【飽きた】〜もし、君を選んでいたら〜

@nora-noco

第1話 プロローグ

手術室は異様な雰囲気だ。


手術操作で血液を見続けることによる「色残像」を軽減するため、壁は青緑色に塗装され、手術対象の存命を示す生体モニターの無機質な電子音が、等間隔にひたすらに鳴る。


本来、一生光を浴びることのない内臓が無影灯に照らされ、切られ、焼かれ、縫われるという非現実的な空間で、


「ハセショウ」


はい


「3-0絹糸」


はい


「メッツェン」


はい


医師と器械出し看護師の間を手術器具が行き来する単調なやりとりを、明はぼんやりと頬杖をついて眺めていた。


後輩の器械出し看護師の、覚束ない手技をぼんやりと眺めていても、明の耳は生体モニターの音に乱れがなく正常であることを逐一聴いており、無理のない手術体位になっていないかと、深い眠りにつく患者の代弁者となるよう外回り看護師の仕事をしっかりとこなしている。


手術室看護師に配属されて8年目の明は、特に異動も退職も、今後のことを一切何も考えておらず、更には向上心も出世欲もないという典型的な現状維持主義者の1人である。


強いて言うと、

「今日の晩飯なんだろう?」

と妻の作る夕食のことが、精一杯に考えられる今後のことである。




「明さん、あたしの華麗な器械出し、見てくれてましたか?」


手術終了後、麻酔から目を覚ました患者が退室となった閑散とした手術室で、先程まで器械出しをしていた後輩看護師が悪戯な声色で明に問うた。


「うん、完璧。惚れ惚れしたよ」


端から思ってもいないことを口にし、人を良い気にさせるのが明の人垂らしな所である。

現に、明を嫌っている同僚は1人もいない。

その後輩も、えへへとマスク下で口を綻ばせているに違いない。


「やっぱり明が外回りだと、緊張しなくて済むぁ」


「おい」


ふいに明を呼び捨てにする後輩に、明は嗜めた。


バツが悪そうに首をすくめ微笑んだその後輩は、バイバイ、という仕草を見せて使用した手術器具を台に乗せ、洗浄室に片付けに手術室から出ようとする。


「あ、美波。忘れ物」


空気に触れ凝固した血のついた鑷子が、ガーゼ受けに置き忘れていることに気付いた明は後輩を呼び止めた。


美波は、インシデントになるとこだった、ありがとう。とそれを手に取り、器械を乗せた台を少し重そうに引いて手術室から出て行った。




明の住むマンションは、職場の市立病院から車で15分程度に位置し、築浅であるため外観は真新しく、近所にスーパー、コンビニ、薬局が徒歩圏内にあるという好立地である。


エントランスはオートロック式であり、鍵を鞄から取り出すことがいつも億劫である明は、部屋番号の3桁を押してインターホンを鳴らした。


年の瀬も近く、冷え切った夜7時の空気が明の体にまとわりつきはじめる前に、


「おかえりー」


とインターホンのスピーカーから少し歪んだ返事の後に、エントランスの施錠解除の音が響いた。


エントランスを抜け、階段を登る途中でガチャリと扉が開く音が、上の階から聞こえた。


玄関の扉から顔を覗かせる妻の姿が見たくて、階段を上がる明の足は無意識に速くなる。


「おかえり、お疲れ様」


ただいま、と玄関の鍵を施錠する前に、屈託ない笑顔を見せる妻、はるかを明は抱きしめる。

玄関先まで香る料理の匂いで、明の空腹度は限界まで達した。


「今日は当直明けだから、張り切って作ってみた」


2人暮らしには少し大きい4人掛けダイニングテーブルには、パエリア、白身魚のアクアパッツァ、一口サイズに切られたミートローフで彩られていた。


はるかはまるで小型犬ように、褒めて褒めてと言わんばかりに頭を突き出してくる。


「えーっと、今日って何かの記念日だっけ?」


はるかの艶やかな髪を撫でながら、少しだけ恐れ慄きながら聞いた。


「んーん、ただ何となく調理意欲が湧いただけ」


「当直明けなのに凄いな」


「夕方近くまでずーっと寝てたから大丈夫だよ」


明は労いと感謝を告げるともう一度、先程よりも強くはるかを抱きしめ、軽くキスをした。


「きゃー」と無垢な少女のように手で顔を覆い、照れる素振りを見せるはるかは跳ねるように明から離れると、自慢気に自身の料理の説明を始めた。


そして、自分がウェイトレス兼シェフ役、明はゲスト役という三文芝居を始まり、記念日でも何でもない豪華なディナーを2人で楽しんだ。


結婚して2年目の、割とよくある夫婦の光景であった。


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