7 フィリィーズテイル


 女神さまと呼ばせていただきます☆


 王都を出て五日が過ぎ、そろそろゴールドフィール領の領境に着こうかというところまで来ていた。

 天使の愛は風前の灯火、だったのだが、女神の恩情によりいまだ消えるには至っていなかった。


 女神アリシア様は天使が馬車を出て行った後に言って下さったのだ。いじめるのはこのくらいにしてあげますわ、と。休息の後の天使との話はたわいもない日常話となり、愛は守られたのである。ハレールヤ!

 ああ!ありがとうございます!! これからは毎日朝昼晩、女神さまの御座す方角への祈りを欠かしません。


 女神アリシア様ぁ~


 ………


 ――ハッ


「お……私は、何を?」


 目を開くと、そこは見たことのない天井だった。

 上半身を起こして周りを見回すと、そこはベッドの上のようだ。

 城のベッドとほぼ変わらぬ高級な肌触りの他に、心振るわせるような芳香に包まれている。

 両脇にはネグリジェ姿の金髪の美女と黒髪の美女が寝ていて、まるで王子様になったかのような気分だった。

 ………

 いや、つっこまないよ?


 というかこの状況、かなりヤバいんだけど。

 女性の王侯貴族が同じ状況に陥った時ほどの大事ではないが、王子が女性と同衾するのは結構なスキャンダルである。

 城の人間に知られたら、落ちる余地のない俺の評判がさらに落ちること間違いなしだった。


「………」


 なかったことにしよう。俺はそう決めると、さっさとベッドを降りてカーテンの仕切りを出た。

 アリシアの大馬車か。カーテンの向こうはベッドルームになっていたらしい。


「それにしてもいつ寝たんだ? いまいち記憶が定かではないのだが……」


 思い出そうとしたが、まるで思い出せない。ガチの記憶喪失とか短時間でも恐ろしいな。


「……何もヤッてないよな?」


 こっそり下半身に目を向けてみたが、とくに何かしちゃった感覚はない。

 とはいえ、さすがにこんな経験がないから確信が持てないな。


 さっきはなかったことにしようと思ったが、確認しないとまずい。

 王子がそこら辺に勝手に種を蒔くと、刈られるのは芽じゃなくて首である。

 しかも事は当然俺だけでは済まず、アリシアとラクシィの人生にも関わってくるのである。

 ヤッてしまっていたら正式な婚約者として、できるだけ早めに発表しないとならない。

 これで発表前に俺の子を妊娠していたなんてことになれば、全員そろって罪人である。


「アリシアとラクシィか」


 見た目だけで言えば文句などありようもない。ただ、普通に結婚すれば求められるのはこの世界の男として、である。

 それが嫌で『俺女平等』計画なんか始めたのだから、仮にいたしてしまっていたとしても簡単には諦めきれない。


「まぁまずは確認が先か。……ああ、でも、少し落ち着いたら杞憂な気がしてきたな」


 少し考えただけでわかるが、そういうことをするにはまずアリシアが受け入れなければならないのだ。

 そして、アリシアは軽々しくそういうことをするような女性ではないのである。それに関しては100%と断言しても良いくらいだ。

 仮に俺がアリシアに無理やり襲いかかったって、この世界じゃぶっ飛ばされてお仕舞だった。


「……何をぶつぶつ呟いていますの?」


 カーテンの向こうでしっかりと身嗜みを整えたらしいアリシア様が、お美しいお姿をお現しになられた。


「ああ、アリシア様! おはようございます!」

「………」


 ……ん? 俺、今、変なこと言わなかった?


「クリスティアーノ様、寝惚けておられますの?」

「いや、とくにそういうわけじゃないんだが。少し前から調子がおかしくてな」

「ご自愛くださいませ。こんなところで体調を崩されては困りますわ」

「ああ、大丈夫だ、たぶん。それより聞きたいんだが」

「頼りないことですわね。なんですの?」

「えっとな、何もしてない、よな?」

「………」


 その呆れた眼差しは何かな? ため息のおまけ付きとは大盤振る舞いじゃないか。


「クリスティアーノ様、本当に頭は大丈夫ですの? そんな相手に委ねるような質問の仕方をして……もしわたくしが、した、と答えたらどうするのです? 私と結婚なさるのですか?」

「え、いや! それは、アリシアが望むなら、じゃなくて! してるわけがないという前提があるつもりだったからで……本当にしているのなら結婚するつもりだが……まぁまずは婚約からだな」


 その場合は俺とアリシアの間で平等契約を成立させなければなるまい。結婚してからが勝負だ。

 厳しい戦いになるだろうが、俺は絶対に諦めないぞう。


「………」


 なに、その目? 扇子からビー玉みたいな無感情な目だけ見えててちょっと不気味なんだけど?


「……本当はしてないんだよな?」

「ええ、何もありませんでしたわ。私はもちろん、ラクシィともですわ」

「アリシアと、ラクシィ? ま、まさか……」

「もう一人も名前を出さないとわかりませんでしたかしら? この、ポンコツの、頭では」


 うっわぁぁ、すっごい冷たい目。ドクズの罪人でも見るような目ですね。心の芯から全身まで凍りつきそうです。

 あと扇子の先っぽで額をガツガツ突くのをやめてもらいたい。変なこと言ってごめんなさい。ほんの出来心だったんです。


「じょ、冗談はさておき。リリィはどこへ行ったんだ?」

「リリィさんならこの時間はあなたの騎士たちのところですわね」

「えっ、騎士ミュールたちのところ? なぜ?」

「訓練の相手をお願いしてるのでしょう。リリィさんは騎士になりたいそうですから」

「それは聞いたけど、大丈夫なのか? 騎士ミュールたちとの訓練だなんて、私だったら死んでしまうぞ?」

「リリィさんは大丈夫ですわ。それなりに戦えなければ私もそばに置いたりはしませんもの」


 そうなのか、悩ましいところだな。

 そばにいたいと言ってくれた気持ちは嬉しいが、乱暴者になられると、王子せつない。

 できるのなら今のまま成長してもらって、いつまでもかわいい女の子でいてもらいたいものである。

 ああ、俺はなんて身勝手な男なんだ! よし、こうなったらすべてを受け入れよう。乱暴者になっても俺はリリィを受け止めるぞ。


「お昼にはフィリィーズテイルに到着しますわ。今日は一泊して明日の朝に出発する予定ですわ」

「もうフィリィーズテイルか。大所帯なのに早いものだな」


 フィリィーズテイルはゴールドフィール領にある二つの街の一つである。

 領都であるゴールドフィールの街が領地のほぼ中央にあり、フィリィーズテイルの街は王都と領地を繋ぐ街道を進み、ゴールドフィール領に入ってすぐの玄関口のような位置にあった。

 母が第一位女王だった頃までは王都への交通路の中継点の街として四方から何十万もの人が集まってきていたのだが、今は人の流れがすっかり変わってしまい、その頃の面影など泡沫のごとく、といった始末である。

 今はセイラーズ商会の本拠があるゴールドフィールの街の中継点として商人が宿に使うばかりである。


 あ、あとは温泉だ!

 義明世界の日本と違ってそこまで温泉をありがたがる世界ではないのだが、好む者は好む、通好みの旅先として、フィリィーズテイルは認知されていた。



 ■□

 □■



 わーわー、ありしあさまー、わーわー、せいらーずしょうかいばんざーい、わーわー



 セイラーズ商会の馬車がフィリィーズテイルの街へ入ると、まるで凱旋パレードでも始まったかのように歓声に包まれた。


 寂れる一方だったフィリィーズテイルを救ったのがセイラーズ商会の発展と影響のおかげだということを考えれば、この歓迎は当然のことと言っても過言ではないだろう。


 経済が落ち込み、店舗が一つまた一つと潰れていき、物価が上昇して食事が満足にできなくなるという流れは、街の人間にどれほどのストレスを与えたことだろうか。

 笑顔を失い、人々の交流を減らしていく街の姿は、老いて死んでいく人の姿を想像させるものだった。


 ただ、街がどんな姿になってもそこに根を張って生きる人というものはいるものだ。

 どれほど寂れ、どれほど人が減っても、フィリィーズテイルの街が無くなるということはなかっただろう。

 けれど、フィリィーズテイルという街は、フィリィーズテイルという街に住む人々は、あの頃確かに死に向かっていたのだ。


 その死の淵から街と人を救ったのがアリシア・クールウェアーとセイラーズ商会である。

 セイラーズ商会の発展が商人を呼び、街へお金を投入することで息を吹き返させ、やがて自分の力で呼吸できるまでに回復させた。

 ほんの十年程度で最も栄えていた頃を取り戻すところまで至るはずもないが、一度死にかけた街はどこぞの戦闘民族のごとく、強く、しぶとくなって生まれ変わったのである。


 街は、街の人々は、あの頃の苦しさと、もたらされた救いを、最短でも100年は忘れることはないだろう。


 セイラーズ商会は、アリシア・クールウェアーは、フィリィーズテイルという街の救世主であり、今もなお続く救いの神でもあるのだった。


 その女神を乗せた大馬車は歓声に包まれたまま、この街が彼女のために一等地の一番良い場所に建てた宮殿のような屋敷へとたどり着いた。


 女神の姿を一目見ようと、街の人々が固唾を呑んで待っていたが、その姿はなかなか出てくることがなかった。

 それどころか、なんとなく揉めているような言葉のやり取りが聞こえてこないでもないような気がしないでもないという。


「おい、待て! 押すな! フリじゃない! 冗談じゃ済まないぞ!」

「心配なさらなくても冗談だなんて言いませんわ。わたくし、マジですわ」

「なお悪いわ! 冗談、冗談と言ってくれ! いくらでも笑わせてもらうから! 私は絶対に馬車から出たくない!」

「あの、アリシア様、あまりご無体なことは……」

「リリィ☆ もっと言ってやってくれ! 人にはやって良いことと悪いことがあるってことをこのお嬢様に教えてあげてくれ!」

「……時間がもったいない。早く出て」

「ちょ、まっ、ラクシィ押すなってえ!」


 俺の抵抗もむなしく、俺は馬車の外へと突き出された。

 女神の登場を心待ちにしていた人々は、反対の生き物を見た瞬間、すべての表情と声を消した。


 アリシアが救世主で女神なら、俺、クリスティアーノ・アクアレイクは街の凋落の理由であり、疫病神なのであった。


 だから冗談じゃ済まないって言ったんだよお!!


 十余年という月日が流れて落ち着いてきた今はさすがに王子に直接手を出して街を危険に晒すようなことはしないだろうが、あの死の淵の際にいた頃なら石の一つや二つぶつけられてもおかしくはない状況である。

 視線が痛い! 胃が痛い! いが多い!

 もはや俺のいのちは風前の灯火だった。

 いのちを大事にって決めてたのに! 周りの人間がめいれいを守らなかったら何も意味がない!


 その時、歓声が爆発した。女神の降臨である。

 アリシアが馬車から現れて、街の人々に愛想を振り撒く。もはや誰一人として俺に目を向けていない。


 この女、俺のことをブースターにしやがった。

 一度期待を裏切って、がっかりさせた所に本内が登場。がっかりした分、喜びの上昇値は上乗せされ、アリシアの株はストップ高である。


 俺の胃を犠牲にしてまですることかあ、と俺は激おこだが、今はダメだ。今は気配を消して、この場から逃げなくては。

 もう耐えられないんだ、俺の胃が。にんにん。



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