第10話 幸せだったよ
病院の駐輪場にタイヤを鳴らすようにすべりこんだ宙は、自転車を倒したのも気に留めず走って病院の通用口へ向った。
絵羽の病室に向かいそのドアを開け放つ。
そこには多くの機械に取り囲まれながら絵羽が激しく呼吸をしている姿が目に飛び込んできた。
「絵羽!」
駆け寄ろうとすると、看護師に制止された。
「今、最善を尽くしています。とにかく落ち着いてそこで患者の回復を祈ってください」
そう
傍らには絵羽の母親が祈るように手を組んで震えながら絵羽の名前を呼び続けていた。
「絵羽……」
そういいながら、少しずつ絵羽の横たわるベッドに近づいた。
そして、母親の声を打ち消すくらい大きな声で叫んだ。
「絵羽!がんばれ!こんなことで負けんな!絵羽、俺が来たからもう大丈夫だ!俺のほうを見てくれ!絵羽!」
その声が絵羽の耳に届いたのか、絵羽の身体は一瞬大きな呼吸をした後、グッタリとして、宙たちを驚かせたが、すぐに身体をピクリと動かし、そっと目を開いた。
「絵羽!」
そういうが早いか、ベッドに駆け寄った宙は、看護師や石田医師を押しのけて絵羽の手を握っていた。
「絵羽!」
「宙……」
見詰め合った二人を誰も引き離すことはできなかった。
「絵羽、一緒に旅行行くんだろ。頑張れるよな」
「宙……当たり前……でしょ。甲子園も……ね」
いき絶え絶えに絵羽が応えた。
「そうだよ。美樹生、もう、四回戦まで行ったよ。次、勝てばベストエイトだから」
「すごい……ね。美樹生……君。頑張ってるんだ」
「そうだよ。俺と絵羽を甲子園に招待するって、約束してくれたから……一緒に行こうな甲子園も」
「うん……宙と一緒に甲子園に行って、その後、温泉に行くんだよ……ね」
「そうだよ。もうすぐ夏休みなんだから、それまでに絵羽は病気に勝つんだよ」
フッと絵羽が微笑んで、頷いた。
そして、ゆっくりと窓の外を見つめた。
「霧……宙と出会ったのもこんな霧の日だったよね」
「あぁ、そうだな。俺が自転車ぶつけそうになって、絵羽の彼氏のマグカップ壊して」
「うふふふ、彼氏かぁ……今じゃその宙が彼氏……だもんね」
そういうとまた絵羽は宙を見つめて力なく微笑んだ。
「そうだよ。俺は絵羽の彼氏さ。世界に一人だけ絵羽を愛してるって堂々と言える彼氏だよ」
「ばか……ハズイよ。でも、ありがとう。あたし……幸せだよ」
「絵羽……もっともっと幸せにするから……だから……」
そういうと宙の瞳から止め処もなく涙が溢れてきた。
「やだぁ、宙……泣いてるの?だめだよ。みんなの前でハズイよ」
「うん……でも、止まらない。いいんだ。絵羽の前で泣くの、初めてだろ」
「そうだね……泣いてる宙もかわいい」
「ばかにすんなよ。愛する人の前だから、涙を見せてるんだぞ」
「うん、ありがとう。宙……」
「絵羽……」
再び二人は見詰め合った。
その二人の間だけ時間が止まっているようだった。
「宙……少し眠い」
「うん、ゆっくりおやすみ、明日また来るから」
「ありがとう。少し眠るね。試験勉強もがんばって……」
「余計な心配すんな。今は自分の身体のことだけ考えればいいから」
「うん……ありがとう。幸せだったよ。宙」
「幸せだったじゃ、ないだろ。『幸せだよ』だろ」
「あっ、今そう言った?変だな……うん……なんか眠くて……」
「ごめん、いいよ。ゆっくり眠って」
「うん……」
そう言って頷くと絵羽はスッと目を閉じた。
そして、握っていた宙の手から絵羽の力がフッと抜けた。
「……絵羽?」
「ちょっと、宙君、どいて!」
石田医師が、突然宙の身体を絵羽から引き離し、絵羽の瞳孔反応を見た。
同時に部屋に響いていた心電図の機械音が「ピーッ」という耳を刺すような音に変わった。
絵羽のベッドから一歩離れた宙は何が起こっているのか全くわからず、ただ呆然と立ち尽くしていた。
「残念ですが……ご臨終です」
石田医師が力なく告げた。
石田医師が言った言葉は耳には入っているが宙の脳はそれを理解していなかった。
宙は目に映っている深々と頭を下げた石田と看護師の姿、絵羽の母親が絵羽の身体にすがり付いて泣き崩れている姿を見て、ハッと我に返った。
「絵羽?嘘だろ?今、眠るって言っただけだよな。眠るって……」
そういいながら一歩ずつ絵羽の横たわるベッドに向った。
そして、がっくりと膝を付くと絵羽の身体にそっと手を伸ばしておなかの辺りに手を置いた。
「絵羽?旅行……甲子園……一緒に行くって言ったよな。絵羽……言ったよな!!」
突然大声で叫び、絵羽の身体を揺すりだした。
驚いた石田医師が宙の両腕を抑え絵羽の身体から引き離した。
「絵羽!一緒に行くっていっただろ!旅行も!甲子園も!いま……いま、眠るって言っただけだろ!眠るって!俺との約束どうすんだよ!絵羽!!」
狂ったように叫ぶ宙に看護師も身体を押さえだした。
「絵羽!!なんで!なんでおまえだけ!なんで?!」
そういうと再びがっくりと膝を落としてその場にうずくまって泣き叫んだ。
「絵羽!!絵羽―――!」
霧が深く立ち込めたその夜、絵羽は静かに眠るように息を引き取った。
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