エピローグ 狂乱の刻(前編)
王国暦502年1月7日。
アレスは自室の窓辺に立ち、沈みゆく夕日を眺めながら呟く。
「聞いた通りに進んでいるのなら、私の暗殺は秒読みに入ったか」
自らが情報封鎖に動いたため、当日の仔細はクレインにも分からない。
死因は不明のまま時が流れていた。
「だが仮説は立つ。奴らが仕掛けてくるとすれば、王宮外だろう」
過去のクレインが積極的な情報収集に動いたところで、成果は皆無だった。
アレスの側近たちとて、裏事情は何も掴めていない。
しかし仮に王宮内で暗殺されたとすれば、口封じなど不可能だ。
どれだけ強く
「父上や宰相などの一握りしか、裏側を知り得なかったのならば。殺害場所は人目に付かず、尚且つアクリュースの手が届く範囲で行われるはずだ」
動乱を避けるため、宰相らが積極的な介入を試みたという線もある。
しかしそうだとしても、努力で消せる程度の環境は作られていたはずだ。ならば敵方には何かしらの理由を付けて、己を釣り出す算段があるに違いない。
前々からの推測を整理しながら、アレスは更に細かい状況を想定していく。
「宮中にもまだ内通者は潜んでいるだろうが、やはり
行先を誰かに伝えてから出向き、殺害されて、事情を知ったクレインの対応を待つという手はある。
しかし彼は、最も確実な手を打つべく行動していた。
「いずれにせよ対策は済んでいる。それにクレインさえ無事であれば、いかようにもなろう」
協力関係を結んだ今なら、最終的な死を回避できる確率が非常に高い。
物思いに
「奴は身内に甘いようだから、私のことも見捨てはしまい。……何せ友だからな」
脳裏を
殴り合いをして、深い話をして仲直りをする。彼が知っている騎士の物語にはそういうエピソードがいくつか登場した。
父にも似たような逸話があるという、身近な体験談も聞いている。
だがその導入を差し置いたとしても、アレスはクレインの態度と眼差しを信頼していた。
中央貴族の多くが第一王子に向ける、欲で濁った目をしていなかったからだ。
「私という一個人の判断を怒り、個人への感情をぶつけてきた。その愚直さと、ある種の誠実さを信じよう」
人生の中で、あそこまでの真っ直ぐな熱意を受けたのは初めてであり――両者の思う方向性が違うとしても――アレスには親しい友と呼べる人間だ。
あの日以降、彼はクレインとの間に、疑うことすら汚らわしいと思うほどの友情を感じていた。
「まあ、この歳にして初めての純粋な友だ。色眼鏡という部分はもちろんあるだろうが」
そもそもアレスがクレインの立場にいれば、政治的な理由で引き込むことを検討するとしても、ただでは済まさない。
少なくとも一度殺害して、恨みを晴らしてから利用方法を考えるだろう。
そこには信用も信頼も無い。
見殺しにされても仕方がないほどの、大失策を犯したのだから当然だ。
しかし距離が遠く離れていても、今は確かに、同じ道を歩んでいるという実感があった。
「おかしなものだ。この私が、友情を頼りにする日が来るとは」
アレスは遥か遠方の雲を眺めながら、3歳下の弟を思い出す。
自分よりも線が細く、顔が幼く、真反対の柔らかい表情をする男だった。
最後には衝突したものの仲は良好で、どちらが王になっても禍根は残らないはずだった。
しかしその弟は謀略により、叔父の公爵らと共に死亡している。
「クレインよ、命を背負うとは重い課題だな。仇討ちの道とは、ともすれば復讐の人生だ」
友人が領民の命を預かり、やり直す過程で助けられなかった命まで背負い、それでも前に進んでいると知って、アレスの心境にも少しの変化が生まれていた。
彼は手を夕日に透かし、虚空に向けて問う。
「憎しみの果てに大義を見失うかもしれない。だが、それでもやるべきことがある。そうだろう?」
今を生きる人間の自己満足だとしても、報いは受けさせるべきだと考えるようになった。
だからこそ周到に用意を重ね続け、犠牲を
「殿下、よろしいですか?」
「構わん、入れ」
思考を中断させるかのようにノックが挟まれ、入ってきたのは近衛騎士団長だった。
彼は白髪をオールバックにした厳つい男で、見た目から分かるほど厳格な性格をしている。
そろそろ引退を考えてはいるが、国王から慰留されて地位に留まっている人物だ。
「……で、どうした」
「親書をお届けに参りました」
通常は担当の文官が持ち込むが、内通者に連絡を盗み見られる可能性を考慮して、信頼できる人間を取次ぎ役に据えていた。
この点で騎士団長は、王家を裏切らない人間の筆頭だ。以前までのアレスは
また、ブリュンヒルデが暗号化した文書などは彼を経由してアレスに届くが、今日の親書は一見してただの手紙だった。
「差出人はエレボス子爵か。大方、アクリュースのことだろう」
王都在住の法衣貴族で、第一王女と近しかった人物だ。
否、今でも派閥の一員なのだろう。時期と照らせば考えるまでもない。
送られてきた書簡が、何を意味するのかは明白だった。
「三年忌の相談でございましょうか」
「いや、奴は生きている」
アレスは短く告げたが、騎士団長は動じない。
しかし事情を知っていたわけでもない。
元より感情が顔に出にくいというだけの話なので、構わずアレスは手紙を読み進めた。
「主にはセレモニーの打ち合わせだが、重要な話があるゆえ内密に出向け、か」
洗脳されていた頃ならば、真っ先に側近の意見を聞いただろう。
周囲に潜む内通者たちが、「まずは裏が無いか調べましょう」とでも言いながら、調査を申し出る。
そこで調べてみたところ、妹が生きていたという衝撃の事実を知る。
お膳立てはそんなところだろうと、アレスは鼻で笑った。
「出向けば暗殺されるだろうな」
仔細を聞くために赴き、そこで始末されるという流れは容易に想像がついた。
その上で考えるべきは、この謀略をどう利用するかだ。
アースガルド領に出していた側近のうち何名かは、王都に戻ってきている。
そのため事件の大筋をなぞった上で、経緯をクレインに伝えることはできた。
「先手を打ち、処断いたしますか?」
敵方の攻撃を逆手に取り、暗殺を防ぎながら多少の痛手を与えることもできる。
だがアレスが選ぶのは、最も確実で効果が大きい効率的な選択だけだ。
「いや、了承の手紙は書く。その上で行かぬ」
そこに何の意図があるのかなど、団長は聞き返さない。
王家の意向に粛々と従う堅物は、返書を書くアレスの横で、ただ黙して続きを待った。
「こちらが出向くと言えば、一旦待ちに回るだろう。その間に私は姿を眩まし、泳がせておく」
「では避難先を手配いたします」
「無用だ。既に手は打ってある」
アレスは彼に打ち明けても、敵方に情報が洩れることは無いと判断していた。
しかし報せれば、作戦の一部に支障が出る。
「明日の終業後、アースガルド領に出向していた人間を参集させよ。名目は調査報告だ」
騎士団長には敵への返答と、側近の呼び出しを任せた。
同時に、アレスが王都を離れてからは、敵対勢力がどう出るかを見張る役目も言い渡す。
「妙な動きをする人間だけは監視しておけ。陛下にも書置きを残すが、今回の件は私が対処する」
アレスは執務机の引き出しから、事前に用意してあった国王への手紙を取り出し、そこに数行だけ書き加えて団長に手渡した。
「これを明後日の朝、陛下に直接手渡すように」
「承知いたしました」
口数少なく退出した忠臣を見送り、アレスは再び夕焼けを見上げた。
彼は時が来たことを確信し、固く目を閉じる。
「ここで負けるわけにはいかないのだ。……私も、覚悟を見せてやろう」
計画の決行を翌日の晩と定めて、アレスは作戦の最終確認に入る。
歴史の転換点は、もう翌日にまで迫っていた。
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