ワンドロ即興小説集 2021 年1月版

生來 哲学

第1篇 勝手な黒猫

「君がやったのか」

 そこにあったのは爪痕だ。

 大きな大きな、大地を切り裂く五つの爪痕。

 この惨状を見れば山をも越える巨大な怪異が現れたのだと誰もが思うことだろう。

 けれども、少年の前に居たのは一匹の黒猫だ。

「どうなんだ? 答えてはくれまいか?」

 すると巨大な爪痕の中心に居た黒猫がふぁぁっと興味なさげにあくびをする。

 少年は――。

「いかにも」

 黒猫へ手を伸ばそうとしたところで女の声がした。

 妖艶な年を経た、老獪にして妙に色気のある女の声。

「やったのは私だよ、坊主」

 黒猫は笑った。嗤ったのかもしれない。

「そうか」

 大地を切り裂いた五つの巨大な溝は黒猫を中心に放射状に広がっており、そこにあった人間達の街をチーズケーキか何かのように切り裂いていた。そこには少年が通っていた学校、友人達の家、行きつけの店など少年の過ごした生涯のすべてがそこにあった。勿論、少年の家も両断され、砕かれている。

「ありがとう」

 少年は泣いた。

「ありがとう。ありがとう、猫」

「礼には及ばないよ」

 感激する少年に対し、黒猫の怪異はつれない態度だった。

「猫が好きでしたことだ」

 破壊しかない。

 もはや破壊しかなかったのだ。

 この街の話をしよう。

 他愛もない、日本の片田舎にある小さな街だ。

 スマホの電波くらいは届くし、電車もバスも通っている。けれども映画館はなく、見に行こうと思えば数時間かかる、そんな街のお話。




 はじまりはなんてことのないことだった。

 少年は気づいたのだ。

 この街にどうしようもないほどの穢れがあることを。

 その穢れの理由を少年は知らない。

 ただ、見つけてしまったのだ。

 曖昧模糊にこの街に蔓延する取り返しの付かない穢れ。

 気がついてしまえば早かった。

 少年の認識を起点として穢れは実体化。

 人を襲い、家屋を倒し、街のあちこちを黒い泥人形のような何かが溢れていく。

 現代の日本とは思えない時代錯誤な破壊の光景だった。

 それが――ただの一撃。

 黒猫の手が振るわれただけで消失した。



「お前は猫を責めないんだね」

「責は僕にある。穢れが実体化したのは僕のせいだ」

 それが「あるもの」だと認識してしまったが故に事件は起きた。

「大勢が死んだ」

「僕のせいだ」

「猫が踏みつぶした」

「僕が潰した」

 黒猫は目を細めた。背中にある複数のしっぽがゆらゆらと揺れる。

「猫には分からないね。どうしてそうも平然としているのか」

「決まっている。後は僕が死ねばそれで終わるからだ」

 ゆらゆらと揺れる黒猫のしっぽ達がぴたりと止まる。

「ほう?」

「殺してくれ。無理ならば後でどこからか飛び降りよう。それで終わりだ」

 黒猫は細めていた目を開く。

「なんと身勝手な」

「じゃあ他にどうしろと」

「そうさな」

 黒猫は少し伸びをした後、横薙ぎに腕を払った。

 田舎町は不可視の巨大な獣足になぎ払われ完膚なきまでに崩壊した。

「――な。まだ生き残っている人だっていただろうに」

「知らないねぇ。猫が勝手にしたことだ」

 少年は眉をひそめる。

「これじゃあ……本当に誰も、生き残ることが出来なかったことに」

「なるかもしれないね」

 少年の足が震える。

「殺してくれ。僕を。すべての元凶であるこの僕を」

「やだね。なんの意味もない」

「じゃあこの死と破壊には意味があったっていうのか?」

「ないよ。等しく。そして、坊主。お前の責任などというものもどこにもない」

「…………そんな」

「勝手にお前が盛り上がって死にたがってるだけだよ。

 猫はただ、この街にぶらりと現れ、穢れをはらい、人々も殺した。

 それだけのことだ」

「なんで僕だけを残して」

「さあてね。猫は気まぐれだからね。自分でも分からない」

 少年は気がつけば震えが止まっていた。

「なんだこれは。なんなんだこれは。何もかも分からない」

「これは猫の自分勝手な意見だが、君は生きるといい」

「どうして?」

「なんとなく」

「なんとなくってなんだよ」

「さぁ? 猫には分からない」

「そんなときだけ獣の振りして! 絶対数百年とか生きてるくせに!」

「にゃあにゃあにゃあ。メスに年齢を訊くのはよくないね」

「普通の猫はそんなこといわない」

「普通じゃないからね」

「じゃあなんなんだよ」

「それは君が決めればいい。猫は悪魔かも知れないし神かも知れない。だがどちらだとしても、猫としてはどうでもいいことだよ」

「…………悪魔猫め」

「にゃーん」

「なんなんだその愛嬌は」

「知らないのかい? いいメスは愛嬌が良いのさ。猫でも知ってる」

「……そうかい」

 少年がため息をつく。

 すると黒猫は少年に背を向け歩き出す。

「じゃあな、坊主。猫は行くよ」

「えぇ……」

「そのうち隣町から人が来るだろうさ。その人に助けて貰うといい」

「僕を残して、好き勝手殺しておいて、出て行くのか」

「ああ、出て行くとも。猫は勝手だからね」

 少年は膝を突いた。

「さようなら、悪魔の猫」

「挨拶はしない。猫なのでね」

 そうして妖艶な女の声をした黒猫は夜の闇に消えていった。




 この後、黒猫がどこにいったかを少年は知らない。

 ただ、もう一度会うまでは死ねないと心に楔をさされたまま少年は今日も崩壊した街の跡地で日々を暮らすこととなる。



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