第10話 現代、花彌の章 3
玄関の鍵がガチャガチャと鳴る音で目が覚めた。
目が覚めはしたが、目蓋を開けることも身体を起こすことも、すぐにはできない。
脳内からしてグズグズとしていると、扉が開く音がした。
「…相変わらず汚ぇ部屋。」
勝手に侵入してきた男のボソッと漏らした声に、花彌はしっかりと目を開けた。そして寝返りをうち、壁に向かって嘆息する。
「おい、花彌。何度もLINEしただろ、何で返信寄越さねぇんだよ」
男はゴミを足で避けながら、花彌のベッド付近に来ると、どかっと座って電子タバコを咥えた。
独特な香りが匂い立ち、花彌は眉根を寄せつつ半身をもたげた。肩につくほど伸びた髪を手櫛で整える。
「…準夜勤の時は、すぐには返信できないって前にも言ったよね。」
不機嫌を隠さず、しかし俯きながら花彌は言う。
そんな花彌の態度に、男はあからさまに舌打ちをした。
「こっちは何度もLINE送ってんだ、件数見りゃ急ぎだってわかるだろ!…ホント空気が読めねぇよな」
男の言葉に、花彌はイライラしたように頭を掻き、濁った息を一つ吐くとベッドから降りた。そのままその辺に置いていた洗いざらしのタオルを掴んで洗面所に向かう。
「おい、花彌!」
男の怒号に近い声に、花彌の足が止まる。
「いくら?」
「はあ?」
「いくらいるの?」
「LINEに書いてただろ、とりあえず30」
「………」
花彌は返事もせず洗面所に入り、鍵を閉めた。
そしてすぐさまその場に踞り、口を手で抑えて、歯を食い縛る。
必死に堪えなければ、嗚咽のような声が漏れそうだった。
悔しい。悔しい。
花彌は肩を震わせて、声を殺し、しかし意地でも泣くまいといっそう強く奥歯を噛み締めた。
※ ※ ※
部屋着の上にコートを羽織り、重い足取りでコンビニに向かった。
数時間前、帰宅途中に寄った時には、花彌は確かにウキウキしていた。なのに。
今日は花彌の30歳の誕生日だった。なのに。
彼氏はその事を覚えていなかった。覚えていないどころか、花彌が必死に働いてきた金を、事も無げに貸せと言う。
今までだって貸してきた。だが、貸した金が返ってきた試しは一度もない。
その事実が、余計に心に暗く刺さる。
「………っ」
真っ直ぐにマンションに帰りたくない花彌は、金の入った封筒を握りしめた惨めな姿のまま、マンション前の公園に立ち寄った。
そしてコートのポケットに封筒をねじ込み、代わりにスマホを取り出す。
「………」
今まで、不特定多数が参加するSNSに投稿したことなど一度もなかった。
「………」
だが花彌は、今の自分の不条理を、どこかに吐き出さなければ心が壊れてしまいそうだった。
《誕生日に金の無心とか、彼にとって私って何なの》
深い意味など込めたわけではない。
誰かに慰めてもらいたかったわけでもない。
ただ、その時心に浮かんだ言葉をそのまま綴った。
すると、五分もしないうちに、一件のコメントが届いた。
《あなたにとって、彼は何なのだろうかと考えてみてはいかがですか?》
「………」
知らないアイコンの知らないアドレス。
本来なら無視するところだが、心が腐りかけていた花彌は、思わずコメントに返信した。
《私にとっての彼?何だろう。好きだけど、好きなはずだけど。でも、私にはお金しかないのも事実だから。》
そして少し考えて、連投してみる。
《でも、誕生日にこんな仕打ちはちょっとキツイ。私は一体何のために生まれたのか、とか考えてしまう。》
すると五分後に返事が来た。
《あなたが生まれて今日まで生きていてくれた。そして明日も生きていてくれる。それはとても尊いことです。お誕生日、おめでとうございます。》
「……。…ぅう、」
花彌は崩れるように公園のベンチに座り込み、声を出して子供のようにしゃくり上げて泣いた。
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