第百十五話 迎撃準備



 ラグナ侯爵家の最高執行責任者、ヴィクターは既に領内にいる。ともすれば、遠目で領都が視認できる位置にまで来ているかもしれないのだ。


 それを知ったクレインは、咄嗟に西の山を見た。


 しかし彼が幻視した3万の軍勢など、もちろん影も形もない。

 無駄にトラウマを刺激されたと、疲れた顔をしながらクレインは零す。


「どうしてもっと前に、先触れを送らなかったんだ」

「間者対策のようです。最精鋭の騎兵200名を随行させて、強行軍で進んでおりました」


 ラグナ侯爵家は麻薬の流通で大損害を食らいそうになっていたのだ。それは一部の寄子とヘルメス商会が手を組んだ結果であり、支配権の全域に相当数の裏切り者が潜んでいたことは間違いない。


 全ての間者を炙り出すなど不可能となれば、ラグナ侯爵家側の最適解とは何か。家の趨勢すうせいを賭けた同盟を結ぶにあたり、情報漏洩対策として最も妥当なものは何か。


 それは人を介さずに、決定権を持った人間が直接、相手方の決定権者と対話することだ。


 付け加えるならば、間者の移動や伝達が追い付かない速度で動くことも、妨害が入る前に勝負を決めるための方策だった。


「トップが直接話し合うのが、一番早くて確実だ。それは分かるけど……それにしてもフットワークが軽すぎるんじゃないのか」


 格下が動くのが当然なのだから、この場合はクレインをラグナ侯爵領に呼び出せば、それで解決できたはずだ。


 何故自分から来たのかと頭を抱えそうになったが、今はそれどころではない。洋裁店を出てきたマリーとアストリが視界に入るや否や、クレインは矢継ぎ早に指示を飛ばした。


「昼食は中止だ。荷物も店に置いていくから、後で取りに来よう」

「えっ?」

「何かあったのですか?」

「時間がないから、道すがらでマリウスに聞いてくれ」


 突然の事態に驚きはしたが、命令や号令には慣れたものだ。説明の時間すら惜しいため、クレインは事情の説明を省略して、各自の役割だけを周知していく。

 

「マリウスは2人を連れてスルーズ商会に! それ以外の人員は近場の詰め所に伝達して、各所に招集の連絡を飛ばせ!」

「畏まりました。直ちに向かいます」


 三々五々に護衛が散っていき、マリウスはスルーズ商会の本店に、マリーたちを連れていくことになった。


 そして事態が呑み込めずに、視線を往復させているマリーの肩を掴んでから、クレインは力強く頼み事を口にする。


「マリーとアスティにはお使いを頼む」

「えっと……あの、お使いって何の?」

「品物は何でも構わないから、北侯が好きそうなものを今すぐに買ってきてくれ」


 ブリュンヒルデの話を聞いていないマリーとアストリには、何の話かがまるで分からなかった。

 しかしどうして急に、北の覇者が話題になったのかと――アストリはすぐに察する。


「承知しました。参りましょう、マリーさん」

「え、ええっ!? 分かりませんよ、侯爵様が好きなものなんて!」

「トレックに聞くんだ。トレックなら何とかしてくれる!」


 彼女らを派遣するのはあくまで、クレインの名代としてだ。実務は商会の人間が行うため、現地ですべきことは少ない。

 混乱が訪れるだろうから、信頼が置ける陣地に預けておこう。という程度の采配だった。


「ブリュンヒルデ、悪いけど馬を借りる!」

「承知いたしました。すぐに追います」


 返事もそこそもに出発したクレインは、いくら何でも急ぎ過ぎだと、まだ見ぬヴィクターに毒づく。同時に彼は今回の応対に妻を出さず、自分一人で乗り切ると決めた。


 何故ならヴィクターという人物は、効果と効率を追求する性質を持った権力者という、ある意味で最も厄介な人間だからだ。

 クレインの人物評価では、ジャン・ヘルメスよりも困難な交渉相手に位置している。


「マリーはもちろん、アスティにも会わせたくないな」


 何せ初対面のクレインに向けて、第一王子への義理など捨てて、ラグナ侯爵家との盟約に乗り換えろと、臆面もなく提案してきた男だ。


 同盟が呑めないなら先にアースガルド領から滅ぼすと、堂々と直接の脅迫を仕掛ける程度には、剛腕戦術を使ってくる人物でもある。


「絶対に悪影響だし、会談に付き合わせるのも無理があるだろう。裏方に徹してもらって、表には出さないようにしないと」


 対面当時のクレインは、ラグナ侯爵家を最大の敵と見ていた。そこを強引に曲げさせられて、要望を押し通されたほどの政治家が相手なのだ。


 新婚の妻たちを矢面に立たせたくないという、個人的な考え。そして交渉の一発目ということもあり、裏側の駆け引きが要求される場面と見ていたため、彼は自力で何とかする道を選ぶ。


「一対一で、男同士の話をしよう……とか言えばいいのか? いや、それでもマリウスかブリュンヒルデは同席させたいんだよな。できればアレスも」


 屋敷まで駆けるクレインは、道中で切れそうなカードを思案し続けた。しかし結局のところは、これまでのやり方を変えられないと気づき、最終的にはいろいろと諦める。


 現時点での相手の考えが読めないのだから、正解を知ってからやり直すのが一番だろうな。などと思いながら、彼は屋敷を目掛けて駆けていった。





    ◇





「間に合って良かった。これで何とかなりそうだ」

「そのようだな。スルーズ商会の会長は仕事ができるようだ」


 きっちり3時間をかけて、何とか場の用意を整えたクレインは、アレスと共に屋敷の前で全体の様子を眺めていた。


 そしてその傍らでは、膝に手をつき肩で息をしているトレックが、搬入物品の最終確認を行っている。


「いや、助かったよトレック」

「な、なんですかもう、いきなり。今回の商品は全部、割り増し料金ですからね」


 トレックはトレックで別件の商談中だったが、応接室に乱入したマリーから無理やり動員されて以降、訳も分からないままに振り回されている。


 今日の仕事を停止させられた挙句の全力疾走なのだから、多少の文句が出てくるのも当然だ。しかし次回があれば、時間の余裕ができるに違いない。


 今は勘弁してもらおうと苦笑いをしているクレインだが、そこに疲れた様子のノルベルトがやってきて、支度の完了を報告した。


「クレイン様、会食のご用意が整いました。ご命令があればいつでもお出しできます」

「いや、料理は下拵えだけにしておいてくれ。もしかすると、最初から長話になるかもしれない」

「承知いたしました」


 ヨトゥン伯爵家は遠縁な上に、先代伯爵が気に掛けているという取っ掛かりがあった。しかし血縁がない上に、疎遠な高位貴族と会談するなど初めてのことだ。


 しかも相手はいきなり、本拠地の本丸にまで乗り込んでくるのだから、突然の総力戦を指示されたアースガルド家の人間は、大わらわで対応に臨んでいる。


「大物ならもっと、どっしりと構えていてもいいのにな」

「まあ、戦略構想にアースガルド家は外せませんからね。あちらも全力でしょう」


 東の反乱計画を聞かされているトレックからすれば、侯爵家の動きは不自然でもない。彼らは西側の勢力と熾烈に争っているため、南と東を一度でどうにかできる機会は絶好としか言えないからだ。


 敵に隙を与えない最速の動きで、そして確実に決めにいくのなら、侯爵家のトップが直接動くことは、最も合理的な選択ではあった。


「理屈の上では分かるんだよ。ただ、普通はやらないじゃないか」

「クレイン様だって、いつも同じようなことをしているのでは?」

「それは……まあ確かにそうか」


 この突発的な訪問が、礼儀や慣習に合わないという意見はまっとうだ。しかしクレイン自身も、普段から似たような行動をしていると指摘されれば、話はそれまでだった。


 物品の手配に戻ったトレックの後ろ姿を見送り、クレインは深い溜息を吐く。


「いくら話が通っているとは言え、まさかこの速さで直々に来るとは」

「手練れの密偵を放ち、内偵調査を終わらせていたと見るべきだな。……だから言っただろう。奴らは前々から我々の内情を知っていると」


 慌ただしく指示を送る領主の横では、王子が仏頂面をしている。


 しかし特別に不機嫌というわけではなく、その顔が彼の真顔だとも知っているため、クレインは世間話程度に水を向けた。


「お抱えの密偵か。縁もゆかりもない遠隔地の子爵家に、そこまでやるかな?」

「むしろ何故、内偵をされていると思わなかったのかが不思議なくらいだが」


 ラグナ侯爵領から多くの人材を登用したのだから、アースガルド家に関する情報は複数ルートで取得できていたはずだ。そこに加えて密偵まで送るかと言えば、クレインには疑問が残るところだった。


 しかし現実として少数でやってくるのだから、確信に足る裏付けがあったことには違いない。


「まあ、その辺りは今言っても仕方がないか。とにかく出迎えてから考えよう」

「それがいいだろうな。向こうの出方次第だ」


 ラグナ侯爵家との友好関係は、初期値の時点で以前よりも上だ。その推測の信憑性が上がった分だけ、今後の作戦が立てやすくはなった。


 だが今は奇襲訪問を食らう直前であり、彼ら以外の人間は例外なく走り回っているのだ。アレスは王宮が賓客を出迎える際と比較して、子爵家一同のバタバタぶりに呆れ顔をしていた。


「しかし慌ただしいな。まるで戦場ではないか」

「外交上、当家始まって以来の危機という点では間違ってないよ」

「それはそうか」


 王子の御幸に引き続き、未経験の対応を強いられているのだ。準備が慌ただしくなるのも無理がないこととは、アレスも理解している。


 そしてそれらを考慮すると同時に、これからの展開を悟った彼は、悠々とアースガルド家の人々に背を向けた。


「ならば当座の話し合いがまとまるまで、私は引っ込んでいるとしよう。着いてすぐは荒れるだろうからな」

「え、ちょっと待ってくれ。同席してくれないのか?」

「初手の話題には想像がつく。それが解決してから呼べ」


 アレスはつれない態度でつかつかと歩き、アースガルド邸の2階の端に用意された客室へ向かう。


 彼は本筋と関係がない面倒は御免だと思い、クレインが引き留める間もないほど、鮮やかに撤退を成功させた。


「クレイン様! 侯爵家の御一同が、間もなく到着とのこと! 整列の合図を!」

「ああもう、薄情者め……」


 王子という手札を手元に置いておきたかったクレインは、連れ戻すか否かを逡巡した。

 だが間もなく賓客が姿を見せると言うのだから、ハンスの言葉で留意を諦める。


「ま、まあいい、総員整列! 来るぞ!」


 図らずもアレスの来訪が、侯爵家当主級の身分を持つ人間を出迎えるための、予行演習になっていた。


 不幸中の幸いとして将官たちの動きは整っていたが、しかしクレインの言い方などはもう、敵軍を迎え撃つ司令官の口調だ。


「オラそこ、列を乱すんじゃねぇ!」

「動くなぁぁぁあああッ! 直立不動だッ!!」


 アースガルド家の家臣団には怒号が飛び交っているが、一方のラグナ侯爵軍は精鋭中の精鋭部隊であり、一糸乱れぬ動きで現れた。


 厳しい訓練を積んだ一流の戦士たちが、大通りを整然と行進してきているのだ。その光景はパレードのように映り、道沿いからは領民からの歓声が上がっている。


「よし、あとは出迎えるだけだ」

「さ、左様でございますな」


 最低限の体裁が整って一安心といったところだ。しかし不意に緊張の糸が切れたせいか、ノルベルトの顔色が徐々に青ざめていく。


 そして侯爵家の一行が屋敷の前に姿を現し、再び緊張が訪れた瞬間。クレインの真横からはドサリと、人が崩れ落ちる音がした。


「ぐ、はっ……」

「ノ、ノルベルト!? おい、しっかりするんだ!」


 半年で破産するほどの、無茶な拡大政策への心労や、急激な改革による不和を抑えるために、各村を巡る短期出張の繰り返しなどで、彼は消耗していた。


 これまでも戦争の後処理などで、寝込むまで働かされてきた老体の執事は、ここにきて心身共に限界を迎えたのだ。


 そして大量にやってきた新規の家臣に、教育を施すのも彼の仕事だったため、事務処理が軽くなった程度では釣り合いが取れていない。

 積み重なった過労が、緊張と安堵の揺さぶりによってピークに達し――ノルベルトは意識を手放した。


「ど、どうしよう。ええと、この場合は……うん。やり直すしかないな」


 相手は既に目視できる位置にいるため、今からではこの騒動を隠し切れず、ノルベルトの役割を誰かに頼む暇もない。

 だが、少しでも時間を巻き戻せば、回避できる問題でもあった。


 そのためクレインは「5分前」と念じてから、速攻で胸元の毒薬を口に放り込み、強く噛み砕いて状況のリセットを図る。


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