第2話 朝雨事件

 その後も変わらず合宿の厳しい練習は続き、ようやく念願の最終日を迎えた。

 午後になるとみな気もそぞろになり、夕食のBBQを今か今かと待っている。

 買い出し組が花火やら肉やらを携えて帰ってくるのをみんな待ち構えていた。


「はい、じゃ、カンパーイ!!」

 みんな笑顔で炭酸ジュースのコップを高々と掲げている。

 鉄板では肉の焼ける匂いがじゅうじゅういう音とともに、いやがおうにも食欲をそそらせた。

 美香たちも「うんま~い!!」を連発しながら、我先にと箸を伸ばしている。

 市街地と違い、満天の夜空の下で食べるBBQは格別だった。

「はぁっ…やっと終わったね~!明日帰れるの、嬉しすぎる!」

 美香がコップのジュースをぐいと空けた。

「帰ったら宿題地獄だね」

「やだぁ~急に現実に戻すのやめてよ~」

 冷静に玲子が言い、朋美が眉をしかめた。

「ね、明日早起きして、湖のほうまで行ってみない?ずっと一回行きたいって思ってたんだ」

 美香が提案した。

 けっこう高台に位置している合宿所の付近はハイキングコースになっていて、湖があるのを、去年初めて合宿に参加した時に駅の案内板で見て知っていた。

「え~起きられるかなぁ」

 朋美が気乗りしない声で答えた。

「でも、朝日に映える湖ってきっときれいじゃない?去年も行きたいって言いながら結局行かなかったし…」

「行くのはいいけど、もしかしたら明日は雨になるかも知れないわね…」

 ふと玲子が夜空を見上げて呟いた。

「え、そうなの?」

「夕方、雲が低かったし…うろこ雲出てたでしょ?」

“でしょ?”と言われたところでわかるわけない。返事代わりに、美香は肩をすくめた。

 この分じゃ、今年もムリかも知れない。

 それはそうと、雨がきついと、駅までのバスがちゃんと走れるかという不安があった。

 明日、どうか無事に家に帰れますように…

 ひそかに祈りながら、美香は残りわずかな肉を皿に取った。


 みんなが花火を振り回し、歓声を上げている。

 腹も満たされ、明日は家に帰れるということもあって、みな浮足立っていた。

 美香たちも御多分にもれず、しっかり数本の花火を握りしめ、夏の名残を惜しんでいた。

 朋美たちが走り回ってぶんぶん花火を振り回しているのを止めようと顔を上げると、焚火を一人眺めて座っている雅美の姿が目に入った。

 何やら思いつめたような顔が火に照らされ、妖艶でことさらに美しい。

 本当に、悲劇のヒロインにふさわしいばかりの容貌だった。

 美香は数日前のことをふと思い出した。

 白樺の木立のふもとで、見知らぬ少年といた雅美の後ろ姿。

 結局あの後一度も彼を見ていない。あきらめて帰ったのか。

 雅美のことを、東京からわざわざ追いかけてきたのだろうか…?

 やっぱりすごいな、雅美先輩。

 それほどまでに男の子を夢中にさせるなんて。

 感心しながら雅美のことを見ていると、

「ほらぁ、美香も残ってる花火、火をつけてよ!」

 他の仲間たちと一緒になってはしゃいでいた朋美たちが、美香に声をかけた。

 美香は気を取り直して立ち上がり、そちらへ走って行った。

 風がさぁっと吹いて、焚火の炎がことさらに力強く、夜空へ火の粉を舞い上げていた。


 玲子の予報が当たってしまった。

 朝からすっかり帰り支度を整えて会議室に集合していた部員たちは、ザーザーと降る雨をむっつりと窓から眺めていた。

 しかし今、出発時間がとっくに過ぎているのに、まだ待機しているのは天気のせいではなかった。

 迎えのバスはすでに来ていたし、道路の状態も今のところ問題なしとのことだった。

「おい、いたか?」

 厚木が気がかりな様子で、部屋に入ってきた紀子に尋ねた。

「やっぱりいません」

 紀子が首が振った。

 その返答に、顧問だけでなく、部員のみんなが落胆した。

 部長の雅美が、朝からどこにもいないのである。

 いつ部屋から出て行ったのか、同室の者たちも誰も知らなかった。

 雅美の荷物はそのまま部屋にあった。

「雅美先輩、一体どこへ行ったのかな?」

 朋美が心配そうに言った。

 朝方、起床時間前ではあったが、ベッドに雅美の姿がないことに気づいた同室の部員が、探し回っているところへ美香たち三人と遭遇した。

 美香たちは湖に行くつもりで早起きしていたのだが、雨が降ってたので他に行く当てもなく、お茶でも飲もうと食堂へ向かっていた。

 雅美がいないと聞き、美香たちが顧問に伝えに行くことにしたのである。

 扉を叩くと、厚木はまだ寝ていたらしく、頭をかきながら出てきた。

「おお、お前らか。まだ起床時間前だろ…どうした?」

「先生あの、雅美先輩の姿がどこにも見えないんです」

「はぁぁ?」

 寝ぼけまなこの厚木が間の抜けた声で言った。


 それからはひと騒動であった。

 全員たたき起こされ、雅美を探し回った。

 しかし建物内はもちろん周囲の林の中を呼び掛けても、返事も気配もない。

 雨が降っているため、よけいに探しづらかった。

「警察を呼ぶか…」

 厚木がひとり言のように呟いた。

 結局、捜索のため、警察を呼んで厚木一人が残り、生徒たちは全員予定通り帰宅することとなった。

 部員たちは、雅美のことは気がかりだったが、とりあえず帰宅できる目途がたちホッとしていた。

 このまま雨が降り続いては交通が困難になり、最悪もうしばらくここにとどまる羽目になるかも知れなかったからだ。

 みんながバスに乗り込むためにぞろぞろと玄関に出てきた。

 美香は母に帰宅の連絡を入れようと鞄のポケットを探っていた手を止めた。

「あ!」

 美香が突然叫んだ。

「携帯、部屋に忘れてきた!」

 日中は電源を切る決まりになっていたため、朝起きた時に時間をチェックしたきり、携帯の存在を忘れてしまっていたのである。

「美香ったら、ドジなんだから。乗り遅れないように急ぎなよ」

 玲子が呆れたように手を振った。

 あわてて部屋に戻り、枕もとを探した。

 携帯はすぐに見つかり、バスがまだいるかと窓の外を見た。

 まさかとは思うが、置いて行かれないとも限らない。

 しかし美香の部屋からは玄関は見えなかった。

 その代わり、今は玄関口に来ているバスが駐車していた場所がふと目に入った。

 整地はされていないが、奥まった場所で空き地になっているので、バスやタクシーなどが客を待つときの駐車場代わりにしている。

 その先は、柵もない崖っぷちになっていた。


 まさか…

 何となく嫌な予感がした。

 普段ならそっちのほうへ行く者はいない。

 建物もないし、うっそうと茂る林が下方に見えるだけなので、その先には何もないことが分かっているからだ。

 しかし今、影も形もない雅美のことを考えると、可能性はゼロではない。

 美香は急いで部屋を出て、玄関から駐車場の空き地のほうへ走った。

 とっくにバスに乗り込んで、美香を待っていた玲子たちが驚いたように、車窓から美香の行動を見ていた。

 雨の中、傘もささず駐車場の先へ足早で向かう。

 地面はぬかるんでいた。

 崖のようになっているあたりが、土や泥でとくにぐちゃぐちゃになっていて、これが雨のせいなのか、それとも人が歩き回った後なのか分からなかった。

「美香!一体どうしたの?」

 玲子が傘をさして走ってきた。

 美香は恐る恐る崖のほうへ歩いていき、下を見下ろした。

 うっそうと茂っている木々と雨のせいで視界が悪い。

「何してるの?危ない…」

 玲子の言葉が途切れた。

 美香が見ているものとおなじものを、見たからだった。


 崖下に崩れ落ちるように倒れている、小林雅美の姿を。

  

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