第7話 昭和50年、名もなき小さなモノの章 2
「お母様とお子様と、優先的にどちらの治療を進めるべきか、ご判断願えますか。」
息を切らせて病院へたどり着いた父親へ、医師は努めて冷静に冷酷な決断を求めた。
父親は、血が滲むほど唇を噛みしめ、
「…少し、考えさせてもらえますか。」
絞り出すように出した声は、とても小さかった。
できるだけ早くご決断ください、と急かされ、父親は一旦病院の外に出て、震える手で煙草をくわえた。
「………っ」
なぜ、なぜ。なぜ律子達がこんな目に。
渦巻く赤い感情に圧し潰されそうな顔は苦く歪む。そこへ、
「すみません!佐伯さん!急いで集中治療室に戻ってもらえますか!」
ライターで点かない火をカチカチ鳴らしていた父親のもとへ、看護師が血相を変えて走ってくる。
「え、あ、はい!え、律子に何かあったんですか!?」
父親は急いで煙草を投げ捨てると、慌てて集中治療室へと駆け出した。
※ ※ ※
『いやぁ、よかったわぁ。あんたんとこの〈ツレ〉が代わりに死んでくれたからさ、俺の〈アレ〉が生き延びられたわ~。これで期限を全うしてくれりゃ、俺もようやく輪廻の輪に戻れるってもんよ!』
『………』
『まあ生まれる前の赤子なんか、あの父親も見捨てるつもりだっただろうしな。あんたの〈ツレ〉が死ぬ方が妥当だよな。なあ!』
〈其れ〉によく似た濁った〈邪〉が、歪んだ顔のまま、〈其れ〉の元へ戻った〈ソノモノ〉を指差し嘲笑を浴びせる。
『………』
〈其れ〉は、紡ぐ言葉を見つけることさえ難しく、ただ〈ソノモノ〉を抱き、俯いた。
目頭が燃えるほど熱い。
『ったくよ。たった一人殺しただけで、どれだけ回り道させやがるんだってんだ!さっさと生き返らせろよなあ!』
〈邪〉が〈其れ〉に手を伸ばし、歪んだ
だが〈其れ〉は〈邪〉の手から逃れるように後退し、顔を背けて一心不乱に走って逃げた。
『………』
〈其れ〉の胸には〈ソノモノ〉がしっかり抱かれている。
(お前は、お母ちゃんを守りたかったんじゃな。ただ、それだけだったんじゃな。優しいなぁ、なあ、)
走りながらも、ずっと涙が止まらない。
だが、
『……お母ちゃんを、守りたかった…?』
ふと、〈其れ〉は立ち止まり、胸に抱いた〈ソノモノ〉をじっと見据えた。
『お前は、お母ちゃんを、救いたかったんか?』
すると、一つの事実が胸にストンと落ちてきた。
(………。ああ、ああ、俺は、…俺は、ホンマに、取り返しのつかんことをしたんじゃな!)
途端にガクガクと身体が震え出す。
寒気が込み上げてきて奥歯がガチガチ鳴り出した。
《どうかこの子だけは!この子だけは助けてください!》
『………あああああ!』
〈其れ〉は、鉈を振り上げた先の、幼子を庇うように胸に抱いて〈其れ〉を見上げた、あの若い母親の顔をようやく思い出したのだ。そして、
『あああああ!』
その母親が抱いていた幼子の顔は、幼い頃の典子そのものだった。
『……そんな!』
〈其れ〉は崩れるようにその場に
生まれて初めて芽生えたものは、深く重い罪悪感。
『ああ、ごめんな、ごめんな、ホンマに、ホンマに、ああ、ごめんなさい…ごめんなさい…』
許しを乞う相手もいない虚空へ向けて、〈其れ〉は何度も詫び続けた。
だがそんな贖罪など、今さら何者の耳にも届きはしない。
それでも〈其れ〉は踞ったまま、ただ必死に、声の続く限り詫びる言葉を紡ぎ続けた。
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