春うつろう

福津 憂

春うつろう

 三月の川辺を歩いていた。薄手のセーターは首元を執拗に突き、アスファルトの上では毛虫が死んでいる。川岸に敷き詰められたコンクリートブロックの上には幸せそうな家族が並んで座り、ラップで包まれたおにぎりを頬張っていた。

「こんぶと鮭と……」僕らは歩きながら、それとなく視線を向ける。

「おかかだね」

「どんな味なんですか?」

「美味しいよ」彼女は僕を見てそう言った。「また今度食べてごらん」

花粉症によってしゃくり上げる様な呼吸になることを除けば、それは素晴らしい春の昼下がりだった。つぼみを小さく携えた桜並木は青い葉を風に揺らし、もう遠くないうちに美しい花弁が開くのだろう。ずっと遠くの海から吹く風が全てを撫でて行く。僕の前髪は目元をくすぐり、彼女の長くカールした髪は波の様に揺れていた。彼女は長いワンピースを着ていた。腰のあたりで絞られた厚手の生地は海の底の様な青さで、少し茶色がかった長い髪が良く映えている。僕は彼女を意識しない様に歩いていた。一度でも彼女の隣にいることを思い出してしまうと、途端に歩幅が乱れ、思考もままならなくなるだろうから。風が吹くたび彼女の匂いに鼓動が早まるのにも、僕は気が付かない様にしていた。僕は彼女の顔を良く覚えていない。ただ、笑うと三日月の様に細められる瞳や、リズムよく揺れるバランスの良い手足だけを記憶している。そしてそれは、僕の記憶の残っている限り、最も幸せな時間だった。


 その時の僕は高校生で、彼女はいくつか年上の大学生だった。ある大学の理系学部に進むことが決まっていた僕は、何もすることがない春休みの消費に困り果てていた。手当たり次第に本を読み、映画を観て日々を埋める時もあったが、大抵の場合は無気力なままソファに横たわっていた。そして、見かねた母親に半ば追い出されるようにして向かった公開講座が、あの春の土曜日だった。

 

 視覚メディア室と書かれた部屋には、僕の他に二三十人程しか入っていなかった。階段上に座席の配置された大講義室で行われる予定だったその講座は、予想以上に申し込みが少なかったらしい。受付を済ませた僕らには開催場所の変更を告げるプリントが配られた。意気消沈した様子の教授が現れ、その面倒臭そうな表情に見合っただけの講座を済ませた。僕は窓際の景色の良い席を選び、しゃがれ声の老人が語る創作のあり方に耳を傾けながら、そのどれも頭には入れずに手の中の鉛筆をぼうっと眺めていた。


 結局その講座を終えた僕は、ただ後悔だけを感じていた。他にすることも無けれど、わざわざ電車を乗り継いで受けに行った講座は僕に何ももたらさなかった。老人の話で時間の半分は消費され、余った時間で僕らは短編小説を書かされた。殆どが同年代なのであろう参加者は各々の作品を発表し、数人が指名されては感想を述べることを強いられた。僕も同じ様に席を立って作品を読み上げ、気の弱そうな男と珍しく四十代らしい女性が批評役を指名される。僕の作品は参加者の中で最も優れたものとして拍手を受けたが、僕は何も満足感を得なかった。僕はただそれらしく外見を取り繕う術を知っているだけで、そこに作品としての価値は無きに等しい。そして素人の集まった講座の中で、同じく素人である僕が表彰を受けたところで、そこに喜びを見出すことは出来なかった。

 

 いや、僕はただそう思いたかっただけなのだと思う。その日彼女と話すまでは、僕の考えはこうだった。何か価値のあるものを作ることによって僕らに価値が生じ、その価値は相対的な評価によって与えられると思っていた。当時の僕はその考えが正しいと思って疑わなかったし、四年が経った今でも完全にぬぐいきれてはいない。けれど、それが間違いだと信じようと努力している。それは、彼女が僕に話した「価値」をなぞろうとしているからだ。


 「何かを作ることは好き?」あの春の川辺で、彼女は僕にそう聞いた。横に並んだ僕らは川に沿った長い道を歩き続けていた。幸せそうな人々とすれ違い、僕らの隣を何台もの自転車が追い抜いて行った。僕は好きですと答える。

「良い文章を書けると自分を許せますから」その時の僕は、自己嫌悪から逃れるために作品を作っていた。何もない僕でいることが苦しかった。些細なことから幸せを得る術を忘れ、自らを無能と考えることが辛かった。作品を作り、それを誰かに認めてもらうことによって自分が存在し続けることを許したかったのだ。僕の創作に熱意はなく、それは騙し騙しの延命措置であった。


 僕は彼女にも同じ質問をした。彼女が何に縋って作品を作っているのかを知りたかった。彼女は文学部の学生で、僕と同じ様に小説を書いていた。彼女はあの日の公開講座に手伝いとして参加し、僕はそれを受講した。そしてたまたま乗った電車が同じで、たまたま最寄駅が同じで、たまたま帰路を共にした。僕らにはそれだけの関係性しか無かったが、その程度の質問ならば許されると考えた。それに彼女だって僕にそう聞いた。


 正直なところ、誰かと二人で—特にそれが女性で、それに目を合わせられないほど綺麗な女性と一緒に—歩きながら話す経験のほぼ無かった僕にとって、僕から何かを聞くことは酷く勇気を要した。けれどそんな僕の緊張が馬鹿らしくなるほど、彼女は楽しそうに返答をする。

「私は小説書くの好きだな」彼女は歩きながらそう言った。彼女の履いた傷一つないローファーが、こつりこつりと小気味いい音を鳴らしている。彼女が歩くのに合わせて、濃紺のワンピースの裾がふわりと揺れていた。

「何かを書くのは楽しい。それがどんな出来であっても、例えどうしようもない駄作でも。私はそれで満たされる」彼女はそう続ける。「自分の書いた作品の内容がどうであれ、それは私が楽しんで書いた結果だから。だから私は自分の作品の全てを愛せる」


 それだけが彼女と交わした意味のある会話だった。時間にしても三十分にさえ満たない帰り道だったろう。それから四年がたった今でも、僕はあの三十分間に生きている。あの日からの時間は、まるで夢を見ているような感覚だ。僕の持っていた現実と、それを構成していた価値観は、彼女によって根本から塗り替えられてしまった。僕にとっての現実は、彼女の話した価値観であり、あの三十分だ。僕はあれから現実を生きようと、小説を書いてきた。ただいくら物を書けど、僕はいつまでも満たされなかった。焦燥感と渇望だけが募り続け、何も得られぬまま四年がたった。


 あの日と同じような早春の土曜日だった。僕は通っていた学校を辞め、一年間の受験勉強の末にある大学の文学部の入学試験に合格した。そうすることは現実へと近づく道の一つだと考えていた。僕は小説を書き続けた。物を書くことを楽しもうと努力した。何にもなれなくても、誰に認められなくても、自分を認めようとした。認めなくて良いとさえ思おうとした。いつか彼女が僕を見たときに、笑顔を向けてくれればそれで良かった。


 僕は大した物書きにはなれなかった。学生時代を創作に捧げても、だ。捧げるという言葉を使うことが恥に思えるほど、僕は酷い作品を作っていた。けれど、いくら僕が創作を辞めようと考えても、どれだけ酷い小説しか書けなくても、僕は彼女の言葉に縋った。いつか自分の作品を愛することができるようになると信じた。そうして、人並みの努力もせずに駄作を生み出し続けた。人の意見を拒絶した。世に溢れる正しい作品から目を背け続けた。

四年がたっても、僕は何も変わらなかった。


 先月のことだ。僕の目にある広報記事が留まった。どこかの小さな文芸誌が開催した文学コンクール。僕の知らない作家や批評家の名前が並ぶその評者の中の一人に、彼女の名前があった。彼女は在学中に新人賞に選出され、ささやかだが、確実に「作家」という職についていた。僕はそのコンクールに作品を送った。例年の審査状況から見るに、ほとんどの作品が奨励賞を受賞し、評者からのコメントを送られている。僕は彼女が僕の作品の担当になることを期待した。そしてその期待は、信じられないほどにうまく叶えられた。


 四五十の作品がコンクールに送られ、その殆どが何かしらの賞を得た。規模のとても小さいコンクールだったので、能力の発掘と言うよりも文字通りの奨励に重きが置かれているらしい。僕の作品はその奨励賞の下の方に名前を連ね、彼女からのコメントが送られた。結果が公表されたのはつい先日のことで、土曜日の正午ごろだった。僕はノートパソコンを開き、サイトを訪れた。送られた批評はそのままにコピーしている。

 「主題としては良い線を行っていると感じました。ただ、表現方法や使用している語彙、情景描写などに稚拙さが見受けられます。独り善がりの作品になっているのでしょう。優れた作品に触れることに時間を割きましょう。多くの努力を積まなければ、良い作品は生まれません」


 それから僕は何もしていない。今まで以上に何も手につかなくなった。大学卒業を控えて居るのにもかかわらず、就職すら決まっていない。仕事などどうだって良いと考えていた。彼女の言う通りに作品を作っていれば、幸せになれると思っていた。僕は生活の中で幸せを得る方法を忘れてしまった。僕は彼女の言葉に縋り、彼女の持つ幸せを得ようとしてきた。四年前のたった三十分の会話で、僕は現実的な生き方を忘れてしまった。馬鹿らしいとは僕だって思っている。焦りばかりに身を任せ、目を伏せたまま、耳を塞いで叫び続けた。そうすれば誰かが助けてくれると思っていた。青いワンピースを纏った彼女がやってきて、僕の手を取ってくれるはずだった。そうして僕らはゆっくりと歩き始めて、四年前の川辺を進むのだ。青い桜並木は次第に薄桃色のつぼみを膨らませ、やがて花弁が開き、水面いっぱいを埋めて行く。僕はそのことばかりを考えていた。


 自分の全てが変わることなど、そうよくある話ではない。けれど、自分は変わったのだと思い込むことによって、僕は彼女の生き方ならなぞっても良いと思えた。何もかもが変わってしまうことなんて、本当はないのかもしれない。けれど、あの三月の昼下がりは、僕の全てを壊してしまった。そしてその綻びを治せるほどには、僕は強い人間でなかったのだ。


 僕は彼女になりたかっただけだった。彼女になれば幸せになれると、そう思っていた。努力もせずに、外見ばかりを取り繕い続けた。そしてそれは、あっけないほど簡単に、風に吹かれては潰されてしまった。

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春うつろう 福津 憂 @elmazz

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