3 浮遊ペンギン脅迫事件




「おれ、まだ昼飯食べてないんですけど……」


「じゃあ私と食べればいい。弁当もある」


「……手作り?」


「市販品だが?」


「…………」


 陽木ようぎ蒼詩そうた朝見あさみしぐれに連れられ、生徒指導室を目指していた。


 目の前を歩く黒い後ろ姿は年上とは思えないほどの低身長。男子高校生の平均よりやや高いくらいの蒼詩と比べて、頭一つぶん小さい。これで蒼詩のクラスの担任だというから不思議である。実は年下で、海外で飛び級したとかそういう設定があるのかもしれないと蒼詩は内心思っている。


「おれはいったいどうなるんですかね。怒られる理由はないと思うんですけど。例の件なら犯人見つかったじゃないですか」


「実を言えば、別件で話がある。というか、お前に話がある、というヤツが来ている」


「はあ……」


 誰だろう。心当たりはないが、生徒指導室に行くくらいだから、校外から誰か来ているのだろうか。


(外部の人……警察……事件――いやいやいや)


「恋愛相談がしたいらしい」


 しぐれの言葉でほっと一息。


(なんでも悪い方向に考えるのはおれの悪いクセ……)


 だが一方で別の疑問が浮上する。恋愛相談? 互助会としてならまだ分かるが、蒼詩個人を指名する理由が見当もつかない。


 指導室に到着する。しぐれがおもむろに扉を開いた。


「は……?」


 直後、蒼詩はがく然とする。


 そこはよく見慣れた指導室とは異なっていた。


 なんというか――空だった。


「???」


 一面の、空色。そして、雲。

 空中だ。天空だ。室内に空が広がっている。その中に不自然に浮かんだ机と椅子。そして少女。夢でも見ているのかと思った。


「あっ、ちょっ、先生……?」


 躊躇いなく指導室に足を踏み入れるしぐれ。その足元に床はない。一面の空色が広がっている――落ちる――


「……落ちない?」


 普通に足音を響かせながら、しぐれは机の前まで歩を進める。


「どうした、早く入れ。そしてドアを閉めろ。ことは内密だぞ」


「…………」


 よくよく目を凝らせば、それは絵だ。考えるまでもなかった。しかし突拍子もなさすぎてすぐには理解が及ばなかったのである。

 床のカーペットと、それから壁紙。そこにリアルな空が描画されているのだ。


「何事……。模様替えにしては斬新すぎませんかね……」


 恐る恐る室内に足を踏み入れる。足は、しっかりと床を踏みしめた。見上げれば、天井は普通に見知った指導室のものだった。


(トリックアート的なものだろうか……。騙し絵――案外、おれが部室で見たのもそういう目の錯覚を利用したもので、千月ちづきは本人だとしても、あの血だまりは――なんて)


 空のまんなか、机を挟んで向かい合う少女としぐれ。蒼詩はしぐれの隣の席に腰を下ろす。三者面談を思い出した。ただ、そこまでの緊張はない。いろいろと、懸念していた問題が解決に向かっているからだ。


「で……? えっと――」


 机を挟んで向かいの席に座る少女に向き直る。小柄で、しぐれ先生とはまた別の子どもっぽさがある女の子だ。机の上に置かれた手は、ブレザーの袖が余って指先だけが覗いている。まるでペンギンみたいだな、というのが蒼詩の第一印象だ。


 その顔には見覚えがあった。


「わたし、2年B組の相仲あいなか恋路こいじといいましゅ。生徒会役員でち」


「……?」


 生徒会長の後ろでたまに見かける女子なのは知っていたが――はて、何かの聞き間違いだろうか。


「今日はに折り入ってお話があるでち」


 活舌が悪いのか、語尾がきちんと聞き取れないのだが、それはあるいは彼女が貧乏ゆすりをしているせいかもしれない。声も変に震えている。さながら机の下で銃口でも向けられているかのような緊張ぶりだ。誰かに脅されているのだろうか。


「まずはこの写真を見てもらうでち」


 この際彼女の語尾は無視しよう。相仲が手帳を取り出す。この天知学園の生徒手帳だ。彼女はそこに挟まった何枚かの写真を机の上に並べてみせる。


 注目すべきはその写真――どこか遠く、外から校舎内の一室を撮ったもののようだ。


「これが何か分かるでちね?」


「……先生と……おれ?」


「そうでち。そしてこれが何を意味するか――分かりましゅね?」


「いや……?」


 模様替えされる前の生徒指導室、そこにいる蒼詩としぐれが写っている。何枚もある写真はそれぞれ異なる日のものだ。今は隠されているが、部屋の奥の窓の方から撮られたものだろう。明らかに隠し撮りされたものだ。


「分からないなら教えてやりましゅ。これはずばり――教師と生徒の禁断の関係を捉えた証拠写真でち」


「つまりスキャンダルだな」


「えーっと……」


 まあ、言われてみればそう見えなくもない風に撮られている。当の本人にその自覚がないからそんな発想はまったくなかったが、見る人が見ればそう捉えてもおかしくはないのかもしれない。


「で?」


「分からない人でちね……。つまり、これをバラ撒けばしぐれ先生は生徒に手を出したことで懲戒免職として教職を追われ、陽木くんは一生ロリコンのレッテルを貼られるのでち」


 脅されているのかと思ったら、脅されているのは蒼詩の方だった。


「ロリコン……」


 それは困る。いやしぐれはれっきとした(恐らく)成人女性なのだが――


「つまりこいつは私たちを脅迫するつもりらしい」


「おっと――」


 しぐれが椅子から腰を浮かすと、相仲がわざとらしく両手を上げる。


「別に、写真ならくれてやるでち。そもそも、わざわざ写真にして見せている意味が分かるでちか? それを処分したとしても、データがあるからいくらでもコピー出来るのでち」


「そのオリジナルを持っているのはお前だろう? なら――お前を殺して黙らせる可能性は考えなかったのか?」


「ちょっ、先生……!?」


 凄みを感じさせる低い声に思わず本気で疑ったが、


「脅迫に屈する私ではない。バラ撒きたければそうすればいい。むしろ、その方が好都合だ。既成事実が出来上がるからな。それで職を追われたら、陽木には責任をとってもらう」


「はい……? あの、先生……?」


 何か格好いいことを言っているような雰囲気だが、その実かなり素っ頓狂な発言をしている。


「さすがに教師、肝が据わってるでちね……」


 こほん、と相仲が咳払いする。


「わたしとしても、なるべくならバラ撒きたくはないでち。しかし、その肝に銘じておいてほしいでちね。わたしはいつでも、二人の仲を引き裂けるのでち、と」


 語尾はともあれ、なかなかに肝の冷える話だ。ロリコン疑惑など吹っ掛けられた日にはもう、これからの学園生活はとても肩身の狭い想いをすることになるだろう。校内のみならず、最悪二度とお日様の下を歩くことが出来なくなるかもしれない。


(俺が否定しようと……「そういう噂」が広まったが最後。それが現代社会……)


 蒼詩は緊張から居住まいを正す。しぐれはともかく、相仲に要求があるなら出来る限りそれに応えなければならない。


「それで……きみは、何がしたいんだ……?」


「わたしの目的はでちね、簡単でち。別に、金品を要求しようという訳ではないでち。ただ単に、釘を刺しておきたかっただけでち――方司かたつかさ先生に近づくな、と」


「方司……?」


 といえば、2年B組のクラス担任だ。若い男性教師で、女子生徒からも人気がある。


「しぐれ先生を方司先生に近づかせないでほしいでち。陽木くんにはそれをお願いしたいでち」


「はあ……」


 しぐれに釘を刺すことが目的なのだろうが、当のしぐれは脅迫には屈しない姿勢。それを見越して、蒼詩を同席させたのだ。実に迷惑な話である。


「でも、どうして先生たちを……? というか同僚なんだし、自然と近づく機会があるだろう……」


「そこをなんとかするのでち。必要以上の、そう、たとえばプライベートでの接触を避けるのでち。その点、わたしと陽木くんは同志でち」


「はい……?」


「わたしも先生と生徒の禁断の恋を邪魔するつもりはないでち。むしろ陽木くんを応援してるでち。だから、陽木くんもわたしの恋をなるべくサポートするのでち」


「『だから』から先の理屈が理解しかねるんだけど――」


 しかし、彼女の意図はなんとなく掴めた。つまり、相仲恋路は方司先生に片想いしているのだ。だから、先生がしぐれと近づくこと……同僚の女性教師と接触することが許せない。そのため、蒼詩を脅し、秘密(と思われているもの)をバラされたくなければ、自分の言うことを聞け――


(とんでもない誤解を受けている訳だが、そこはもはや問題じゃないんだ……。問題は、俺が弱味を握られているということ……。でも、こいつだってそういう禁断の恋がしたい訳で、だからなるべくなら秘密をバラ撒きたくはない――)


 一方で、バラ撒けば恋敵(?)であるしぐれを排除することも出来るから、彼女としてはあくまで「なるべくなら」なのか。その気になれば迷わず秘密を暴露することだろう。


(最悪、俺の人生お先真っ暗……先生はああ言ってるけど、一度でも懲戒免職とかされたら他の学校でも教師やってけなくなるよな……? 少なくとも悪い噂はついて回る……)


 後ろめたいことなんてなかった。そんな自分が、まさか他人に「弱味」を握られる日が来ようとは――しかも、まったく予想だにしない内容で、ほとんど面識のない相手に。


(恋は盲目というか、無我夢中というか……赤の他人を脅迫するとか、なんてことするんだ)


 思うに、相仲恋路はそもそもしぐれに釘を刺そうと、しぐれの弱味を探っていたのだろう。その結果、蒼詩に行き着いたのだ。まるで悪い夢だ。


「殺して黙らせることも出来るぞ」


「いや、あんた教師だろ――」


 殺して、黙らせる。


(他人の恨みを買わなくても――もし、誰かの弱味を握ってしまったら? 偶然、たまたま、誰かの秘密を知ってしまったとしたら――)


 殺して、黙らせる――


(いや、まさか――考えすぎだろ。先生だって冗談で言ってるんだろうし――誰かが千月を殺したなんて、そんな――)


 そんなこと、ある訳が。


「ぺん」


「……ぺん?」



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