晩山怪~山で妖怪を喰う~

楠本恵士

晩山怪~山で妖怪を喰う~全一話の壱


 単独で夏山登山をしていた、わたしはうっかり本道の登山道からヤブコギ〔登山などで笹や雑草の繁った、道なき道を進行するコト〕の横道に入ってしまい、山で迷い薄暗い樹木の間を進んでいた。


 小枝や笹の葉で衣服の一部が破れながらも、わたしは登山道にもどろうと必死だった。

 さらに悪いことに、日帰りで下山できる予定の標高千三百メートルの里山だったので、携帯電話の充電も十分ではなく、モバイルバッテリーも車内に忘れてきていた。

 気づいた時には、スマホの電池は無くなっていて、使用不可能になっていた。


 わたしが、やっと本道の登山道に合流できた時には、日は暮れて周囲は薄暗くなっていた。

 幸い月夜だったので、なんとか夜目は効いたが。

 何度も樹の根や地面から出ている石に、つまづきそうになりながら、山の尾根道を下っていると。

 向こうから近づいてくる人陰が、月明かりの中に見えた。

 チリンチリンとクマ避けベルの音も聞こえる。

(登山者? それにしても? 変だ?)

 互いが歩を進め、近づいてくるほどに人陰の異様さが目立ってきた。


 頭が人の二倍くらいあり、腕が長く膝近くまであった。

 ヨタヨタと、山道を近づいてくるその人物は月明かりに照らされて、全身に赤茶色の毛が生えているのがわかった。

 目の位置に笑ったように弧に歪んだ細く光る二つの目。

 大きく裂けた口も笑っているように見え、鋭い歯が並んでいた、耳は確認できなかった。

 全身毛むくじゃらの生物は、わたしから十メートルほど手前で立ち止まると、細い目を皿のように丸く見開いて、わたしを凝視した。


 山怪──そんな言葉がわたしの脳裏をよぎる。不思議と恐怖は感じなかった。

 なぜなら、怪物は狭い山道で端に寄り、わたしに手で道を譲る登山者のような仕種をしたからだった。

 怪物の腰に巻いたヒモに、ぶら下がっているクマ避けベルと竹筒水筒も、わたしにこの奇妙な生き物に知性があるコトを教えてくれた。


 里山の単独登山者でも、心細い山道で人と出会うのはホッとする。

 そんな心理が、山で妖怪のような存在と遭遇しても、道を譲るという紳士的な怪物の態度に恐怖心よりも安堵する気持ちの方が、強く出たのかも知れない。


 わたしは、山怪の横を何事もなく通り抜け、数歩進んでから振り返ると、そこにはすでに山怪の姿はなかった。

(幻だったのか?)

 夜の山でフクロウの鳴き声が聞こえ、ガサゴソと小動物が動き回る気配を感じた。

 心細い月明かりの山中で、わたしは平らな尾根道から少し急な下り道へと移行して、歩き続けた。

 持ってきた食料は、日帰り登山を想定していたので食べ終えていて。

 ペットボトルの水も残っていなかった。

 空腹と喉の渇きと疲労感の中で、少しづつ山を下っていく。

 本道の登山道であるコトを示す、樹の幹に付けられたビニール札の目印を見失わないように注意して歩く、わたしの視界に月光の中に浮かぶ鉄塔が現れ──人工物に不思議と安堵した。


※「凵」読み方、カン・はこ〔意味・そのまんま、開いた箱とか穴を示す漢字らしい〕

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