忘れられし呪いの産声

 カイナは気付けば、こぶしの中に汗を握っていた。

 くちびるが乾いて、舌でめてもその感触がない。

 緊張状態は向こうも同じようで、魔王オロチは涙で揺れる目をカイナに向けてくる。そして、そんな彼を背にかばってカエデが前に出た。

 周囲の魔物たちも、恩人にして王であるオロチのために集まり始める。

 殺気の坩堝るつぼの中、カイナの中で怒りが再燃する。

 再び右腕を得たことで、結果的にわかった。

 自分の努力で取り戻せないものを、確かにカイナは失った。左腕を斬られようと、両足をもってかれようとカイナは立ち上がるだろう……だが、自分の意志ではどうにもならない喪失は、あの日からずっと胸の奥にくすぶっていたのだ。


「話し合い、希望する。だが、俺は……ッ!」

「わかるよ、カイナ。僕もね……怖いんだ。君のような強い人間が、怖い。僕たちは皆、人間によってしいたげられてきた。それは、僕たち魔族がもともとこの世界の民……ユグドルナの民じゃないからさ」

「なに? それは……いや、過去の話などどうでもいい。俺も、今は忘れる! ――ッ、グ! ウッ……おおおっ! 魔王オロチィ! 語るぞ! 話そう! 未来を!」

「ひっ! わ、わかったから……怒鳴どならないで。えっと、周りのみんなも、怒らないで」


 唇を噛めば、左の拳は食い込む爪の痛みを握り締めていた。やり場のない怒りといきどおりが、ここにきて再噴火した。感触のない右腕でさえ、力めば軋むように小さく唸る。

 震えるシエルを安心させるためにも、カイナはありったけの理性を振り絞った。

 怒りに任せて復讐を果たせば、その時からカイナは多くの魔族、そして魔物の狙うかたきとなる。オロチは死ぬことで、決して朽ちぬ永遠の英雄となってしまうのだ。

 またオロチが涙ぐむので、カエデが前に来て周囲を見渡す。


「みんな、落ち着いてください。オロチ様はこれから、この人間たちと話し合いを持ちます。それを邪魔する者は、オロチ様の意思を害すると知りなさい!」


 流石さすがは魔王軍の将、くれないの死神が放つ言葉は凛冽りんれつたる覇気だ。

 あらゆるモンスターが、牙や爪を納めて下がる。

 カイナとて、この数の敵を相手に戦うことは不可能だ。また、オロチのみを倒したところで、なにも事態は好転しない。

 ならば、まずは話すしかない。

 怒りや悲しみよりも先に、これからのことが必要だった。


「……こういうのはセルヴォの領分なのだがな。まあ、いい。怒鳴ってすまなかった、オロチ」

「あ、いや、いいんだ。なんだかごめんね、情けない魔王で」

「お前たち魔族には魔族の正義があり、それはお前のよって立つものだろう。だが、お前は俺の前で王を殺し、以前は幼馴染を……カルディアを殺した」

「そう、だよ? そして、人間たちも魔族を沢山殺した。奴隷にしたし、なぶっていじめた。ほら、僕の角……右の角が折れてるだろう? これは、僕の飼い主がやったんだ」


 オロチのひたいには、一対の立派な角が生えている。

 だが、右の角は途中でへし折れていた。

 魔族は皆、頭部に角を持っている。

 それは彼らの象徴でもあり、血統を示す聖なるものでもあるのだ。


「よし、お互い言いたいことは言ったな? では、なにから話す。俺に、人間たちに対してお前たちはなにか要求、主張、そういったものはあるのか」

「あ、えと、えっとね。とりあえず、魔族をいじめないでほしい」


 オロチはカエデの影に隠れながら、ぼそぼそと現状の変更を訴えてきた。エルフやドワーフ、ホビットがそうであるように、魔族も亜人の一種として接してほしいと。広義の意味ではゴブリンやコボルト、オークもだ。

 生活を共にし、みんなで仲良くというのは、これは無理である。

 それはオロチも望んではこなかった。


「お互い、一緒にやれることだけやって、あとは……住み分け? そう、無理に仲良ししなくてもいいかなって思って。だから」

「ふむ、そうだな。時には、挨拶を交わす程度で深入りしない関係も大事かもしれん。俺の一存では決められないが、その求めに必ず返答を用意しよう」

「う、うん。だから……僕たち魔族にも、国がほしい。住み分けるとしても、人間たちから逃れて向かう先、居場所が必要なんだ」

「当然だ」

「だから……ぼ、ぼっ、僕は、戦争を起こした。そして、勝った、よね?」

「……そこまで言われると、俺の手には余る話だ」


 カイナは学がない、ただ拳を振るうだけの男だ。

 セルヴォのような頭の良い男ならば、多少はいい知恵で妙案を思いつくかもしれない。それに、もしかしたら既に対話は交渉の段階に進んでいるらしい。

 だとしたら、カイナはさらなる不利を自覚した。

 自分が駆け引きや腹芸のできる男ではないと、カイナは知っている。

 シエルも上ずる声で、そっと言葉を差し込んできた。


「とりあえず、オロチ。俺たちは王国の一員、そして俺たちの統治者は……さっき君が殺した国王だ」

「……あ。そ、そうだよね。そうだった……ゴメン」

「いや、謝られてもなあ。それにしても、俺たちと対話する一方で、国王の殺害に躊躇ちゅうちょがなかった。矛盾してやしないかい? それこそ、王と交渉して国をもらうべきだったのに」

「それは、できないっ! できないよ!」


 不意にオロチが、大声で大声を張り上げた。

 それは、カエデでさえ驚くような声音だった。


「僕には、許せる人間と許せない人間がいるんだっ! だってそうだろ? 君だってそうだ、カイナ。僕が許せるか? あの少女を殺した、この僕が」

「……よせ。許せぬとわかっていても、俺は自分をこらえることができる」

「そういう君だから、話に応じた。一度戦ったし、カエデからも話を聞いている。君やもう一人の、ええと、セルヴォ? そう、僕は王より君たちと話がしたいんだ」


 そして、おどおどしつつも興奮した様子でオロチが前に出てきた。

 その目は今にもまぶたが決壊して、大粒の涙が零れそうだった。


「王は倒れ、王国は滅びた。そして君たちは、レジスタンスは……実質的に今、人間を代表して戦っている唯一の組織、だよね?」

「そうだ」

「昨日、平原で再び激突した。もうすぐ、その結果が念信ねんしんで……ああ、君たちは今、その腕輪があるから受信できないか。でも、僕の仲間たちが知らせてくれる」


 どうやら、共存と調和の意思はあるらしい。

 そしてそれは、魔族側がイニシアチブを取りたいとオロチは言っている。勿論もちろん、拒絶すれば人間たちは滅びるだろう。エルフやドワーフといった亜人たちは、この戦いに消極的だ。そして、魔族を手ひどく差別してきたのもまた、人間だけである。

 だが、カイナは背後で響く声に振り返った。


「ちょい待ちっ! ちょっとちょっと、オロチ君っ! キミね、こすっからいよっ!」


 ユウキだ。

 彼女は半分透けた羽衣はごろものようなドレスを着せられている。自然とスタイルの良さと、優美な曲線の起伏が浮かび上がっていた。そしてご丁寧に、頭部には魔族の角を思わせるティアラまで載せている。

 だが、ユウキは毅然きぜんとした表情でこちらへ強い歩調で歩いてきた。

 そして、カイナの横に並ぶと、真っ直ぐオロチを見据えた。


「前もわたし、言ったよ? 話し合いで解決はいいと思うけど、それを有利にすすめるために戦争を起こして、その勝敗をちらつかせて揺さぶるのは」

「ユ、ユウキ、でもこれは大切な交渉なんだ。僕はね、弱いから……弱虫だから、こういうふうなやり方がいいと思って。ある程度の犠牲は必要だし、仕方がないんだ」

「そゆことはさ、やってみてから言おうよ。わたし、それだったら協力したのに。そりゃ、その、救世主? 勇者? そういうのは微妙だけど」

「……僕は、でも、知ってしまった……召喚術で地球から、君が来て……」

「そこよ、そこ! わたしに説明してくれてない。突然追い出された! ……ねえ、オロチ君。みんながみんな、仲良くはできないかもしれない。けど、仲良くしたい人がいるのも事実だと思うな、わたし」


 ユウキの登場が、流れを変えた。

 正直、カイナはポーカーフェイスの裏で冷や汗を拭った。やはり、ユウキは弁が立つ。利発的で言葉に嘘も迷いもない。

 こういう時は、ユウキのような勢いも大事なのだとカイナは理解した。

 周囲の魔物たちもざわめく中、オロチはぼそぼそと喋り出す。


「ユウキは、地球というところから来たんだ」

「ああ、確かニホン? だったな」

「そうだよ、カイナ。でも、そこは本来……。僕たち魔族は、もともとは地球に住まう民だった」


 にわかには信じられない話で、当のユウキ自身が驚いていた。

 だが、オロチはたどたどしい声を湿らせながら話す。


「かつて、ユグドルナと地球の間に戦争が起こった。ユグドルナの民である人間と、地球の民である魔族……戦いは長引く中で疲弊し、双方共に一切を断ち切り関わりを捨てたんだ」

「……初耳だな。シエル、どう思う?」

「実に興味深いね。なるほど、ではオロチ……君たちはこのユグドルナに取り残された魔族の末裔まつえいということかな?」


 静かにオロチは頷いた。

 どうやらカエデも知らなかった真実らしく、彼女も目を白黒させている。


「僕たち魔族は、地球ではオニ、オーガと呼ばれていたみたいだ。そして、このユグドルナを人間たちは閉ざした。地球と断絶するために、天界樹ユグドラシルを無数に植えて空を塞いだんだ」

「空を、塞いだ? 確かに天界樹は、その名の通り天を支える神木だが」

「天界樹は……あれは、地球へ帰りそこねた魔族の成れの果て。人間たちが自分で魔法を使うために、そのリソースとして魔族を作り変えたのが天界樹」

「……待ってくれ、話についていけん。だが、なるほど.本来、お前たち魔族はこのユグドルナにいない筈の種族。そして、かつて敵だった種族なのか」


 そして、その歴史を王国は隠蔽してきたという。オロチが真実を知り、飼い主から逃げて決起したのには、そういう訳もあった。

 そして、彼の元の飼い主は意外な人物だった。


「僕は、ずっと王都で飼われてた。王族の一人に。そして、知ったんだ……王家は、大量の歴史の記録、このユグドルナの神代かみよの書物を隠していた」

禁忌きんきの術やなんかを、王家は管理していたからな」

「僕は思った……遠く離れた本当のふるさと、地球。そこに魔族全員で逃げようと。でも、それは難しいし時間がかかる。逆に、地球からオニ、始祖より血を受け継いだ勇者を召喚しよう! って」


 そして現れたのが、ユウキである。

 勿論、魔族ではないしオニとかオーガとかいう存在でもない。

 オロチは混乱する中で、一つの結論に至った。


「ユウキは、言ったよね? ……地球にもう、オニなんていないって」

「ええ。それは何故だと思う? わたし、そのことも話そうとしたのに」

「みんな、殺されたんだっ! 人間に! こっちに僕たち魔族が取り残されたように、向こうにも人間が取り残されたんだ。そいつらに、みんな……地球のみんなは!」

「待って、論理が飛躍し過ぎてる。えっと、もうちょっと落ち着いて話さないと」


 オロチは呼吸を荒げて、既に肩を上下させていた。

 その表情は既に泣き出していたが、鬼気迫る眼光だけがギラギラ輝いている。


「と、とにかく、僕たちは戦って勝った! でももう、地球への移住……帰還は、無理だ。地球はもう、人間の土地なんだ。だったら……このユグドルナにある国を、もらうしかない!」

「……言いたいことはわかった。はからずも、王家は倒れ国が崩壊してしまった。俺たち人間もこれから新しい生き方を探さねばならないが、お互いの着地点を――」

「う、うう……駄目だ。また、怖い人に言われたら……僕は、上手く話せなくなる」

「オロチ? 待て、少しは俺たちを信用してくれ。王とは違う道を探してみせる。探してなければ、作ってみせる」

「駄目だ、駄目なんだ……僕がしっかりしないと、誰もついてきてくれない。けど、怖いんだよ! もう、今だって怖くてしかたがないよ! 勇者カイナ、君は強くて、不屈の闘志を持った勇者だよ! 正直もう、僕は逃げたいんだよ!」


 オロチは魔王としては、繊細で弱さが勝ち過ぎるようだ。

 世が世なら、もしかしたら彼のような人間こそが、平和のために求められる人材だったかもしれない。

 だが、彼は魔王として起った。

 同胞はらからのために敢えて、戦で自由を勝ち取るために挙兵したのだった。


「どうしよう、カエデ。ぼ、僕は間違ってしまったかも……ああ、震えが止まらないんだ。ゴメン、弱くてゴメン」

「オロチ様、構いません。私が終生お守りいたします」

「だ、大丈夫、きっとここから……ユグドルナから、僕たち魔族の国を切り取ってみせる。だ、だだだ、だから、カイナ。ええと、悪いけど、本当に悪いんだけど」


 事態が勝手に悪化して、どんどん悲劇的なバッドエンドに転がり始めた。対話というにはあまりに言葉が稚拙ちせつで、伏せられていたカードが多過ぎた。そしてもう、勝負を降りることはできない。

 だが、そんなカイナの窮地を親友の声が救うのだった。

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