門番と少女
向日葵椎
別に何でもないけどさ
ある夜のこと。
街の門の入り口で、見張りの女は白手袋を外した。
じっと見ると、全体が赤くなっている。
さっき村にやって来た少女が、通行手形を出すときに落としてしまった指輪を探して雪に手を入れているうちに、手がしもやけで赤くなっていた。
手の感覚がほとんどない。
雪が降っていたのは昼までで、今は半分解けている。
女が手袋を感覚のない手で握ると、水がしたたり落ちた。
手袋を毛皮のポンチョのポケットに押し込んで、手のひらに息をかけて温めようと試みる。
「ふー……いや、はあー、か」
シンとした空気と雪に、独り言は吸い込まれて消える。
全然温かくなかった。
感覚がなくて、息が当たっていることすらわからない。
冷えた手は、門の傍の電灯の光に照らされて、少し濡れているのがわかる。解けた雪のせいだろう、と女は思った。手が濡れていることすら見ないとわからない。最近できた傷がどこにあるのかもわからないほど感覚がない。
だから……
じっと手を見る。
だから、手を口の中に突っ込んだ。
「あむあむあむ」
口の中が冷たくなった。
ひんやりした何か――手を口の中で舐める。
舌に感覚はある。ひんやり。
手の方は、舌に触れる感覚がなかったけどなんとなく温かいような気がした。
これは、女が編み出した手指感覚回復の方法で、たまにやる。これをやれば少しは感覚が戻ったような気がするし、いつかは完全によくなるような期待が持てるのであった。焚火でもできたら手を温められるのに、火を燃やすのは、街の中の決まった場所でしか許可されていない。
風が吹いて、白い髪を揺らす。街にやってきた行商人たちが、最近他の街から髪を少しだけ脱色する薬品を持ってきたのだが、この門番の女は面白がってそれを使いまくってしまったものだから、髪が白くなってしまったのである。おかげで髪はキシキシだけど、別に女は気にしていなかった。何か髪が白くなって面白かったから、だから別にそれ以外は何てことないのであった。
寒いことを忘れたまま、歯をガタガタさせる。体中が冷たいのだけど、寒いという感覚がなくて、ただ冷たくて、体が振動する。震えているということかもしれない。辛いという感覚も、いつの間にやら鈍くなった感覚が忘れてしまったようだった。
冷たいから震える、という反応。そんな認識だった。
「あむあむあむ」
女が口に入れた手を少しだけ噛んで感覚が戻らないか待っていると、どこからか視線を感じた。
門の方を見る。
少女が女を見ていた。さっき指輪を落とした少女だ。少女も毛皮のポンチョを身に着けて、ファーの付いたフードをかぶっている。顔に湯気がかかっているのは、両手で飲み物の入ったコップを持っているからだ。
「あむあむあむ」
女は寒かったので、たとえ少女の視線が冷たいものであっても平気だった。口に手を突っ込んだまま、少女と目を合わせる。
すると少女はコップに視線を落として、雪に足を擦るように、ゆっくりと女に近づいていった。中身をこぼさないように、慎重に歩いていることが女にはわかる。
そして、少女は女の目の前までやってきた。
女は少女を見る。
「あむあむ……?」
少しの沈黙の後、少女は女にコップを差し出した。
「くぇ、くれるの?」
寒さで口が思ったように動かなかった。
少女は無言でうなずいた。
女は口から手を引っこ抜いて、コップに手を伸ばしかけて止める。
手は感覚がなく、それに思ったように動かないことはわかっていたので、コップを持つことは無理だと直感した。
そんな女の様子を見た少女は、手招きをする。
女は首を傾げたが、すぐに顔を寄せろという意味だと理解した。
腰をかがめて、少女に顔を寄せる。
湯気を挟んで顔を合わせる。
女は、ほんの少しばかり湯気の向こうにある瞳をぼんやりと見つめてから、小さく首を傾げた。指示を待っている。冷えた体が硬まっていてあれこれ動くのが大変だったので、少女の指示に従って動く方が効率がいいと考えたのだった。
少女は、再びコップへ視線を落とし、小さな息をかけた。
湯気がほんのひと時だけ消えて、女から少女がはっきり見える。
そしてすぐに、湯気がのぼって輪郭がぼんやりとする。
女の冷えた鼻腔に、微かにコーヒーの香りが漂った。
ゆっくりと、少女はコップを女の顔へ寄せる。
女もコップへ顔を寄せ、感覚のなくなった唇をつけた。
温かい湯気が、まつ毛や目に当たるのがわかってくる。
慎重に、少しだけコーヒーをすすった。
口の中に、冷たい何かではなく、確かに熱くて味のするものがあるのがわかった。口の中で転がすと、良い香りが広がる。
少女は、小さく息を吹きかけて湯気を飛ばし、女がコーヒーを飲むのを見た。
すぐに湯気がのぼって、女の輪郭がぼんやりとする。
「おいしい」
女は言った。そして、コップへ小さく息を吹きかける。
湯気が空気へ溶けて、少女が微笑むのを見た。
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