第百八話 誰が彼女を操った?



「ブリュンヒルデは今頃、ラグナ侯爵家をおとなっているはずだが……何かあったか?」

「過去のピーターが、彼女はアレスに洗脳されていると言っていたんだ」


 怨敵への報復も、人間関係の構築も順調な中で、これは唯一何も進んでいない懸念だ。

 周囲と向き合うことを決めたクレインからすると、これは至極真面目な話だった。


「洗脳だと? 何の話だ」

「え?」


 しかしアレスは意外そうな顔をしてから、心底わけが分からないという態度で、逆に聞き返す。


「妄信的なところがあるとは思うが、思想を変えるような話は一切していないぞ」

「いや、精神支配のせいで、命令に逆らえない様子だったというか……」


 死に際のブリュンヒルデの様子は尋常でなく、ピーターが虚言を弄している様子もなかった。


 彼女らが本心から話していたと見たからこそ、クレインも殺させる・・・・ことによる苦痛を与えたという、歪んだ罪悪感を抱いたのだ。


「よく考えろクレイン。状況に照らせば、それはあり得ないことだ」


 だがアレスは洗脳などできるはずがないと、完全に否定した。歴史の流れが多少変わっていようとも、十分に抗弁できる要素があるからだ。


「いくら精神的に不安定だったとは言え、私に洗脳の心得があったのなら、みすみす妹の操り人形になるはずがあるまい」

「それは、確かに」


 アレスが洗脳の手法をよく理解していたならば、アクリュースの手駒に丸め込まれることはなかったはずだ。


 そして心神喪失していたのだから、その状態で誰かを操っていたとも考えにくい。


 何より正気になった今のアレスが、洗脳などしていないと証言しているのだ。これにも嘘を吐いている様子は見受けられず、クレインは眉をひそめた。


「となると、これはどういうことだ?」

「私が聞きたいのだがな」


 クレインが戻れる限界である、王国暦500年4月の頃から一貫して、ブリュンヒルデはアレスの命令を異常なほど忠実に守っていた。


 それこそアレスが「部屋に入るな」と命じれば、たとえ彼が暴行されても室内には戻らない。全くと言っていいほど融通が利いていないのだ。


 しかしこの命令遵守が洗脳の成果かと言えば、それは違うと言う。


「過去のアレスが、どこかのタイミングで洗脳を始めたとか?」

「……難しいな。500年5月以降のブリュンヒルデは、アースガルド領に留まっていたのだろう?」


 アレスからの召喚命令が出てから暗殺までは、3ヵ月ほどの間しかなかったのだ。元からの忠義を利用したとしても、彼らにはその短期間で効果が出るとは考えにくかった。


「近衛騎士として、王家に忠誠を誓うのは当然のことではあるんだけど……」


 元から忠誠心が高いという説もクレインの頭に浮かんだが、それではピーターの言葉に説明がつかない。

 食い違いに悩む彼に対して、アレスはそもそもの質問を投げかけた。


「ピーター・フォン・シグルーンは確かに言ったのか? 洗脳したのが私だと」

「それは、つまらない者に洗脳されたものだと……」

「ほう?」


 ここだけを切り取れば誤解を生みかねないため、クレインはアレスに向けて、彼の墓地で起きた出来事を改めて説明した。

 と言っても詳しいやり取りはうろ覚えのため、語るのは印象に残った場面のみだ。


「あの男が死んで、なお操り人形のままならば。いっそ死なせてやるのが慈悲というもの」

「……ほう?」

「俺が言ったわけじゃない」

「分かっている、続けろ」


 ピーターの言葉には敬意の欠片もないため、口を止めながらの説明となった。

 しかし止めてばかりいても進まないため、不承不承ではあるがアレスも先を促す。


「……あの男とは、殿下のことではあるまいな」


 アレスも側近も揃って無能。そんな発言を前振りにして上記のやり取りがあった。

 怒気を孕んだ遺臣の質問に対する、ピーターの返答は何だったか。


「まあ、つまらぬ者に洗脳されたものだな、という感想があるのみですが……あれ?」

「私のことだとは言っていないな」


 アレスが亡くなっても操り人形のままならば、ここで命を絶った方が幸せである。その主張には誤解のしようがない。


 だが、誰が・・洗脳したのかという主体については、幾らでも解釈のしようがあった。


 ブリュンヒルデからの忠義がアレスに向くようにと、誰かが洗脳をしていたこと。つまりは利益を得る人間と、状況を作った人間が別という可能性は残されている。


「本人が否定しているなら、むしろそれで確定か」

「ああ。私が与り知らぬところで、何者かの手が入っていたと考えるべきだろうな」


 一連の流れと発言を再確認すると、アレスからはまた別な視点が生まれる。

 要はブリュンヒルデの性格を知っている人間が、弱点を突いた可能性だ。


「……東か?」

「王族に忠義を尽くすのが奴の美点であり、欠点でもある。ともすればアクリュースが動いたかもしれぬ」


 アクリュースならば王族であり、ブリュンヒルデからの敬意と忠義の対象に入っている。

 しかし問題は、その第一王女が逃亡中かつ潜伏中だったということだ。


「本人が出向くのは無理でも、間者でアレスを動かして、間接的に仕掛けられはするか」

「それが妥当だが……いや、済まぬ。やはりこれは考えにくい」


 即座に考えを取り下げたアレスは、怪訝そうな顔をしたクレインに向けて持論を続ける。


「私の性格からして何を吹き込まれても、洗脳で忠義を深めるという発想には至らない。明確に提案されたところで断るだろう」

「そうかな? より安心を得るために、やってみそうな気はするけど」

「では想像してみるといい」


 アレスが自分の思考を分析すれば、病んでいた頃の己がどう行動するかなど、容易に想像がついた。そのため彼は確信めいた口調で断言する。


「その企てが間者から提案されたものだとして、私がマインドコントロールという不確かな力を、手放しで信じると思うか?」

「……いや、思わない。証拠として洗脳済みの人間を連れてきても、半年くらいは演技を疑いそうだ」


 今でも十二分に慎重派ではあるが、その頃のアレスは病的に疑い深く、警戒を全く緩めない男だった。

 そしてその前提は、本人の口から更に深堀りされていく。


「そもそもの話だが、配下を洗脳しておけという怪しい提案をされた場合は……まず間違いなく発案者を疑ってかかるぞ。そんな輩は確実に毒蛇だからな」

「ああ、うん。家臣たちを散々疑った末に、自分の洗脳にも気づきそうだ」

 

 いつ殺されるか分からない恐怖で恐慌状態に陥り、ほぼ全方位を無差別に攻撃していた時期だ。


 その謀略が自分に向くことを疑い、症状を自覚して洗脳が解ける可能性が高いため、間者から操縦されて施した説も消えた。


「そして最大の否定点だが、私は成功時のメリットよりも、失敗時のデメリットを優先して考える傾向がある」

「ええと、つまり?」

「まずは洗脳をしくじり関係が悪化した場合を考えて、それに起因した謀反を恐れる。私ならばな」

「何とも言えないけど、凄い説得力だ」


 彼は猜疑心さいぎしんの塊であると同時に、どこまでもネガティブという本質もあった。


 つまり身の回りで不審な動きがあれば、徹底的に調べ上げるだろうこと。提案されようとも絶対に乗らないだろうこと。そもそも敵方からは提案してこないだろうこと。


 以上のことが、彼の関与を否定する要素だ。自発的にはやらないどころか、洗脳の技量がある配下に向けて命令を下したとすら考えにくい。


「呟きの内容が事実だったとしても、そこにアレスは介在していないか」


 しかし今となってはどんな仮説も憶測に過ぎず、両者共に渋面を浮かべていた。

 そのため彼らの結論は、本人に直接尋ねるのが最良というものだ。


「何にせよ、詳しくはピーターに聞いてみるしかないな」

「あれこれと推測をするよりも、それが確実だ」


 アレスにしてみれば、最も忠誠心の篤い部下がブリュンヒルデだ。死に際の発言からしても、彼の命令に従うことで居場所を守ろうとしていた節がある。


 しかし誰が洗脳したと思っているのかは、結局のところピーターにしか分からないことだった。


「彼について、何か知っていることはあるか?」

「いや……奴に関しては、私もよく知らぬ」


 そろそろピーターとも対談すべきかと考えたクレインは、少しでも情報を集めようとした。

 しかしアレスは首を横に振り、唯一の接点のみを話す。


「武術の師に据える案があったようだが、いつの間にか立ち消えになっていた」

「深い関係がある人物の話も聞かないからな……。死ぬことも視野に入れて、まとめて聞き出すしかないか」


 クレインからするとピーターは信頼の置ける家臣だが、不明瞭なところが多く、背後関係がよく分からないところもある。


 しかし何が起きるかは分からなくとも、避けて通れない道に変わりはなかった。


「そこはヨトゥン伯爵家との会談が終わってからの、課題にしておこうか」

「そうだな。……では、次はそちらの話を聞かせてもらおう」


 アレスからの話と、クレインが気になった話については聞けた。あとはアースガルド領で何が起きていたかを情報共有すれば、一旦は話が終わる。


 しかし使者を3時間も4時間も待たせるわけにはいかないので、クレインは毒薬を口に放り込んだ。


「俺からの話はほとんど予定通りだから、掻い摘んで伝えることにするよ」

「それが無難だな。詳細はまた改めてするとしよう」


 目の前で唯一の友人が死亡する予定なので、アレスは何とも言えない奇妙な顔をした。しかし気を取り直した彼は、最後に軽い確認を入れる。


「私からの話は全て聞いたと、過去の私に伝えてくれ。シグルーン兄妹の件については明日以降でいい」

「分かった。後日共有させてもらうよ」


 時を遡ったクレインは再びの相談を始めたが、アースガルド領で行ってきた作戦の大筋は密書で伝達済みのため、アレス側の確認にはそれほど時間はかからなかった。


 王国暦500年6月からの流れを語り終わると、彼らは待たせてあったヨトゥン伯爵家の使者を部屋に呼び寄せて、アレスも同席しての話し合いを始める。



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 次回の更新は5月6日(土)を予定しています。


 また、4月末日付けで出版契約を解除、本作の権利が全て作者に返却されることが決定しました。


 年に1冊の刊行ペースに合わせてWEB版を月1連載にしてありましたが、5月からは2週に1回ペースに戻そうと思っています。


 差し当たり次々回は5月15日(月)更新を予定していますので、今後ともよろしくお願いします!

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