第4話 少女たち、プールにて

 そんなわけで新学期早々、美香は遅刻してしまった。

 始業式の後は教室で提出物を出したり、先生の話を聞くだけで終わってしまう。

 その最中に、美香は土気色の顔で教室に入ってきた。

 当然のごとく、担任に叱られた。踏んだり蹴ったりとはこのことである。

 ようやく席に着くと、

「大丈夫?顔色が尋常じゃないよ」

 後ろの席の玲子がヒソヒソ声で話しかけてきた。

「朝も待ち合わせに来なかったし。なんかあったの?」

「え、えっと…」

 説明に困っていると、目ざとく二人の様子を見つけた担任が、

「お前ら、後でちょっと来い!」

 再び叱られるハメになってしまった。

 今日は厄日だ…

 美香はいっそ小さな子供みたいに、床にひっくり返って大泣きできたらどれほどいいだろう、と思った。


 プールの水面が、日差しに反射してゆらゆらと光っている。

 ああ、思い切り飛び込んでみたい。

 美香は、すくい網を緩慢に動かしながら、ぼんやりとした頭で考えていた。

 美香と玲子は、水泳部の顧問である担任の教師から、罰としてプールの水掃除をさせられていた。

 といっても、プールの表面に浮かんでいる枯葉やごみを網ですくい取って集めて捨てる、というだけのものだが。

 9月に入っても前半はまだ水泳の授業がある。

 日よけ代わりに頭にタオルをかけているが、9月に入ってもまだまだ炎天下の下で、ぼうっとした。

 汗がいくらでも滴り落ちてくる。

 玲子を見ると、同じような格好でタオルを頭にかけながら、黙々とまるで修行僧のように網を左右に動かしている。

 プールはけっこう広大で、特に中央辺りは体を伸ばしてもごみが取りにくいことこの上ない。

「おーい、二人とも大丈夫―?」

 朋美がペットボトルの入ったビニール袋を手にしてやって来た。

 演劇部の部員たちは今日も体育館や部室で準備に追われている。

 朋美の担当は名もなき通行人の役と衣装制作である。

 部員数に限りがあるため、たいてい一人当たり複数の仕事を担当している。

 朋美も部室で縫物をしていたが、合間をぬって美香たちの様子を見に来た。

「ありがと、うれしいぃぃぃー!!」

 自販機で買ったばかりの冷えているペットボトルを手にした美香は大げさでなく、叫んだ。

 すくい網など放りだしそうな勢いである。

「あーっ!生き返るっ…」

 言ってしまってから、はっと口に手を当てる。

 玲子も、ペットボトルを飲みかけて手を止めた。

 何となく、三人で微妙な顔をして見合わせた。

 プールの縁に三人並んで腰かけて、足を水に浸してゆらゆらと揺らしている。

 水面の上すれすれをとんぼが飛んでいる。

 時折吹く風が、ほんのりと涼しくて、やはりもう真夏ではないのだな、と感じる。


「…結局あれから、学校も警察からも、何もないね」

 朋美が、うつむいて言った。

「事故ってことで、終わりにしようということでしょうね」

 玲子が低い声で呟いた。

 実際、それ以外に結論付けようがない。

 文化祭も予定通り行われることになっているし、夏休み前には当たり前に存在していた生徒が、休みの後にいなくなってしまっても、学校や世間は、滞りなく進んでいく。

 雅美ほど学園中で名の知れた生徒でさえ、みんな一時的にはその出来事にショックを受けても、すぐに事実を受け入れ、日常の中へと埋没させていく。

 しかし同じ部活の人間にとっては大違いだ。

 部長で皆を引っ張り、指導し、いつも主役を演じていた雅美の存在はまだまだ大きく、いないことが信じられない。

 しかし顧問の厚木が、

「むしろ文化祭でちゃんと公演することが、小林への追悼になる」

 と、涙ぐみながら皆に言うのを聞いて、ちゃんとやりきろう、と部員全体でようやく心をひとつにしたのである。

 雅美の代役は、副部長の紀子が担うことになった。

 紀子も複雑な心境だろうが、誰からも異論はなかった。

 もともと二番手の主役として、いつも控えていたからだ。


 美香は今朝の出来事を思い出していた。

 少年は、事故だと考えていないらしい。

 何か調べろったって…。

 そいうえば、警察は、先輩の妊娠を知っているのだろうか?

 解剖したら当然分かることだ。

 だが、どこにもそんな発表はしていない。

 それともひそかに情報を集めていて、それで高橋とかいう少年を追いかけているんだろうか…?


「あ、そういえば紀子先輩が、玲子のこと呼んでたよ。早く用事済ませて、練習に来いって」

 朋美がふと顔を上げて言った。

 玲子は主役のヒロインの相手役をすることが多いため、今回も王子役をすることになっている。

 今回の演劇の舞台は、中世ヨーロッパの姫と王子のいわゆる恋愛物語だ。

 話の内容としては平凡なものだが、だからといって適当にこなすわけにはいかない。

「そう言われても…まだごみとか全部取り切れてないし」

「あたしも手伝うわよぉ」

 朋美が網をとろうと勢いよく立ち上がった。

 その拍子にバランスを崩した。

「あ、あ~!!」

 何かにつかまろうとしたのか、空中でぐるぐると無駄に腕を回し、そのままプールへドボンと落ちた。

 美香と玲子はあわてて腕を伸ばし、朋美を引っ張り上げた。

「やだぁ~…」

「大丈夫!?」

「まったくいったい何してんのよ…」

 朋美は制服姿のまま全身びしょ濡れになってしまった。

「手伝おうと思っただけなのに~ぃ」

 情けない声を出し、スカートのすそを絞る。

 全身に水を含んだ制服は重く、いくらでも水が滴り落ちていた。

「あれ、…」

 玲子がふと呟いた。

 しかし朋美は服の水分を取り除くのに精いっぱい、美香も自分のタオルで朋美の髪などを拭いてやっていて、その声を聞いていなかった。

 玲子だけが何か考え事をしているかのように、立ち尽くしていた。

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