第9話 現代、花彌の章 2


 深夜。町は静まり返っていた。

 頬をなぶる風は冷たく、だが一昨年買ったコートは型は古かったがキルティングが内布にも施されていて温い。


 それでもむき出しの顔は風が吹けばやはり寒かった。

 身が縮まって肩からずり落ちた鞄を肩にかけ直す。5年前に亡くなった祖母に買ってもらったこの牛皮の鞄は肩によく馴染んだ。


「…うー、寒いー」


 ローヒールのパンプスでアスファルトを鳴らしながら足早につく帰路の途中、立ち寄ったコンビニで「ウチカフェ」シリーズの新作スイーツを手に取った。

 

 胸に抱いた花束が、花彌の財布の紐を少し緩めていたようだ。今日は誕生日だから、と、言い訳じみた言葉が脳を掠め、更に冷凍コーナーでハーゲンダッツもカゴに入れてレジへ向かう。


 1500円近く取られたが、不思議と罪悪感はない。

 ホクホク顔で足取り軽く家路を急いだ。



「ただいまぁ、」


 時計は深夜1時を回っている。


 古いマンションの五階、家賃78000円のワンルームは、玄関を開けるとすぐ、山積みされたゴミが現れた。それを避けながら部屋の奥へ進み、ベッドに鞄を投げて置いて、エアコンの電源を入れた。


「はぁ、疲れたぁ。」


 疲労感を吐き出しながら、小さなテーブルの上の、昨日食べたコンビニ弁当の残骸を、床に投げ置いていたビニール袋に詰める。そして新しいコンビニ弁当を取り出した。


「……ふふ、」


 しかも今日は食後のスイーツがあり、風呂上がり用のハーゲンダッツまで用意してある。


 こんな贅沢をしてもいいんだろうかと、にわかにほくそ笑みながら、キッチンに向かい、アイスを空の冷凍庫に入れた。

  

 すぐさまリビングに戻ると、ベッドを背もたれに、定位置へと座る。そしてスマホを開いて適当な動画を流しながら、冷えたコンビニ弁当をつついた。


「……ん?」


 すると不意にスマホが短く震え、画面にLINEのお知らせ通知が一瞬開いた。更に二回、三回と、スマホは立て続けに震え出す。


 花彌はスマホを手に取ることもなく、通知が開いては消えるスマホの画面をただぼんやりと眺めていた。

 しかししばらく放置していると、スマホは震えることもなくなり、再びテンション高めの騒がしい人間たちの笑い声のみに埋め尽くされた。


「…はぁ、」


 ちっとも気分が楽しくならない動画を消し去り、天井を仰ぐ。

 途端に花彌の心に飛来したのは、強い虚脱感だった。


 溜め息混じりに渋々LINEの画面を開く。そして、


「……」


 やっぱりね、と結局落胆は色を濃くした。

 

 未読となっていたのは、不自然なほど大きな目をした生気のない自分と一緒に写る男のアイコン。未読通知は12件になっていた。

 仕事中から送られていたのかと、今はじめて気がつき、口角が下がる。


 アイコンを触って画面を表示して、だが花彌はすぐさま電源を落としてスマホを床に投げ置いた。


「……今日、誕生日なのに。」


 花彌の鼻頭がじわりと痛む。


 執拗に送られてきていたメッセージは、


《今月乗り越えれば軌道に乗れるんだ、融資をお願いできないだろうか》


 数ヵ月前にIT関連の会社を立ち上げた彼氏からの、融資という名の金の無心だった。


     ※ ※ ※


 花彌が五歳の誕生日、病気の療養のため離れて暮らす母親のもとへ、曾祖母と共にバスに乗って出掛けたことがある。

 

 それは花彌の誕生日のお祝いを兼ねて、曾祖母が計画した小旅行だった。

 

 その時、バスを降りて、曾祖母と手を繋ぎ、川縁を歩いていた花彌の鼻先を、一匹の蝶が通りすぎた。


 幼い花彌は「あ、」と声を上げ、曾祖母の手を離して駆け出した。慌てて曾祖母は花彌の名を呼び、花彌は振り返った拍子に足を滑らせた。

 

 悲鳴をあげ、血相を変えて走りだした曾祖母を制止し、代わりに駆けてきた青年が、今にも川に転落しそうな花彌の小さな手を掴んだ。



 

「…あ、寝てた、」


 テーブルに俯せたまま、うたた寝をしていた花彌が目覚めると、外は既に白んでいた。

 時計を見ると、午前6時を指している。


「……はぁ。」


 乳酸の溜まった重い身体を引き摺るように立ち上がると、ノロノロ歩いて風呂場に向かい、給湯ボタンを強めに押した。 

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