第19話 現代、花彌の章 12
大きな道路を挟んだ遠い向かい側。
原爆ドームの前に佇む青年は、小さな女の子と手を繋いでいた。
花彌は、彼らのもとへ行きたかった。
こっち側は、やけに暗いし寒い。
道路を渡ろうと横断歩道を探すが見つからない。
私もそっちへ行ってもいいですか。
そう問いたいのに、声も出ない。
喉に手を当て、何度も声を出そうとするのに、どうやって声を出していたのかさえも思い出せない。
そっちへ行きたいの。ここは寒いし、ちょっと寂しいから。だから。
すると、青年がゆっくりと振り返った。
あんなに離れているのに、彼が辛そうに眉根を寄せているのがわかる。
私はあなたの側に行きたいのっ
その小さな女の子みたいにっ
心が悲鳴を上げている。
伸ばしたい手が伸びていかない。
駆け出したい足が駆けていかない。
動いて。動いて。
拳で何度も足を殴る。何度も。何度も。
『まだ、こっちに来ないで。ナナシが、悲しむから』
小さな女の子の声に、花彌は顔をあげる。
遠くに立つあの女の子と目が合った。
「……!」
その女の子は、花彌の子供の頃と同じ顔。
おかっぱ頭の女の子。
小さな女の子はにっこり笑って、
『生きとってくれて、ありがとう!』
女の子は小さな手を必死に伸ばして、懸命に手を振っていた。
※ ※ ※
目を覚ました花彌は泣いていた。
両手で目を擦るように涙を拭う。
そして上半身をもたげ、自身にかかっている布団に視線を落とす。見覚えがない布団。ああ、ここは重光の家か、とようやく思い出した。
ベッドから下り、立ち上がると、軽い眩暈に襲われ、一旦ベッドサイドに腰を下ろした。
ここ数日のことがはっきりと思い出せない。
額に手を当て、呼吸を整えていると、不意にがちゃりと寝室の扉が開いた。
一気に花彌の身体が強張る。
眉が下がり、怯えた顔になる。
「あ、起きた?お粥ならすぐできるよ。食べる?」
現れたのは重光だった。
花彌は安堵感からか脱力して、再びベッドに横たわった。
「………」
その花彌の様子に、重光は深い同情を禁じえなかった。
重光は、鼻の奥がツンと痛むのを堪えるためにか、踵を返し、一度寝室から退出した。
少しして戻ってきた重光の手には小さなお盆がある。お盆の上には不細工なキャラクターの書かれた少し大きめのマグカップが乗っている。
それを床に置き、重光はベッドの縁に腰かけた。
「重光、今何時?」
花彌は、珍しく営業スマイルを浮かべている重光を見上げて問う。
重光はポケットからスマホを取り出し、
「午前8時15分。お茶飲める?」
「うん。ありがとう。」
床に置いていたマグカップを花彌に差し出した。
花彌はゆるゆると半身を起こし、重光の横に腰かけ、それを両手で受け取った。
ゆっくりゆっくりお茶を口にする花彌を見て、重光は少し笑って言った。
「一応、明日まで休みの連絡しておくね。」
「うん。ありがとう。ごめんね。迷惑かけたね。」
「迷惑、…そうだよ。迷惑だよ。花彌は倒れるまで我慢するから、ホント迷惑!」
「うん、ごめんね。」
重光は、怒った口調で俯いたまま、服の袖を伸ばして何度も目を拭った。
「重光、私ね、…近いうちに仕事、辞めようと思う。」
花彌は身体を揺らして泣く重光の頭を優しく撫でながら、穏やかな声で言った。
重光は、小さく二回頷いた。
「私ね、広島に、引っ越そうと思うの。」
「……うん。なら、絶対遊びに行く。」
「うん。」
花彌の頬を伝う涙は、温かく、心は、今日の窓から見えるあの青空と同じく、晴れ晴れとすっきり澄みきっていた。
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