閑話 マリーアネットのはじめて



 アクアレイク城の中庭。

 先日クリスティアーノたちがお茶会という名の相談会をしていたテーブルに、サフィアローザは一人でいた。

 紅茶の入ったカップを持ち上げたまま、飲みもせずに赤い水面を見つめる。


「……はぁ」


 吐息が水面を揺らした。

 紅茶が熱くて冷まそうとしている、わけではない。ただのため息だ。

 だがそのため息が紅茶よりも熱っぽく感じられるのは、見る者が見たらわかっただろう。

 そして、その時ちょうど、わかる者が中庭のそばを通りかかっていた。


「ちょっとサフィアローザ、こんなところでいやらしい顔をするのやめてもらえる? 正気を疑うわ」


 ちょっと……いや、かなりきつめのセリフをぶつけられて、サフィアローザはそちらへ顔を向けた。

 そこにいたのは腕を組んでナチュラルにこちらを見下ろすタカビーなお姫様、マリーアネットだった。


「マリーアネット……ごきげんよう」

「ごきげんよう。……ではなくて、挨拶の前にそのみっともない顔をなんとかしなさいよ」

「みっともない?」


 サフィアローザは頬に手を当てて首を傾げた。サフィアローザにマリーアネットが言うみっともない顔をしてる自覚はなかった。

 実際、その時のサフィアローザの表情はほぼデフォルト、つまり限りなく無表情の状態だった。


 ならばマリーアネットは何をもっていやらしい顔・みっともない顔と言ったのかというと、濡れた瞳と上気した頬で色づいていたからだった。

 つまり昨夜クリスに見せていた発情中の顔をしていたのだ。


 こんな人通りが多い通路のそばの中庭でそんな顔をしていたら、マリーアネットが正気を疑うのもまったくおかしい話ではない。

 幸いにもマリーアネットが話しかけるまでサフィアローザに近寄った者はおらず、遠目では珍しくぼんやりしているな、くらいにしか思われなかっただろう。


 マリーアネットは腕を組んだまま明後日の方向に顔を向け、少し不機嫌気味にそれを指摘した。


「夜を思い出して発情してるその顔をさっさと隠せ、と言ってるのよっ」


 きょとん、とサフィアローザは言われて初めて気づいたような顔でマリーアネットを見つめた。

 とたん、その顔がさらに赤くなった。


「え、うそ? 私そんな顔してた?」

「してるのよっ。こんなところでそんな顔をして、本気で正気を疑ったわよ」

「そ、そうね。心配かけたようでごめんなさいね」


 サフィアローザは紅茶を飲み、赤みを拭うように頬を撫でる。

 マリーアネットは横目でその様子を見ていたが、小さくため息を吐いて肩を竦めると、ハンカチを取り出してサフィアローザに顔を寄せた。


「目を開けてちょっとじっとしてなさい」


 マリーアネットは言って、ハンカチでサフィアローザの目の潤みを拭った。

 両方の目をそうしてから確かめるように少し見つめ、小さく頷くとサフィアローザから離れた。


「ありがとう」

「同じ王族としてみっともないと思っただけよ。お礼を言われることではないわ」


 つんと澄ました顔でそんなことを言うマリーアネットを、サフィアローザはあいかわらずねと思いながら見て微笑した。


「マリーアネット、お礼にお茶でもどうかしら?」


 サフィアローザが笑顔で誘うと、マリーアネットは不審げな目を向けた。

 お茶をするというのは話をするということと同意だ。

 何の話をするのか・・・・・・・と、マリーアネットは考えたのだった。

 マリーアネットはしかたないという態度で席についたが、きっちりと予防線を引くことも忘れなかった。


「……私の話はしないわよ」

「ああ、やっぱりマリーアネットもなのね?」

「しないって言ってるでしょう?」


 マリーアネットはぷいと顔を背けるが、席を立たないということはNGではないということだ。

 あとはサフィアローザの話のもって行き方次第、という風に受け取った。


「少しくらい良いじゃない? こんな話をできるのも今のところ貴女しかいないんだから」

「そもそも人に話すようなことじゃないでしょ。あんな話なんて……」

「マリーアネットのあんな話、私は聞きたいなぁ。ほら、情報を共有しておけばもしかしたら役に立つってこともあるかもしれないじゃない? ね?」

「……どんな状況で役に立つのよ」


 マリーアネットは呆れたように呟きつつ、諦めたようにため息を吐いた。


「はぁ、少しだけよ。何を聞きたいのよ?」

「とりあえず、いつからなの? 最初はいつ?」


 マリーアネットが8年前、つまり8歳の頃に禁呪をかけられたのは以前聞いた通りだ。

 けど、まさか、そんな年からってことはないだろう。……ないわよね?


「……最初は胸が大きくなってきた頃よ。年は13か14くらいだったかしら?」

「2年か3年前ね。何があったの?」

「何があった、っていうか、胸が大きくなり始めたらなんとなく胸が大きいことを意識し始めて、それと同時に昔クリスに触られたことを思い出したのよ。そうしたらなんだか胸の辺りが落ち着かない感じになってきて……」


 マリーアネットは一度話すのを止め、紅茶を飲んだ。


「最初はそれほどでもなくて無視できてたのだけど、だんだん強くなっていって、我慢するのもつらいくらいになったときにクリスに知られてしまったのよ」

「知られてしまった……クリスの背中にお尻を擦り付けたの?」

「そんなことしてないわよっ。キスしてたときに……あ」


 マリーアネットがまずい、という風に慌てて言葉を止めたが、サフィアローザが違和感を覚えるにはもう十分だった。


「キスを、してた? 今の、最初の話じゃなかったの?」


 マリーアネットは諦めたようにため息を吐いた。


「ちゃんと最初の話よ。クリスが言う「発情」っていう意味のだけど」

「それってつまり、発情する前からキスをしてたってことよね?」


「……そうよ。私はね、キスをされてからキスという行為自体を気に入ってしまったの。だからキスだけは8歳の頃からしていたわ。けど勘違いしないで。さっき話した時までキスでいやらしい気持ちになったことはないんだから」


「そう……そんな前から……まったく気が付かなかったわ」

「それはとても気を付けていたもの。特にクリスの方が神経質なくらいね」

「ふぅん。それで、火がつきかけていたのにそれまでと同じようにキスしたせいで完全に火がついて気づかれちゃったわけね?」

「……そうよ」


 マリーアネットは赤い顔で不機嫌そうに肯定した。

 サフィアローザはもう少し色々聞きたかったが、さすがにそこまで時間も取れないので、最後に一つだけ聞くことにした。


「けど2年以上あんなことしてて……もしかして最後までしてるの?」

「……サフィアローザ、それはもしかして私をバカにしてるの?」

「あ、ううん、違うわ、ごめんなさい。いちおう聞いてみただけよ、いちおう。本当に謝るわ、ごめんなさい」

「……ふん、まぁいいわ。貴女も女王候補なのだから最後の一線だけは守りなさいよね。女王候補が妊娠なんて話になったら追放くらいじゃ済まないわよ?」

「わかってるわよ。貴女がクリスにメロメロみたいだからちょっと心配になっただけよ」

「だ、誰がメロメロよっ。いらない心配しないでもらえる? ……それにクリスは私が、私たちが困るようなことはしないわよ」


 最後独り言気味に言ったマリーアネットを見ながら、サフィアローザは少し呆れるとともに、少し羨ましいかな、なんて思ったりした。




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