ア・ガール・イン・ザ・ボックス
テルミ
一羽 白紙の私の……
つまらない人間の歩む人生なんて多分、今読んでいる小説の一文よりも価値のないものだと思う。
いや、言ってしまえばそれは文字に起こすことすらおこがましく思えて、インクが無駄になる分実は無価値を通りこしたマイナスなものなのかもしれない。
生きていて良いのだろうか。たまに、思う。
自分の中で答えは見出せていないけど、誰かに教えてもらおうと思ったことはない。
そんなことないよ。きっと素敵な人生さ。
保証も責任もないとりあえずの返事が返ってくるだけで、答えは教えてくれないはずだから。
人生とは、生きてきた意味を見つける為にある。なんて言葉もどこかの本で読んだことがあるような気がする。
意味なんてどうでも良い人は、与えられた80年余りの自由時間をどう過ごすべきなんだろう。
見つけられなかった人の人生は、無駄なんだろうか。
意味があるのならば知りたい私は後者なんだろう。
そうであるのなら、なおさら思う。
「生きていて良いのかな」
読んでいたそれが文字の羅列にしか見えなくなってきたので閉じ、少し引っ張られる思いが消えたことを確認してから、いつもの駅に着いたところで席を立つ。
「いいんじゃないかな。少なくとも、誰かに迷惑かけてなきゃ」
扉を抜けようとしたところで聞えたのは独り言のようでもあって、届いてほしいという思いは込められていない返事でもあったよう。
先の繋がっていないイヤホンを外しても、レールと車輪の擦れる残響だけがそこに転がっているだけだった。
表面だけをなぞればそこには肯定があるようで。保証も責任もないけれど、とりあえずの返事とは違うようななにかがあるような気がして。
学校までの道ではずっと、そのことを考えていた。
駅を抜け、高架下を抜け、誰に何も言われていないけれどそっと道を譲るように端を歩き、歩き、歩き、神社を抜け……ずに、少し寄ってみることにした。
「つめたっ」
柄杓ですくった水はいつの季節でも冷たいようだ。
身体は清められたのかもしれないけれど、心には落ち着きがなくてとても清められたような気はしない。
参拝客は特別でもない平日の朝ではさすがに私だけみたいだ。
置かれている賽銭箱を見ると、なんとなくご利益にあやかりたい気持ちになってしまうのは私だけではないだろう。
せっかく清めたのだからとついでに適当な小銭を投げ入れてから、さて何をお願いしようと数秒考える。
前略
今朝、あの言葉をかけた人を知っているのであれば、ぜひ教えてくださいませんでしょうか。
お返事、待っています。
草々
答えを聞けば良いものの、我ながらなんて回りくどいことをしているのだと思う。
結局願い事は伝えられたから良いけど、私はどうして考える前にあんな行動をしてしまったんだろう。
きっと私は私が思っている以上にそれを、深刻に考えて追い詰めていたのかもしれない。
石造りの階段を降りる所で、私と入れ替わるようにして同じ制服を着た子が登ろうとしているのが見えた。私の学校では朝ここに来ることがブームなんだろうか。
先の繋がってないイヤホンを再び耳にかけ、軽い会釈なんかして足早に駆け降り、学校に向かう。
「あ、さっきの子だ」
すれ違いざまに何か言っているような気がしたけれど、よくは聞き取れなかった。
「四角箱さんって、なんとなくお嬢様っぽくない?」
「知らないの?本当のお嬢様だよ、あの子」
「そうだったの!?」
進学したりクラス替えをするたびに聞こえてくるその声にはもう、うんざりしていた。
遠巻きにこちらを見てくるクラスメイト、遠くで私の話をしているあの子たち。
聞こえないところでやってほしいと思うこともあるけれど、私の知らないところで私の知らない私が独り歩きしているのも癪で、やはり今のこの距離がちょうどよかった。
「ねえ、し、四角箱さん」
「ん、なに?」
「今日の放課後とか空いていたらその……みんなでサイゼいかない?親睦会も兼ねてなんだけど」
「私は……いい」
「そっか、うん、ごめんね?急に言っちゃって」
「うん」
「じゃ、じゃあね」
新学期はちょうど良い距離を踏み越えて声を掛ける子も少なくはない。それを鬱陶しいとは思わない。その逆に嬉しいとも思わないけれど。
心が痛むとかそういう感情はもう私の中には、なくなっていた。
私が許しても、どうせ親が許してくれないのだから。
いや、行きたいとも思わないから逆に門限はどちらかというと私の味方をしてくれているようで、うまく利用させてもらっている。どうせ行ったところで話も合わないのだろうし、それが最初で最後の交流だと思うから。
「箱入り娘とか、そういう?」
「みたい。でも羨ましい、将来とかもう約束されてそう」
それは隣の芝だから青く見えているだけ。上辺だけなぞったお嬢様に憧れを抱くのは少女漫画の世界に憧れているようなもの。それを私に向けないでほしい。
向けられないどこか遠くへ行きたい気分だった。正確に言えば向けられても気付かないところ、そんなところであればどこでも良くて。
ちょうど良く教室に入ってきた先生を捕まえて適当な嘘をついたのが、思えば私の初めての犯行だった。約束という名の束縛から抜け出せたのは、ほんの少しの出来心となし崩しで背中を押されるきっかけのおかげ。
「先生。少し気分が悪いので保健室に行ってきても良いですか?」
「今からか? まぁ…… とりあえず行ってこい」
「すみません」
謝ることはない、と言われたがそれくらいはさせて欲しかった。私は先生の善意を利用したのだから。
胸の奥が熱くなるようなこの感覚は何だろう。傍から見れば私は咎められるようなことは何もしていないのに。私がどこかにたどり着くまでは誰にも会いたくないと思わせられる。
鐘の音だけが響く廊下は新鮮で、驚くほど冷たくて、ほんの少し怖い。
私だけのはずなのに自然と端を歩いて、角を曲がる時は先に確認してから足音を殺しながら歩いていて。
胸がざわざわする。普段より感覚が敏感になっているような気がする。小さな音ひとつひとつは水に潜っている時みたいなひどく曖昧な聞こえ方がして、少し足は震えていて。
あいにくとこの気持ちを表す言葉を私は持ち合わせてはいなかった。相反して、混ざろうとして、融け合って。
ただひとつ、私は今高揚しているのだと、それは唯一確信をもって言える私の感情だった。
さて、どこへ向かおうか。保健室でも図書室でも体育館……は授業中だと良くないか、どれもこれも魅力的な選択肢に見えて選べない。つまらない選択しかできない私は、面白そうな選択肢しかない場合は何を選ぶのだろう。
長い長い廊下を渡る。靴棚を横切ろうと進む私は前しか見えていない。
なんたらは盲目というけれど、まさに今私はそんな状態だった。
こんな時間に誰かが登校するかもしれないという可能性を、見つけられなかった。
「おぉっ」
「あっ、その、ごめ、ごめんなさい」
氷水を頭からかけられたような思いがして、一瞬にして覚めた頭は現状を理解しようと熱が出るほどにまた動き出す。
じん、と指先と胸は波打ちながら熱を持っていて、まだ冷えるこの季節の廊下とで風邪をひいてしまいそう。
目の前の人も驚いたような表情を浮かべていて、あちらもまさかこの時間のこんなところに人がいるなんて思ってもいなかっただろう。
「って、今朝の」
「ほ、本当にごめんなさい!」
急いでこの場から逃げ出したくて、とにかく足は動き出していた。
どこでも良い、魅力的な場所なんかじゃなくても良い。そこに穴があればどこでよくて、そこにずっと入っていたかった。
「待ってよ!」
呼びかけに足が止まる。動け、動けと念じても動かなくて、振り返る。
校則違反スレスレな栗色の髪、丈が詰められた短いスカート、制服の上から被ったフード。すべてが異質に見えるけれど、どうしてかこの場にはとてもふさわしいようにも見えて、私のほうが場違いな印象を受ける。まるで正反対。
「君、朝にも会ったよね、覚えてる?」
「私が…… あなたと?」
二度頷くその人は誰かと間違えていないだろうか。少なくとも私は彼女を覚えていない。いや、知らないといった方が正しいと思う。それとも、どこかですれ違ったりでも……。
「あ」
「思い出してくれた?」
「もしかして今朝、神社ですれ違った?」
少し唸るような声を出しながら、当たらずとも遠からずといったような顔をしている彼女は、勝手に納得したような笑みを浮かべながら目を逸らす。それくらいしか思い当たらない。その反応でも私は最善手を打った自信はある。
「間違ってないけどまあ、うん、いいや。正解」
「そう、ですか」
会話が終わってしまった。私は彼女を知らないし、彼女もおそらく私を知らない。だからそれ以上に踏み込めないし、ここで他愛のない会話を繰り広げる間柄でもない。胸に少し禍根が残るだけで済んだのだ、これでいい。
「名前なんての?」
「あ、安希。
聞いたことないな、漏れたつぶやきに少し救われたような気がした。
苗字を聞いてもピンとこないくらいには私も有名人ではないらしく、少し安堵を覚える。
「
そんな名乗りをする人は生まれて初めて見た。苗字が嫌いなのか名前で呼んでほしいからなのか、そんなことを私がわかるはずもない。
「あき、ね。うん、覚えた。あのさ、安希」
「う、うん?」
「暇ならちょっと付き合ってくれない?」
またもや選択肢が現れた。それも唐突に、その先に何があるのかも知らずに。
いいえと言ったら、どうなるんだろう。
きっと私は保健室で数十分間休んで、何事もなかったかのように教室へ向かうんだろう。そして多分、もうこの子と会うこともなくなると思う。私らしい、なんてつまらない選択肢。
はいと言ったら、どうなるんだろう。
どこへ行くんだろう、何をするんだろう。わからない、ただそこにこの子も居るということしかわからない。
どちらが安全な選択肢なのかということだけはわかっていた。
けれど、今の私は私の思っている以上に危ない橋を渡りたい女だったらしい。
「いいよ」
置いて行かれないように一歩引いた位置をキープして歩き続ける。彼女の足取りは軽く、一方私のそれはぎこちないものだった。
どうして私がそちらを選んだのかはわからない。不安の雲が心を覆うけれど、期待もあった。
ようやく目にした箱の外の世界に私は、高揚していたのだ。
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