第八十八話 夢中で掲げる5秒前



 ヘルメス商会が噂話を流す前に信用を失わせる作戦は、マリウスの指揮下で滞りなく進んだ。


 密偵たちはヨトゥン伯爵領での流言のみならず、周辺の寄子や地主のもとにも噂を拡散させており、それらは概ねクレインが望んだ通りの効果を発揮している。


「南での工作は成功しました。アースガルド領北部での不穏分子炙り出しも順調です」

「そうか。上手くいって良かったよ」


 徹底した足場固めを行えば、ヘルメス商会の黒い噂は勝手に回るようになった。

 あとは大手商会の人間が、その噂は一部事実だと追認してやればそれで終わりだ。


「まあ一部・・なんて話は、どこかで抜け落ちたんだろうな」


 友好商会に調査が入れば「一部は事実だと聞きました」と正確に答えるだろうが、市井しせいの井戸端会議で正確性を重視する人間などいない。


 そのうち話はアースガルド家の手を離れて、民衆の間でどんどん盛られていった。


 事態に気づいた南部のヘルメス商会は火消しに乗り出したが、ジャン・ヘルメスからの指示が突如として途絶えたのだから精彩を欠き、噂に歯止めはかかっていない。


「情報源を問い詰められて素直に吐く人間も、当然いないわけだ」

「そうですね。加えて火消しに回る姿が、かえって信憑性に繋がったようです」


 情報の出どころに探りは入ったが、知り合いから聞いたという話が巡り巡って、二巡三巡する有様だ。


 何とか首謀者を辿ろうと強引な聞き取りを決行し、一部の領民や同業者からは更なる反感まで買っている。


「南伯だって元々いい印象は持っていなかっただろうし、領民感情まで悪化したなら――」

「クレイン様、お客様ですよー」

「ん? ああ、今行く」


 ヘルメス商会はヴァナルガンド伯爵の謀略を援助するため、南へ締め付けを行う方針だった。


 ヨトゥン伯爵家は散々煮え湯を飲まされてきたが、流通を押さえられているので、不満を抱えながらも我慢してきた状態だ。


 目障りだった商会が他地域で大問題を起こし、自分の領内でも怪しい動きをしていると聞けば、それはもちろん裏取りをする。


「作戦前から関係は険悪だったからな。南伯も側近たちも素直に信じてくれたはずだ」


 南部の支店に勤める責任者たちは、黒い噂の流出を止められなかった分の点数稼ぎとばかりに、最後に届いた命令を忠実過ぎるほど忠実に実行している。


 前回に引き続き折り悪く。というか今回は、クレインが最悪のタイミングになるように調整した結果がどうなったか。


 ヨトゥン伯爵家がヘルメス商会に対する調査を始めたのは、従業員が「アースガルド子爵は極悪人」という情報を広め始めた直後だ。


 そしてこの情報戦における戦果の答え合わせは、いつもの使者の口から行われた。


「お久しぶりです。直接尋ねて来られるとは、何か重要な案件ですか?」

「ええ、早急にお伝えしたきことがございます」


 世間話もそこそこに、初老の使者は領内の事情が以上のようだと、密偵たちから聞いた報告と同じ内容を滔々と語る。


 前回の交渉とは違い、今回は気まずそうな雰囲気を漂わせながらの説明となった。


「当家と親族の仲を引き裂いて、何を企んでいると。先代が烈火の如くお怒りになりまして」

「温厚な先代様がお怒りになるとは、相当のようですね」

「ええ、まあ……根も葉もない噂でございましたので」


 クレインの悪評は事実と確認できないものが多い。

 片やヘルメス商会の醜聞と近しい事件は、各地で実際に起きていたことだ。


 また、今回は謀略を始めた時点で既にマークされていたので、商会が流言飛語を画策したことも判明している。


 これらの情報を基に作成された報告書を読み終えた瞬間――先代は激怒した。

 どの角度から検討しても、悪意で貶めているようにしか見えなかったからだ。


「悪評を擦り付ける先を求めていたというのが、当家の見立てです」

「左様でしたか」


 アースガルド家の密偵は噂を広めた段階でさっさと撤収しており、調査が始まる前に領地北部へ移動したので、尻尾を摑まれた者はいない。


 しかしヘルメス商会の職員が組織的に流言飛語を仕掛けたところは、ヨトゥン伯爵家が自ら調査して突き止めているのだ。


 もちろんバイアスが掛かっていたところもあるが、結果を見ればどちらが嘘を吐いているかは明白だった。


「当家では今回の件を重く受け止めて、御用商から正式に外しました。各種の優遇も取り止めとなっております」

「そこまでされたのですか?」


 ヨトゥン伯爵家はヘルメス商会との取引を縮小する方針を固め、寄子たちにも「分かっているよな?」と連絡を入れる事態に発展した。


 理由はどうあれ思い切りがいいと、これにはクレインも感心する。

 以前までの歴史よりもかなり早く手切れの時が訪れたからだ。


 緩やかに方針を転換し、損得を計算しながら徐々に締め付けていくものと考えていたので、一気に絶縁までいくとは彼も予想していなかった。


「申し訳ございません。実は……当家は以前より、ヘルメス商会と確執がございまして。子爵が狙われたのも、それ絡みかと推測しております」


 そもそもヨトゥン伯爵家からすると、クレインが攻撃される理由に思い当たらない。


 だから穀物の大口の取引先と揉めさせて、商業的な利益を掠め取ろうとしていたのだろう。という伯爵家を主体にした予想が精々だった。


 だが実際には、ヘルメスから怒りを買っていたのはクレインの方だ。

 クレインから見ても怨敵だったので、確執で言えば伯爵家よりもずっと深い。


 最終的に騙すような形にはなったが、それでもクレインはこれを笠に着て、何かを要求するつもりは無かった。


「気にしてはいませんよ。昨年は助けていただきましたし、今年も農産物を輸出していただけるのですよね?」

「もちろんです」


 南部が揺れていれば買収の難易度も下がるだろう。

 クレインからすると追撃を加えただけで十分なくらいだ。


 だがこれは使者の男から見ると、心が広い立派な青年というふうに見えている。

 そのため彼もアースガルド家が有利な契約を、心置きなく提案できた。


「この度は定期契約のご提案をお持ちしました。条件を優遇させていただきますので、契約書をご覧ください」

「……え?」


 本来であれば嬉しい提案だが、狙いが外れたと察したクレインの笑顔は固まった。


 食料品が安く買えるのは嬉しいが、そうではない。

 彼の主目的はそちらではなかった。


「北方品種という制約が無ければ、相場の2割引きほどで融通可能です」

「そ、それは良いご提案です。しかし、何と言いますか、お話はそれだけでしょうか」

「他……と言いますと?」


 ここでクレインもようやく察するが、アストリとの婚約には東伯との因縁が絡む。

 場合によっては婚約を結ぶことで、更なる不利益を被る可能性すらあるのだ。


 適度な関係はあるが、恩も恨みも無い状態で、伯爵家から子爵家への貸しが多めな状態。

 領地が大きく発展していれば、この場合でしか婚約の提案はされない。


 クレインは今さらその前提条件を知った。


「……そうですね。もう一歩、踏み込んでみませんか?」

「どのような条項でしょうか?」

「いえ、この契約ではなくてですね」


 しかしここまで来たら、体面など気にしていられない。

 だからクレインは勝負に出る。


「今は遠縁ですが、これを機にもっと親密なお付き合いと言いますか、その……ご縁談を」


 思えばマリーへのプロポーズは気分が高まっている時で、その場の勢いのまま告白できた。

 アストリとの婚約とて、提案されたものを受け入れてきただけだ。


 しかし今回は自分から縁談を持ち掛けている。自分から目の前の使者に、「お嬢様を私にください」という宣言をしなくてはならないのだ。


 なんだか気まずい気分になっていたクレインだが、選択肢は一つしかない。

 ここは根性を見せる場面だと咳払いをして、一拍置いてから彼は言う。


「アストリお嬢様と婚約させてください」


 提案する相手は、お嬢様のことを孫のように思っている男だ。


 そのことを知っているだけに、血の繋がりが無いにも関わらず、クレインはお義父さんと話しているような心境だった。


「ご結婚なされたとお聞きしましたが、奥方はご承知おきでしょうか?」

「ええ、妻は貴族のことに関わりたがっていませんので、正妻を迎えることには賛成しています」


 生粋の平民であるマリーが、他家の夫人とお茶会や縁繋ぎをするのは無理がある。

 だからここについては、事前に夫婦間でも合意済みのことだ。


 領地運営に関わる側近にも既に構想を伝えてあるので、アースガルド家からすると予定と違わない話だが、使者は予想外の提案に肩を震わせる。


 しかし今回は怒りではなく、悲しみや寂しさの感情からの反応だと、顔を見ればすぐに分かった。


「アースガルド子爵の評判は常々お聞きしておりましたし、こちらからお願いしたいくらいでした。ですが今回の件もあり――」

「私は全く気にしていません。ご承諾いただけるのであれば、幸せにしてみせます」


 ヘルメス商会絡みで迷惑を掛けた上に、裏事情がある婚約を勧めて更なる迷惑を掛けることを嫌ったのだろう。


 借りが多めの相手で、しかも新婚の相手に提案しても、迷惑を掛けるだけだと考えたのだろう。

 婚約を提案する上での悪条件が多過ぎるとは、クレインにも分かる。


 だが彼は、ここに至れば多少強引でも構わないと、裏を何一つとして考慮していなかった。

 東側勢力と争うことは最初から決めていたので、彼は堂々と言い切る。


「ヨトゥン伯爵家との関係強化に異議を唱える者もいません。不安要素は何もありませんし、これは東伯との関係も把握した上でのお話です」


 アストリとも最初はただの政略結婚だったが、月日を重ねる中で緩やかに家族となった相手だ。


 辛い時期を支えてくれた恩や、共に暮らすうちに育んだ愛情はあるし、必ず取り戻すと自分に誓った人でもある。


 人生を繰り返すうちに出会う顔ぶれは変わっていったが、マリーとアストリが傍にいない人生を送りたくはないというのが、彼の切実な願いだった。


「こちらの事情をご存じの上で、ですか」

「ええ、是非に」


 貴族らしくないと呼ばれるクレインだが、願いを達成するためなら彼の常識に無かった重婚だろうと、名目が政略結婚だろうと、使えるものは全て使い切る覚悟だ。


 蘇りを繰り返し、最終目標を打ち立ててから数年間をかけて固めた覚悟なのだから、踏み込むことには微塵の躊躇ちゅうちょも無かった。


「はは……子爵にならば、安心してお任せできそうです」


 使者としても、孫娘を嫁に出すような心境だ。

 遠い目をしたヨトゥン伯爵家の全権委任使節は、目元に涙を滲ませながら頭を下げた。


「私が責任を持ち、この縁談をまとめてご覧にいれましょう。どうか、お嬢様をよろしく――」


 ここで話が終われば何の問題も無かったはずだ。

 しかし思わぬ回り道を挟んで焦らされた分、クレインは抑えが利かなかった。


「っしゃあっ!!」

「!?」


 粗野な握り拳を掲げ全力で喜んだクレインと、突然のことに固まる使者。

 彼らは曖昧な笑みを浮かべながら目を逸らし、互いに次の言葉を探す。


 しかしこの空気を打開する話題など、すぐには見つからなかった。


「あ、えーっと、ふふ」

「は、はは……ははは」


 これはもうどうしようもないと判断したクレインは胸ポケットに手を伸ばし、毒薬を1錠、口の中に放り込んで唱える。


「20秒前……いや、俺が叫びながら握り拳を掲げる、5秒前から再開」


 そして彼は過去に願ったことのない、奇妙な状況指定と共に人生をやり直す。





「――どうか、お嬢様をよろしくお願いいたします」

「光栄です。こちらこそ、今後ともよろしくお願いします」


 素早く体勢を立て直したクレインは、今度こそ無難な返事をする。

 思わぬ妨害に遭い、最後に躓きかけたが、ようやく婚約を掴み取ったのだ。


 あとは東伯を片付けて、彼女を迎え入れるだけ。


 熱意に燃えるクレインだが、東伯との戦いに際し、この場で取り決めをしておくべきことがある。

 だから彼は頭を切り替えて、今までと同じ流れで交渉を始めることにした。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る