承
その日、僕は久しぶりに外へ出た。遠方から親戚が来るためだった。僕がいない方が家族にとっても、親戚にとっても、そしてなにより僕にとって都合が良いのだ。
手には親から渡された一万円を握りしめている。今日日、たった一万円でどうやって三日間も過ごせばいいのか。僕は常日頃から両親のこのような世間知らずさが許せなかった。
僕は腹ただしかった。たった一万円でどこぞの親戚のために実の息子を家から追い出す両親が、暖房の効いたリビングで歓談しているだろう親戚が、寒空を彷徨う僕は腹ただしかった。
だからだろう。僕は歩行者信号が赤信号なことにも、横断歩道には大型ダンプカーが向かってきていることにも、全く気付いていなかったのである。
僕の身体は宙へと飛んだ。
あ、僕はここで死ぬんだ…。
僕は一面真っ青な綺麗な海を漂っていた。これはいつもの夢か。僕はいつの間にか部屋で眠ってしまっていたのか。親戚はもう階下にいるのだろうか。それならばまずいことになった。いま目覚めたところで家から退避することは適わないかもしれない。
しかし、どうにもこの浮遊感は現実のもののように感じて、いつものそれとは違っていた。
やがて真っ青な海に光が差し、光源が僕へと近づいてくる。そしてあの声が、夢でみた、彼女の声が聴こえてくる。
光源が身体全身を包み込み、そして、僕は水面から飛び出した。
光が眩しい。まだ目が慣れていないようだった。段々と目が慣れてくると、周りを見渡すことができた。僕は大きなチューブ型の水槽の中にいた。
僕は裸で、手足や胸、腹、身体中の至るところにケーブルが繋がれている。ちょうど心電図検査のような、いくつもの機械が並んでいる。その電気信号のグラフや数字は果たして僕の状態を表しているのだろうか。
「やっと目を覚ましたか。なかなかに面倒をかけてくれるな」
声のする方へ目を向けると、デスクの上に眼鏡を掛けた若い女性が脚を組んで座っており、こちらを見ていた。
女性は机から降りると僕のもとへ近づき、目に携行型のペンライトを当てたり、舌を出すように言って、僕の健康状態をチェックしているようだった。
裸のままの僕は非常に心もとなく局部を隠した。白衣に身を包んだその女性はとても美人だった。
この人は女神なのではないか。死ぬはずだった僕は、この女神によって異世界へと転生されたのではないだろうか。
「異世界…。君は何を言っているんだ。
…いや、これは覚醒時の意識の混濁か…。もしくは、まだ…。記憶が戻って…」
女性はぶつぶつと独り言を呟き、デスクに戻るとコンピューターのモニターや計器を確認しているようだった。
やがて、腰まで届く綺麗な黒髪を翻し僕へ振り向き、
「自分が何者か、身の上について何も覚えていないようだな」と言った。
何も覚えていないとはどういうことですか。確か、僕は車に撥ねられて、気付いたら海の中で…。女神さま、あなたが僕をここに呼んだのではないのですか。
「私が女神さまだって?」、女性は驚いた様子でその大きな瞳をさらに大きくさせると、すぐに床に目を伏せ、「クククッ…」と押し殺すように笑い出した。
しばらくその様子を怪訝そうに見ていた僕に気付いたのか、「すまないすまない」と謝り、ゆっくりと女性は語り始めた。
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