第5話 広島、典子の章 4
何が起こったのか。
説明できる者は、ここにはもう、誰もいない。
『嘘じゃ、嘘じゃ、』
あちらこちらで火の手が上がる。
大地が沸いたように熱い。
町全体に立ち込める焦げた臭いと、あぶらの臭い。
見回してみても、視界に入るのは、無数の瓦礫と無数の死体。
『…嘘じゃろ、嘘じゃろ、』
皮膚の爛れた人々が、水を求めて川に飛び込む。
川には人の死体しか浮いていない。
誰も彼もが赤黒く焼け焦げている。
焼ける臭い。何が焼けているのか。
そこかしこから響いてくるのは阿鼻叫喚。
『……嘘じゃろ、』
しばし、ナナシは呆然と立ち尽くした。
それしかできなかった。
『………!』
だが、どこかで小さく、ナナシを呼ぶ声がする。
『典子、…典子!』
残火の熱風に、顔をしかめる余裕もなかった。
足が焼けるのも厭わず、裸足で必死にナナシは走った。
『典子!典子!』
黒焦げになった人間の骸を何度か踏んだ。
詫びようにも、口から出るのは嗚咽だけだった。
『典子!』
ナナシの声など轟かない。
膿むほど赤く熱い世界で、耳は典子の声だけを探し求める。
『典子!』
鼻水も涙も止まらない。
やがてナナシは足を失い手を失い、人間らしさをかなぐり捨てて一陣の風となり、ただ一心に典子の姿を探した。
※ ※ ※
『……ッ』
ナナシは、ゆっくりと人間のような姿に戻り、そして真っ赤に燃えさかる炎の前で、そのままその場に
「…の、典子、」
「…ナ、ナシ…?…そこに、おる、ん?…」
「ああ、ああ、おるよ。ここにおるよ、どこにおっても、探す言うたじゃろ。」
ナナシの声は涙で震えていた。
「…ナナシ、ナナシ、…」
典子は、燃え上がる建物の下敷きとなって、かすかに顔が見える程度で、消え入りそうな小さな声で、何度も必死にナナシを呼んだ。
「典子!典子!」
ナナシは急いで典子の上の瓦礫を退かそうと、燃える瓦礫に手をかけ力を込めるがびくともしない。
「典子、典子!」
人ではないナナシは、それでもこの世界においても何の役にも立たない。
泣きながら、燃える柱の下に身体を潜らせ、体を炎に焼かれながらも瓦礫を持ち上げる。だがやはり、びくともしない。
「熱い、熱いよ、ナナシ、…助けて…」
「今助ける。今助ける!今助けるけ、死ぬな、典子!」
ナナシの声だけが、炎の中でも息を紡ぐ。
しかし、
「………ぁ、」
「典子!!」
木の爆ぜる音と共に、ガラガラと瓦礫が一気に崩れ落ちた。
『典子!典子!待って、待ってくれ!待ってくれ!!』
ポツリ、ポツリと雨が降る。
『嘘じゃ、嘘じゃ、……嘘じゃ!』
炎を消すことのない黒い雨に打たれながら、ナナシはその場に崩れ、焼ける大地に手をついたまま、意識を失うその瞬間まで、ただ、無力にむせび泣いた。
静かに青い炎が立ち上る。
そして<其れ>はゆっくりと、灼熱の大気に溶けるように、実体を喪っていった。
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