マイ・ファニー・ヴァレンタイン [Side Tedi version]

烏丸千弦

scene 1. Raindrops Keep Fallin' on My Head

 久しぶりに戻ったフラットは、なんだか異様に広く感じた。

 いま住んでいるヴィノフラディ地区の部屋のほうが比べものにならないほど広いのにと、テディはコートを脱ぎながらがらんとした室内を見まわした。

 片隅にステレオコンポと、ラグの上にソファとテーブルくらいしか置かれていない部屋は、ここに住んでいた頃よりも細々こまごまとした物が減り、ますます殺風景だった。習慣でつい脱いでしまったが、体温を閉じこめていたものがなくなると、途端に冷えきった部屋の空気が滲みてきた。

 奥の寝室も同様で、湿気ていないかとテディがベッドスプレッドを捲ると、リビングから漏れてくる光に埃がきらきらと瞬いた。シーツの上に手をついて、どうやら寝ることはできそうだなとベッドを横切り、カーテンを開ける。窓を開けたかったのだが外はいつの間にやら雨模様で、風も強く吹いているのか、雨粒が窓の硝子ガラスをぱたりぱたりと叩いていた。

 硝子を伝う雨粒が、ナトリウムランプの黄色い光をゆらゆらと滲ませている。それを暫しのあいだ見つめ、テディはカーテンを閉めた。

 だだっ広いリビングに戻ってソファに腰掛け、シャツのポケットから煙草とジッポーを取りだす。一本咥えて火をつけ、テディはふーっと煙を吐きだしながら、テーブルにある吸い殻の残ったままの灰皿を目に留めた。

 これは、いつのだったか。引っ越しとも云えないような、少しの荷物をまとめていたときに吸ったのだったろうか。手伝いもしないくせに様子だけ見にやって来て、これもそれも持ってくるな、必要ない、もうある、部屋に合わないと口だけ出していたルカの姿が脳裏を過ぎる。

 テディは溜息をつき、とんとんと苛ついたように煙草の灰を落とした。


 喧嘩の原因は些細なことだった。

 ずっとPCに向かったまま、チャットやメッセンジャーで誰かと話してばかりいるルカにいいかげん堪えられなくなり、テディが無線LANルーターを引きちぎって床に叩きつけ、壊したからだった。

 ルカは床に傷がついたことを怒り、テディはどうして自分がこんなことをしたのかわからないのかと責めた。ルカはただ話してるだけだ、おまえみたいに寝たりはしないんだからいいだろうと面倒臭そうに云い、テディではなく床のほうを気にした。テディは、じゃあルカ好きにすればいい、相手を探しに行ってくると吐き棄て、部屋を飛びだした。

 ルカは追ってはこなかった。

 ただの売り言葉に買い言葉だ。テディは本気で云ったわけではなく、ルカも肚が立ってつい皮肉を云ってしまっただけだろうと、頭のどこかではわかっていた。

 ジー・デヴィールという、世界的に有名なバンドのベーシストとして顔が売れている自分が、まさかその辺のクラブやバーに行って一夜限りの相手探しなど、本当にできるわけがない。それがわかっているからルカも追ってこなかったのだろう。

 でも、とテディは思った。昔はもっと焦って必死に止めたり、真剣に怒ったりしてくれたのに。そうすればふたりでちょっと頭を冷やして、話すチャンスだってあったのに――。

 それとももう、すっかり慣れっこになってしまったのだろうか。自分のことなんて、ああ、またか……程度にしか考えられなくなってしまっているのだろうか。

 そうだったとしても、それは自分の所為なのだけれど。


 ゆるゆるとかぶりを振って、テディは煙草を揉み消すと喉が渇いたなとキッチンに向かった。

 冷蔵庫を開け、中のライトがつかないことに気づいてすぐに閉める。そうだった――なにも入っているわけがない。電源のプラグは抜いてあり、飲み物だって残していったりはしていない。

 しょうがない。眠るしかないなと、テディはまた寝室に戻った。

 履いていた室内履きバチコリを無雑作に脱ぎ棄て、セーターにジーンズという恰好のまま、ひんやりとしたベッドに潜りこむ。そしてブランケットを肩まで引きあげ、躰に巻きつけるように何度かごろごろと寝返りを打つと、テディはまだ窓を叩いている雨音を聴きながら目を閉じた。

 湿気てはいなかったのに、なんだかやけに寒かった。




       * * *




「――で? 飲み食いするにも不便で着替えもなくて、二日ともたずにここへ来たってわけか。それにしたって歩いてくることはなかっただろ、こんなどしゃ降りのときに」

「だって……まだここへ来るって決めたわけじゃなかったんだよ。どうしようかって考えながら歩いてたら急に雨がひどくなってきて、偶々ユーリんちの近くだなって気づいただけで……」

「無意識に俺のところへ来てたってことか?」

「そうかも」

「その心理をぜひフロイト先生に分析してもらいたいね」

「それ性的な答えしかでてこないんじゃない?」

 ちゃぷん、とバスタブの湯を揺らして、ユーリは手を伸ばしてきた。上気した頬に触れられ、その手に頬擦りするように首を傾けるとユーリは身を乗りだし、顔を寄せた。

 顎をくいと指で支えられ、唇が重なる。大きな波が来て躰が揺れ、その逞しい腕のなかに身を預けるとテディは目を閉じ、深いキスに応えた。



 二月のプラハにはめずらしく、昨夜から降り続いた雨は傘を差したくらいでは凌げず、テディはここに着いたとき肩の辺りからすっかりずぶ濡れになってしまっていた。躰は冷えきり顔も血の気を失っているテディにユーリは目を瞠り、風邪をひくぞとすぐにバスタブに湯を張ってくれた。

 そして、何故か一緒に入ってきた。

 ふたりでバスタブに躰を沈め、芯まで温まりながらテディは簡単にいきさつを話した。ルーターを壊したと云うとユーリは大笑いし、前のフラットにいたけれどなにもなくて眠る以外どうしようもなかったと云うと、それは住んでいた頃から同じだろうとまた笑った。他にもくだらない話をいろいろとして、湯気のなかで賑やかに笑い声を響かせながら子供のようにじゃれ合った。

 いいかげん逆上のぼせるのではないかと思ったとき、ユーリは立ちあがってさっとシャワーを浴び、先にバスルームを出ようとした。

 なにか着替えを貸して、と云ったテディに、ユーリは首を横に振った。そして、ドアを閉める前に一瞬振り返り、明日の朝には乾いてるさ、と一言だけ返し、にっと笑みを浮かべた。その意味は明白だ――ユーリの誘い方はいつも少し強引だが、さりげないのに率直で小粋だ。そのうえ準備の必要な受け身側のことも、きちんと考えてくれる。

 遊び慣れてるなあ、とテディは感心した。

 ユーリとは、バンドを始めた頃からずいぶんとくっついて歩いては一緒にいろいろをしたものだが、その頃からテディは少しユーリに憧れているようなところがあった。ユーリはいつも堂々としていて男っぽく、いろんなこと――それも、普通はあまり知らないようなことをよく知っていた。頼りになる存在でもあり、腕っぷしも強そうで、酒にも頗る強かった。

 こんなふうになれたらよかったのに、とテディが憧れた初めての男だった。

 ルカは、ユーリとはまったく違うタイプだ。ルカにはユーリのような強引さは欠片もない。むしろこっちの気分や都合を窺ってくるので、偶に求められているのではなくだけのような気になるときがあった。

 出逢って、友達以上の関係が始まった頃。ルカは不安や疑心に揺れも濁りもしない混じりっけなしの気持ちを、こっちが恥ずかしくなるくらい真っ直ぐにぶつけてきてくれた。しかし、その同じ数だけ自分は彼を失望させた。何度も何度もルカを裏切り、傷つけ、それでも愛してくれと縋った。そしてルカは、いつも最後には自分を見放さないでいてくれた。――これまでは。

 今度もルカは自分を迎えに来るだろうか――こんな自分を、彼はまだ愛してくれているのだろうか。



 バスルームから出ると、ユーリはまだタオルを腰に巻いただけの姿でキッチン脇のカウンタースツールに腰掛け、ビールを飲んでいた。

 バスローブを羽織り、ノンアルコールはなにかあるかと尋ねながらテディが冷蔵庫を開けると、普段きちんと自炊しているのがわかるいろいろ揃えられた食材の下に、種類の違うエメラルドグリーンの瓶が何本も並んでいた。ひとつはスタロプラメン、もうひとつはテディの好きなアップルタイザーだった。

 いつだったか交換して飲んだときに旨いと云っていたが、本当に気に入っていたらしい。アップルタイザーあるぞ、とユーリが答えるのとほぼ同時に一本取りだし、隣に坐ってキャップを開ける。するとユーリがスタロプラメンの瓶を少し掲げてこっちを見た。

 笑みを浮かべているその顔を見ながらこん、と乾杯に応え、テディは訊いた。

「……なにに乾杯?」

「もちろん、久しぶりにふたりで過ごす夜に」

 そう云ってユーリはスタロプラメンを一気に呷り、熱っぽい眼差しでテディを見つめた。

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