミーコーがまだ無邪気に蒼乃のソックスのボンボンにじゃれて遊んでいた。

「ねえ」

「ん?」

「ねえ、後ろのベンチに男が座ってる?」

「えっ?」

 昨日と同じことを訊かれ、蒼乃は再び昨日と同じ後ろのベンチを見た。

「うん、座ってる」

 昨日と同じ痩せた男がそこに座っていた。

「あれ!」

 蒼乃が隣りを見るともう少女はいなくなっていた。昨日と同じように、その姿は忽然と消えてしまっていた。 

「・・・」

 蒼乃は茫然と、少女のさっきまでいたベンチを見つめた。まるで幻を見ていたかのような錯覚に似た感覚に蒼乃は包まれていた。でも、同時に紛れもなく彼女は存在したという確信もあった。

「・・・」

 蒼乃は何も考えられず、しばらく茫然としていた。

 その時、遊び飽きたのかミーコーが、突然蒼乃に背を向け、どこかへ向かって歩き始めた。

「・・・」

 いつもはそのままほ放って置く蒼乃だったが、何となくこの日はミーコーの後について行ってみようと思った。それはほんとにただの気まぐれだった。

 ミーコーは公園の周囲を巡り、公園を突っ切るように公園の真ん中辺りにある、植え込みの茂みの中に入っていく。蒼乃も姿勢を思いっきり下げて、その後に続いて入っていった。

 植え込みを抜けると、そこはぽっかりと都会とは思えない全く別世界の森のような空間が開けていた。

「わあ」

 思わず蒼乃は声を出した。

「こんなところがあったんだ」

 蒼乃も何度も来る公園だったが、こんな場所があるなんて初めて知った。ここは、この広い公園の盲点のような場所だった。

 チチチッ

 野鳥が鳴いている。そこには森の匂いがあり、音があった。

「ラッキー」

 思わず蒼乃は心の中で叫んでいた。今度はここで図書館で借りた本を読もう。蒼乃は思った。それはさぞかし気持ちいに違いない。蒼乃は少し気持ちが弾んだ。

「ん?」

 その時、何か人の気配がしてその方を蒼乃が見た。すると、木々の向こうの少し開けた空間の真ん中辺りに誰かがいた。蒼乃は驚いて、目の前の木の陰に身を隠しその人影を覗き見た。

「あっ」

 それはさっきの少女だった。少女は少し笑みを浮かべ、そこに立っていた。

「あっ」

 さらに、その前には、蒼乃がベンチから振り返り確かめたあのスーツを着た男性が、腰を抜かすようにして少女の前にへたり込んでいた。そしてその男性は激しく震えていた。

「・・・」

 蒼乃は二人が、何をしているのか全く分からなかった。しかし、ただならぬ状況であることは分かった。蒼乃は緊張した・・。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る