石階段にて

ひろかつ

第1話

 車の轍が残る緩やかな未舗装の道は、都会育ちの彼女の足には辛そうだった。坂道の右側には田畑が広がり、左は木の生い茂る山へと続く、如何にも絵に描いたような田舎の風景だ。木々の間から降り注ぐ日差しの中、息を切らしながらも懸命に歩く、その姿が妙に愛おしかった。都会で土に触れあえるのは公園の芝生か、家の庭、神社やお寺くらいだろう。バスに乗り地下鉄に乗り、オフィスで働く。帰りも地下鉄とバスに揺られる。そんな日常生活とは無縁とも言えるだろう。

それでも、文句の一つも漏らさずに、ピンクの縁取りの付いた白いハンカチで、彼女は噴出す額の汗を拭っていた。都会では聞くことが出来なくなった蝉の声も、あちらこちらの木々から聞こえてくるが、彼女にはその声さえ気に留める余裕さえないように見えた。

「ヒールなんて履いてくるからだよ」見かねた僕が放った言葉に、

「こんなことならちゃんと言ってよね」と、すぐに強い口調で反論したが、その表情からは僕を責める意思がないことは伝わった。『運動靴の方がいいよ』と、出掛ける前に僕は確かに伝えたからだ。『ここまで酷いとは思わなかった』今にもそんな言葉が出てきそうで、思わず顔がほころんだ。

都心からは、それほど遠くはない土地ではあるが、開発の手からははみ出してしまった場所。それが僕の故郷。期待されていた開発の手はこの土地の頭上を飛び越えて、山向こうの隣町に差し伸べられた。三方を山に囲まれたこの土地では、開発のしようもないのも知れない。少々遠くても、隣町のように、広く平坦な場所のほうが開発するには都合が良いのだろう。その証拠に、僕の知りうる限り、ここは二十数年経っても何の変化もない土地だ。変化があるのは、人口が減っていることだけだ。ここの生活者は、農家や林業を営む家がほとんどで、民家の軒数は変わらずだが、人口は年々減少の一途をたどっている。残された高齢者が細々と家を守っているに過ぎない。見捨てられたようなこの場所には、お洒落な店も娯楽の一つもない。必要最低限の施設でさえ、バスに揺られないと行けないほどだ。そんなところに嫌気が差し、若い者は我先にと都会に出て行った。勿論、僕も例外ではない。都会の大学に進み、そのまま都内の中堅企業に就職した口である。就職活動のときにも『帰郷』という選択肢は一度も頭に浮かばなかったほどである。働きだしてからも帰省するのは年に一度あるかないかの状況だ。いつきても退屈で静か過ぎる村。きっとそれは、都会の生活を知ってしまったから言えるのだろう。

「辰弥ー、ねえ、まってよ。もう、歩くの早いんだから」

「うん?あ!悪い、悪い」数メートルほど先で、一点を見詰めていた僕は、彼女の悲痛な叫びに慌てて答えた。両親に会わせる為に、初めて連れて行く婚約者を、その時、僕は一刻でも忘れてしまっていた。

なぜならば、目に前に現れた石階段で起きたことを、昨日のことのように鮮明に思い出してしまったからだ。そして思い出のもう一人の主人公、和子との出来事が、一枚一枚頁をめくる物語のように脳裏に浮かんできたからだ。

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