彼と彼女
@kanako_01
第1話 出会い (1)
「また、会いましたね」
狭い廊下の中ですれ違うのは、今日で三度目だ。立ち止まりいきなり声を掛けられて
「はい」
と答えるとカリンは、背は高くないが強い瞳の持ち主にほんの少しだけ興味を持った。
カリンは、各セクションと統合的に連絡を取るオペレーションセンターに行く為に通る廊下で、今日はもう三度もこの人と会った。
誰なのだろうと思いながら、三度目に声を掛けた彼の、瞳の奥まで入り込まれそうな強い光を感じながら、自分でも理解できないふっとした気持ちが心に染み渡り始めた。
「あのっ、今日、仕事終わったらお茶、いやお酒、いや食事に行きません」
笑いを堪えながら言ういきなりの誘いに
「はい」
と答えるカリンは、待合せの場所と時間を言って、そのまま廊下を歩いて行く人に少しだけ自分の気が持っていかれるのを感じた。
「はい。これ」
オペレーションセンターの髪の毛を後ろにまとめ大きなめがねを掛けた女性に書類を渡しながら、廊下ですれ違った人を思い出してほんの少しだけ心が、そぞろんだ。
名前何て言うんだろう。自分で名前も知らない人に夕食の誘いを了解するなんて母親が聞いたら卒倒しそうな事柄に自分でも笑いが自然と出るカリンだった。
一階のフロントから通りに出る通路は、同じ開発センターの人間が大勢出入りしている。カリンは、言われた通りに裏の通りに出る通路をほんの少し出た右側の信号の側で待っていた。自分がそこに着てから三分と発たないうちに彼は来た。
「待った」
ちょっと顔を覗きこむように微笑みながら聞かれると
「ううん。今着たばかり」
と言って笑顔を見せた。
「行きましょうか」
彼の言葉にカリンは、何も言わずに頷くと彼の左隣を地下鉄の入口へと歩いた。
信号を渡り、表通りから一本だけ脇にそれた通りは、朝は利用者が多いが、帰宅時間は、なぜか表通りを歩く人が多く、二人が見られる事はなかった。
「あのっ」
歩きながらいきなり声を掛けて来た彼に
「えっ」
「どこのセクションですか」
彼の質問の意図が分かると
「はい、マーケティングアドバタイズメントです」
彼女の言葉にマーケと言えば、少なくともドクターは当たり前と言われている部だ。僕とは全然違うな、頭の中で考えながら歩いていると
「あのっ」
「えっ」
「どこのセクションですか」
隣で歩く彼女に全く同じ言葉を返されて微笑むと
「あっ、済みません。情報システムです」
情報システム。私には分からない部署だ。そう思いながらカリンは、次の言葉が出なかった。
「・・・・・・」
「・・・・・・」
何となく、会話がつながらないままに地下鉄の入口に着いた。地下鉄につながる階段を下りて、ホームで次に来る電車を待っていると、隣に立つ彼女から椿の香が漂った。
ホームに入る電車の風でちょうど風下に立っていた僕は彼女が漂わせるほのかな香に触れる事が出来た。
気付かれないようにちょっと目を微笑ませると電車で巻き上がる風を避けようと彼女がこっちを見ている。
「何を微笑んでいるの」
彼女の質問に
「いやっ」
言うに言われない理由で合わせた視線を解くと反対側のホームに目をやった。
そんなに空いていない地下鉄の中で、ドアの側に二人で立ちながらドアの外に流れるガードに目をやるのを止めて彼女を見ると、自分を真直ぐに見られずに、やり場のない僕の手を見ているのが分かった。
ふっと、彼女の顔から胸元に続くラインを見ると一瞬はっした。もしかしたら見てはいけないかもしれないものを見たような気がした。
喉元を過ぎて胸元に続くラインに血管が浮かび上がるような透通った肌が続く。視線を更に下に続けるとほんの少しではないくらいふっくらとした盛り上りがあり、それがそのまま白いブラウスに続いていっていた。
目のやり場を失ったままに時間を過ごしながら、ドアの外に映る暗い時間を見ていると少しずつ、そして突然に明るくなった。
やがて、地下鉄が地上に出て、田園ラインに入ると外の景色が自然と入ってきた。地上に出て四つ目の駅で降り改札を出ると
「何が好き」
と聞かれたのでカリンは
「何でも」
と目元を緩ませながら微笑むと
「じゃあ、適当に」
彼の声が一瞬かき消される様な大きな音がするので、見上げると田園ラインの上り線が入って来たところだった。
彼は、改札を右に折れると、右に昔風の高架下にある商店街が並び、左に少し洒落たケーキ屋や、宝石店が並ぶ中を通り、少し行って左に折れたところで足を止め、どう見ても値段が無難そうな看板を見た。看板を出しているお店の階段が二階に続いている。
「ここにしようか」
「ええ」
そう言って少し右に回るような階段を昇りドアを開けると、窓際の席とカウンターの席が開いている。
若い店員がやって来て窓際の席とカウンターを交互に見ながら
「何名様ですか」
と聞くので、彼は人差指と中指を立てて
「二人です」
と答えると店員が、
「カウンターとテーブル席が空いています。どちらの席になさいます」
と更に聞くので、彼は彼女に視線を移すと人差指でカウンターの席を指差した。
「何にします」
「僕は生中」
「私はフローズン・スカッシュ」
二人は、店員が持ってきたお手拭で少し汗ばんだ手を拭きながら店員にオーダーをするとメニューを見た。
「何食べます」
彼の言葉に
「うーん」
考え込むカリンに
「じゃあ、これとこれとこれ」
そこまで言うと彼は
「何か一つ選んで」
と言ってカリンの顔を見た。
「じゃあ、シーザーズサラダ」
オーダーを受けた店員が側を離れるとカリンは、
「あのう」
「えっ、何」
何となくメニューを見ている彼に声を掛けると、彼がメニューを持った手を離してこちらを見た。
「名前知らないんですけど」
「・・・・・・・・」
彼女の言葉にあっと思った。
彼はダイナース・オリンピアに入社して二年。そして彼女は、まだ入社したばかり。一年も経っていない。当然こちらは、彼女を知っているが、彼女は彼を知らない。
マーケティングアドバタイズメントに所属する彼女は、彼の部署は普段縁がない。
たまたま、今日廊下で三回会ったというだけで、彼は彼女を誘い、彼女もそれにOKの返事をした。常識では普通考えられない。
お互いに自分は軽くない人間と思っていただけに今の言葉を聞くと一瞬だけ、うんっと思ったが、彼は感が働いたのか、感があったのかちょっと考えた。とてーも長い一瞬だった。
彼女も同じ風に感じたのか、一瞬戸惑ったような何かを考えたようだが、にこっと笑うと彼の返事を待った。
「葉月優」
「ハヅキユウ?」
カリンは女性みたいな名前に戸惑った。
「いつも言われるんだ。名前も苗字も名前みたいだし、女性の名前ぽいって」
少し照れながら言う彼にカリンはそんな事ないという顔をすると
「あのう」
彼の言葉に
「えっ」
何か言い忘れているのかという顔をすると
「名前」
と言って彼はまだ聞いていないよという顔をした。彼女はふふっと笑うと
「天宮花梨」
漢字を書いて説明すると
「花梨は難しいからカリンってみんな書いている」
「あまみやかりん」
「素敵な名前ですね」
「ありがとう」
と自分の名前を褒められて素直に喜ぶカリンに彼は、可愛いなと思った。
やがて、店員がフローズン・スカッシュと生中を持ってきた。
カリンはストローについている紙の袋の端を切るとストローを出してグラスの中に入れた。
グラスの中はシャーベット状になった半透明な水色の液体が入っていてその中に赤や緑の果物らしいものが入っている。彼は始めて見るその飲み物に頭の中で疑問符を山のように描きながら
「じゃあ、始めまして」
と言って生中のジョッキを持った。
カリンは、フローズン・スカッシュのコップの回り付いている氷を見て、グラスの口元だけ指先で持とうとして無理な事が分かると彼の顔を見た。
彼はほんの少し目元を緩ませると再度
「始めまして」
と言って笑顔を見せた。
彼はそんな仕草をするカリンに可愛いなと思いながら生中の冷たい感覚を味わった。
カリンも
「始めまして」
と言って手に持てないグラスの淵を指先で支えながらストローを口にした。
カウンターと椅子は少し離れているが、カリンが口元だけストローに持っていくとブラウスの胸の先端が当っている。
彼は、ちょっと横目で見ながら結構大きいんだなと思いながら、今の視線が気づかれないようにもう一度生中を飲んで喉を潤した。
軽く「ふうっ」と息をつき生中のジョッキをカウンターに置くと、彼は隣に座る彼女の指先を見た。小さな手に細い指先、爪がピンク色に透けるような綺麗だ。
冷たそうにグラスを触りながらストローにつけていた口元を離すと薄く口紅がストローについていた。
カリンは口紅がついたストローの先をじっと見つめると指先で軽く口紅を拭くと彼の顔を見た。彼が
「おいしい」
と聞いたので
「ええ」
と答えると丁度その時、店員が
「お通しです」
と言って貝みたいなものが入った小さな器を置いていった。
「結構、流行っているんだね」
生中のジョッキから口を離した彼は、隣に座るカリンに回りを目配せするように言うとお通しに箸をつけた。
お店に入って二時間。取り留めない話に花が咲かせていた二人は、カリンが自分の腕時計を見て
「あっいけないもうこんな時間」
彼女の声に彼は、
「えっ」
と言って自分の腕時計を見た。まだ午後九時前だ。
どうしてという気持ちで居るとほんの少し困った顔で居る彼女に
「じゃあ、そろそろ出ようか」
と言って店の店員に腕で大きなXの字を書いた。不思議そうな顔をする彼女に
「あっこれ。これはもう食事は終わりました。お会計お願いしますという合図。店の中が込んでいたり、人の声で聞こえないから自然と出来た仕草みたい。僕も発祥は知らないけど」
そう言って説明すると、彼女は不思議そうな顔をしていた顔を普通に戻りにこっと笑った。
二人が階段を降り、道路に出ると入る時は右から来たのに左に彼は進んだので戸惑うと
「帰りは明るいバス通りの方から行こう」
と言ってカリンの顔を見た。
確かに来た道は人通りも少なくなっているけど、駅までは一本道。逆にバス通りはコの字形に歩いていかなければならない。確かに明るいが。
ちょっと残念に思いながらカリンは彼の隣に並んで歩いた。直ぐにバス通りに出ると確かに明るい。車の通りもそんなにないが、道の狭い分だけ車が走ってくると結構怖い。
歩道部分が狭い分、カリンを車道の反対側にしながらぴったりくっついていないと歩けない。時折、腕や肩が触れ合うとカリンはぴくっと自分の中にあるある感情が震えた。
駅のホームに並んで電車が来るのを待っている。何も言わない彼に次はいつ会えるのかなと思いながらそんな事を考える自分にちょっと驚いていた。
食事をしながら家の場所の話題になった時、何と彼は隣の駅だと言っていた。自分は隣の駅で乗り換えて一つ目である。歩いてもいけない場所ではない。ちょっとだけ、心が浮く感じがした。
次の朝、カリンは出勤するとデスクで仕事する作業が多く、受付の前を通り、彼の部署の方にある統合オペレーションセンターに行く事はなかった。結局、この日は彼と会うことはなかった。
少し、心の中に風が流れるのを感じながら、同期で入った仲間と帰り道を共にした。
そして、次の日も次の日も会うことはなかった。
カリンは、段々自分の心の中にある何かが理解できるようになった。少しずつ暗くなっていくカリンに同僚や先輩が
「どうしたの」
と聞くと
「ううん、別に」
と言って話をそらすが、心の中の風の回廊が段々大きくなっていくのが分かった。
「天宮さん。これオペルームの大野さんのところに持っていって」
アドバタイズメントは、デスクが一人一人パーティションで区切られている。頭脳集団という触れ込みをもあり、本部長が特に個の力を意識した結果だ。
カリンも新入社員とは言え、ドクターの称号を持つ。イメージからは想像が付かない。もっともドクターを取る事が入社の条件だったから仕方ない。
ちなみにこのダイナース・オリンピアは、石を投げればドクターに当たると言うくらいの会社だから、社内では当たり前のレベルだ。他の会社では考えられないが。
先輩の女子社員から渡された、データディスクの入ったパックを手に持ちながら、受付の前を通ると彼が受付の女性と話をしている。
チラッとその光景を横目で見て、少し寂しい気持ちになりながらオペルームの大野のところに行くと、大野は脂っこい肌にめがねを掛けた顔でカリンの体をなめるように見てデータディスクの入ったパックを受け取った。
カリンは、頭を下げると逃げるように大野の側を去ったが、大野が自分の後ろ姿を見ているのは後ろに目が付いているように分かった。オペルームから見えなくなるブロックを右に曲がると彼が向こうから歩いてきたところだった。
「あっ、こんにちわ」
さっきの受付の女性と彼との会話の姿が記憶にあったカリンは、頭をぺこんと下げるとその場を立ち去った。
私、馬鹿じゃないの。あんなに会いたかったのに自分の感情のもろさに自分自身が討たれながら、カリンは、デスクに戻るとデスクに覆いかぶさり顔を両の手で隠した。
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