閑話 灰に埋もれた記憶
かつて、火炎の竜がいた。
火炎の竜が住まう場所の火山はより一層活性化し、頻繁に噴火していた。
人里に住み、火山の被害に悩んでいた人間たちは火炎の竜を恐れ、討伐しようとするも、火炎の竜が纏う炎によって、近づくことすら出来なかった。
だが、人間が受けたのは被害だけではなく利益もあった。
それは地下のマグマの活性化により、温泉が湧き出続けたことだ。
彼らは火炎の竜を畏れたが、火炎の竜を荒神と称し祭り上げ始めた。
その恩恵を感謝するように供物を捧げていった。
火炎の竜も最初はそんな人間たちの行動を不思議がっていたが、悪くない関係だったため徐々に受け入れていった。
その関係は続いていくと思われたが……ある供物を捧げられてから火炎の竜は変わってしまった。
それから数十年が経ったある年。
その年は酷い噴火が何度も起こった年だった。
◇◇◇
「ずいぶんと機嫌が悪いではないか、ヘルフリート」
人が居れば一瞬で炭になってしまうほどに火の元素に満たされた火口の中。
グツグツと煮えたぎるマグマに浸かり、その光に照らされた赤き竜……ヘルフリートはうんざりしたように声をかけてきた相手を見る。
「……レヴァリスか」
人の入れぬ火口に、いないはずの人がいる。
それは波を映し取ったように透けた美しい髪と、湖畔に反射した月の色を瞳を持っていた。
人と呼ぶには人外離れした美しさを持つそれは、正しく水が人の形をしただけのもの――水竜レヴァリスがそこにいた。
「何のようだ」
「あれだけ火山が噴火して、火の元素が多くなれば気になるものだ。私としても困るのだよ、水は火に弱くもある。私の縄張りを全て蒸発させるつもりか?」
「ならば水を増やせ。火は水に消えもするものだろ」
「ヘルフリート……この世界で今、最強なのはお前だ。私ごときではお前の力、押し返せないのだよ」
四大元竜のパワーバランスのトップは火竜だった。
その次に地竜、そして水竜と風竜が並んでいる。
「私もこれでも人々には畏れられているのだがな。お前にはまだまだ叶わん。現在進行形で離されてもいるしな」
「それなら大陸の一つでも海に沈めてみることだ」
「火元素の流れが強い今に? 冗談が過ぎる。それに大地を沈めるとなれば、地竜の力も干渉してくるから無理だ。……それに面白くないことだ」
「何が面白くない? 自分の縄張りを増やすだけだろう?」
「大陸に住む人が大勢死ぬ。人の数が減り過ぎるのは良くない。それに……やるなら人に頼まれてしたいところだ」
「貴様は本当に人が好きだな、レヴァリス。そうやって遊ぶからいつも中途半端になる」
ヘルフリートの言う通りだ。
水竜という存在は気まぐれに人の願いを叶えるものだから、畏怖と信仰が混じり合って、人の中で評価が割れている。
恐ろしき火竜に比べて畏怖がなく、人の守護をする地竜に比べて友好的ではない、自由奔放で無名の風竜に比べては表に出過ぎて神秘性がない。
全てにおいてどっち着かずの竜こそが当時の水竜だった。
「バルムートほどではないさ。……それで、なぜお前は機嫌が悪い?」
「俺の機嫌を聞いてどうするんだ?」
「解決する。力で押し返せないのだから、原因の解決をした方が良いだろう? それに我が同胞に手を貸すのも悪くない」
「本当に貴様は気まぐれだな。こうして二百年ぶりに会うが、その時はいきなり襲って来たというのに」
「試したかったのだよ、竜を殺せば死ぬかどうか。お陰で今、こうしてまたお前に会いに来る羽目になっている」
火竜とやり合うのは面白かったが、結局は勝てない相手だった。
それどころか、その一戦のせいで世界の認識は火竜を最強に押し上げ、水竜を三番目に置いた。
「貴様は水蒸気になってしばらく彷徨っておったな」
「あれはあれで面白かったがな。……あの状態でも死なんとは、つくづく竜は不死身の存在らしい」
「次は殺してやろうか?」
「出来ればそうしてくれ。死というのも面白そうだ」
「……出来ればの話だがな。この世の全ての水を消し飛ばさん限りは貴様は殺せそうにない」
「そうか、それは残念だ」
「何を残念がる。現状が続けばそうなりそうだが?」
「私は世界まで滅ぼすつもりはないぞ、ヘルフリート」
現状のバランスは火の元素が強すぎる。
火の元素がさらに強まれば、確かにこの世全ての水を消し飛ばすこともできそうだ。
だが同時に、世界が終焉の業火にも包まれるだろう。
「漸く合点がいった。……元素の均衡を保つ為に来たか、レヴァリス」
「火竜の頭を冷やすことを、地竜や風竜では出来んからな」
やれやれと言ったようにわざとらしく肩をすくめる。
そんな水竜の姿を見て、火竜は呆れたように笑う。
「嘘つきめ。同胞の為でなくただ世界の理に従っただけではないか」
「同胞の為でもあるし、そして人の為でもあるのは本当だ」
この世界は元素の均衡が崩れると、それを元に戻そうとする動きをする。
それは数多の人々の願いが折り重なった結果とも言える。
水竜が火竜の元に訪れたのも、そんな動きに流されたからだ。
火竜を落ち着かせ、火の元素を弱めて欲しいという……そんな流れに。
「何があった、ヘルフリート。火の元素を暴走させるなど、お前らしくもない」
同胞であり友の名を呼びながら聞けば、火竜は空を見上げる。
丸い火口がぽっかりと空き、噴煙が空に登っている。
「……トウカが死んだ。それだけだ」
「トウカ? 誰だそれは」
「人間だ。以前、生贄として火口に放り込まれた女だ。俺はそいつを生かし、しばらく一緒に過ごしていた」
「……まさか、それだけか?」
「それだけだ」
……まさかとは思った。
あの火竜がまさか、こんな理由で腑抜けになったのか?
たかが人間一人が死んだ、それだけで。
「そうか……お前もバルムートのようになったか」
地竜もかなり前に同様のことがあった。
地竜が親友と呼んだ人間が死んだのだ。
その時の地竜の落ち込みようは、深い渓谷を幾つも作り出すほどの荒れようだった。
「トウカを愛していた。……トウカと共に過ごす時間は今までの何よりも輝いていた。なのに、彼女はもう居ない」
火竜の悲しみを表すように、火山はまた噴火した。
「……違うな。
「どう言う意味だ、レヴァリス」
「彼女がお前に望んだのだ、
煮えたぎるほどに熱い熱を冷ますような、冷たい雨が降り出した。
ジュとマグマに当たった雨が蒸発して水蒸気となっていく。
「人というものは世界を望むままに作り変えるのは知っているだろう? 有象無象の願いを世界は受け入れる。その多くは人々の望みを受け入れるが……」
共通の望みは受け入れやすい。
それだけの願いの数を集めた力なのだから。
だが、もしもだ。
たった一人の強い願いが、数多の人々の願いの力よりも勝るならば。
それは現実になってもおかしくはない。
「……お前はたった一人に望まれた。愛してほしいという願いに」
以前の火竜が人を好きになることはなかった。
火竜は人をその辺にいる生き物の一つにしか認識してなかったはずだ。
その認識が変わったのは、荒神として祀られるようになったからか。
祀られたせいで歪まされたのかもしれない。
ただの生き物から、意思疎通のできる一つ上の存在に。
「つくづく人間というのは、我々を振り回すものだな。ヘルフリート?」
「……違う。俺はきちんと彼女のことを愛していた!」
「刷り込まれただけだ。その気持ちも全て、彼女がお前を作り変えた」
たかが人間一人に、興味を持つことなどなかった火竜だった。
「俺は……俺はトウカを……」
このように、情けない姿を晒す火竜ではなかった。
「愛していた……」
こんなにも、弱い存在ではなかった。
「……ヘルフリート、お前のそんな姿を見たくはなかった。お前は圧倒的強者として君臨し、弱みなどない存在としていて欲しかった」
今は違う。
かつての火竜の姿はない。
そこにいるのは、悲しみに暮れるだけの存在。
今話したことすらも受け入れようとしない。
いや、受け入れられないのか。
「お前をそのように
その言葉に火山は噴火した。
火竜の怒りを表すように。
目の前の存在を焼き尽くすために。
「実に残念だ、ヘルフリート」
――雨足はさらに強くなった。
火と水、互いの元素の押し付け合い。
火はマグマとなり大地を焼き尽くし、水は激流となって全てを押し流した。
かつて火竜と水竜が戦った時と同じで、それでいて違う。
あの時の火竜は水竜など眼中になかった。
鱗を焦がし、体の水を沸騰させ、己を蒸発させた。
圧倒的強者の力を纏った火竜にとって、水竜とはマグマに一滴落ちてきた水滴そのものだった。
だからこそ、次は燃え滾るマグマごと押し流してやりたくなった。
……いつかその眼に、強者として映るために。
今もまた、火竜は水竜を見ていない。
いや、火竜はもう何も見えていない。
もう居ないはずの幻影しか、見えていない。
「……弱くなったな、ヘルフリート」
周囲を巻き込み、破壊の限りを尽くして、火竜と水竜の戦いは終わりを告げた。
戦いは水竜の勝利に終わった。
火竜は確かに強かった。
だが精神面が乱れており、まともに戦うことが出来ていなかったのだ。
「いや、お前が人々に望まれなくなったからか」
人々の畏怖こそヘルフリートの力の根源だが、同時に存在の排除を人々は願った。
乱れた火の元素を消せと願う人の願いに流されてやってきたレヴァリスはその流れの後押しを受けていた。
それらの要因がなければ、本来であれば勝てない最強の相手だった。
乱れた炎は勢いを失って、水にただ流され消えていく。
この世界に否定されるように。
「……ト、ウカ。トウカ……」
火竜の灼熱の赤に染まっていた鱗は今は冷え黒くなり、竜の姿に戻った水竜に踏まれていた。
ざあざあと降り止まぬ雨の中で、火竜はうわごとのように女の名前を呼び続ける。
「たった一人の人間の願いでこんなにも壊れるとはな……。本当は目を覚まさせてやるつもりだったが、これではもう無理か」
虚な目で火竜は宙を見ている。
今だに幻影を探して。
「そして最後には人々の願いに否定されるとはな。……だからお前のために、殺してやる」
その言葉に反応するように、虚だった目がやっと水竜を映した。
「殺して……くれ、るのか?」
「ああ」
竜に寿命はない。
不死身の存在だ。
水竜は体を水蒸気のように元素のままバラバラにされても、それでも生きていた。
そう、そこまでされても、まだ
「俺は……死ねるのか?」
「それはお前がこれから証明することだ」
竜の死をこの世界はまだ知らない。
だから、竜の死を創り出し、世界を変える必要がある。
今ならばそれが出来る。
何せ、世界のバランスを崩し、脅威になりかねない火竜の存在を、世界は否定し始めている。
――人々は火竜の死を望んでいるのだ。だから可能なはずだ。
今ならば、竜の死を世界に刻める。
火竜の死を持って、竜神の不死を否定するのだ。
そのために、水竜はここに導かれたのだから。
「死んだら……トウカに、会えるか?」
「……ああ。だから、安心して死ね」
その言葉と共に、火竜の体に水の刃が突き刺さった。
針山のように突き刺さった刃はすぐに形を崩して、水として流れ落ちていく。
後に残ったのは冷えて固まったマグマの塊のような、火竜の骸。
「たった一つの愛が、世界を焼き尽す呪いになるとはな……」
きっと死んでいった女はこうなるとは思わなかったはずだ。
ただ相手を愛して、相手に愛された。
それだけだった。
違ったのはその愛が強すぎたこと。
そして、愛した相手が竜だったことだ。
愛した人が死に、自分は死ぬことができずに残される。
自暴自棄になった火竜は火の元素を暴走させたのだろう。
世界が滅びれば、世界の理に関わる元始の竜もまた滅ぶものだ。
「……また嘘を言ってしまったな」
最後に火竜にかけた言葉は嘘だった。
人は死んだ後に会えるというが、竜も同じとは限らない。
竜が死んだ後、どうなるかなんて決まっていない。
そうあって欲しいと願えど、誰が竜の願いを叶えてくれるというのか。
人々は願えば、世界が叶えてくれるというのに。
――本当に理不尽な世界だ。
「父上!?」
バシャバシャと、雨の中を走ってくる小さな影があった。
それは小さな人の子だった。
「そんな……父上……」
「父上? お前の父とはこれのことか?」
足元に転がったままのそれを見やる。
「そうじゃ! 妾の父上を……よくも!」
「……不思議だ。竜には生殖能力はない。人と子を成すなど可能では……いや、可能にしたのか」
望んだから、出来た。
それだけの話だ。
火竜を変えるほどの願いをした人間だ、それくらいはできるだろう。
文字通りの愛の結晶といえようか。
「だが、そうか。……これは面白い置き土産だな」
なるほど、この手があったか。
――あの女には
「ヘルフリートの娘よ、話をよく聞け。お前の父は死んだ。……そしてこれからは、お前が火竜となる」
「わ、妾が?」
「娘よ、お前の名前はなんだ?」
「……ヒノカじゃ!」
ヒノカと名乗った少女は、小さな身で震えながらも水竜を見上げて睨み付けていた。
「では
名を呼んで意味を刻み込む。
世界に役割を認めさせる。
今より彼女が火竜であると、決め付けるように。
「妾が……火竜じゃと?」
「ああ。だが、最初は大変だろう。ヘルフリートの奴が暴走させて増やした火の元素はそのまま残っているからな。アレはお前では制御できん」
ザアザアと降り続く雨は、今もまだ残るヘルフリートの残留を鎮めるもの。
それでも増え過ぎた火の元素は今もまだ周辺地域を焼き焦がしている。
それは止まぬ噴火であったり、消えぬ山火事であったり、続く日照りであったりと様々だ。
これらの出来事はいずれ人の世では火竜が死亡したことによる力の暴走であるとされるだろう。
実際には暴走が先であったが。
「だが、私がヘルフリートを殺した。この事実は水が火を消すような効果がある。だから、あと十年か二十年もすれば落ち着くだろう」
燃える火に水をかければ消火できる。
火竜を殺したことで水竜の力は今、最強となった。
元素のパワーバランスはそのまま竜のパワーバランスにもなる。
増えすぎた火の元素を上回る程に、水の元素は今後増えていくだろう。
「その後はお前次第だ、二代目の火竜よ」
半人半竜であるが故に最初は力を満足に出せぬだろう。
この国の国民性から、いずれ彼女は失落の烙印を押される。
近い将来、父親と同じく存在を否定され、排除を願われることだろう。
だが、半人半竜の存在こそが彼女に残された希望だ。
――そこには母の愛がある。たった一人の願いが。
その愛は世界の理を変え、世界に終焉の劫火を呼びかけたほどの願いだ。
その願いから産まれた存在が、たかが一国分の人々の願いに負けるわけがない。
いずれきっかけがくれば、彼女は人々の願いを跳ね飛ばして、火竜として君臨することだろう。
「ま、待て!!」
要はもう済んだ。
翼を広げ、水竜は飛び立つ。
土砂降りの雨の中を泳ぐように。
「水竜レヴァリス! 妾はお主を許さぬ! いつか、お主を必ず殺してやる!!」
「ならば、私はそれを楽しみに待っている」
雨の中であっても、両者の声はよく響いた。
――この日の出来事を人々は知らない。
水竜レヴァリスが火竜ヘルフリートを殺し、二代目火竜ヒノカが誕生した。
この事実のみを知ることになる。
それ以外は残らず消えていく。
灰の中に埋もれて、消えていくのだ。
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