第38話 はぴねす
じょろろ、という音が白い部屋に響いた。
そう、敦盛は屈して恥辱の真っ最中。
他人に尻を拭かれたのは、恐らく幼児の頃以来ではないだろうか。
全ての用を足し終わった後、椅子は元に戻り。
「んぐ、んぐ、んぐ……ぷはぁ、生きてるって素晴らしいなァ……」
「へぇ、赤ちゃんみたいに下の世話されて生の実感を得られるってあっくんはとんでもない変態さんね」
「ちょっとは現実逃避させろ?」
「え? アンタは現実逃避の時もアタシを想っていなきゃいけないでしょ。何言ってるのよ」
「真顔で言うなよッ!? ――……はぁ、少し聞いて良いか?」
目が覚めて以降、ずっと考えていた事があるのだ。
彼女の全てがウソであったのか、ほんの少しでも……ホントウはあったのだろうか、と。
「俺はさ、お前と一緒に暮らすの楽しかったんだ。無意識でずっと隣に居るんだって思ってて、それは瑠璃姫も同じだって。なぁ、俺と居るのはそんなに苦痛だったのか?」
「…………そうね、どう答えたものかしら」
「お願いだ、どんな答えでも受け入れる。だから――もう嘘は言わないでくれ、肝心な事だけ言わずに誤魔化さないでくれッ」
絞り出すような声、震えて項垂れる。
彼の消耗した姿に、彼女は喜悦の混じった優しい眼差しを投げかけて。
「全てが苦痛だった、とは言わないわ。……だってアンタへの復讐を練っていたのだもの。敗北はアタシがの勝利に近づくピース。――でもね、アンタに負けた日はいつも憎悪で眠れなかった」
「そう、か……」
「でも同時に……楽しかった」
「瑠璃姫?」
「アンタはね、恋愛が絡まない幼馴染みとしては一緒に居て楽しかったわ。ご飯は美味しいし、何だかんだで心地よい環境を提供してくれる」
「ならッ!! どうしてッ、なんでなんだよッ!!」
少しでも幼馴染みという情があるのならば、ここで踏みとどまってくれないか。
恋人という関係で無くなってもいい、瑠璃姫が心安らかに暮らせるなら離れてもいい。
そんな敦盛の視線に、彼女はゆるゆると首を横に振り、にた、と嗤う。
「勘違いしないであっくん、幼馴染みとしての好意とね、アンタという存在への憎悪は――――両立するの」
「両立する?」
「だから、……今まで楽しかったわあっくん」
楽しかった、それは過去形で。
(だからッ、そういう事かよ畜生ッ!!)
敦盛は自分の愚かさに、ギリ、と歯ぎしりした。
幼馴染みから恋人へ、告白という手順、彼女だけに想いを集中させるという罠。
それは、敦盛への復讐というだけでなく。
「テメェ……、切り捨てたのか、――俺を」
「ええ、幼馴染みとしてのアンタは復讐の邪魔だったから。残念ねぇ、アンタがアタシだけを見て。もっと早く無理矢理にでも押し倒していたら勝ち目はあったかもしれないのに」
それはつまり。
「…………――――奏さんを好きになったのが、間違いだって言いたいのか」
「まさか、心は思い通りにならないでしょ。むしろ逆よ逆、とっても好都合だったわアタシにとって」
「~~~~~~~~~~~~~~~ッ!!」
「あはっ、良い顔してる、そのとぉーーっても悔しそうな顔、写真に取っておけば良かったわっ!! あははははははははははっ!!」
彼女はとことん利用したのだ、敦盛の恋心も、己の心すら。
――復讐の、原動力として。
(何でッ、何で俺は気付けなかったんだよッ!!)
何処かで期待していた、誠意を持って話し合えば。
情に訴えかければ、瑠璃姫が思い直してくれると。
だがどうだろうか、分水嶺はとっくの昔で。
関係の改善どころか、最初から破綻していた。
何より。
「そんな風に笑うなッ、笑うなよ瑠璃姫ッ!!」
「あっくんってばアタシの笑顔も好きでしょう? 喜びなさいよ、ほら、こんなに笑っているじゃないの」
「だからそんな風にッ、――……そんな風にさァ、安心したみたいに笑わないでくれッ!! そんな穏やかに、死んだ人間みたいに笑うなッ!!」
誰かが見たら、悪辣と表現しただろう。
だが今の敦盛には、全てをやりきって満足し――穏やかに死を待つ老人のソレに見えていた。
(たぶん、コイツは……)
彼女は、幸せを投げ捨ててしまったのだ。
子供を産み、育て、愛する人と共に老いて死ぬという普遍的な幸せは言うまでもなく。
日常の些細な、テレビが面白かったとか、美味しいケーキ屋を見つけたとか、小さな幸せまでも。
(全部、全部ッ、俺の為だけに投げ出したのかよッ!!)
きっとそれは、今に始まった事ではなく。
以前からずっと、彼女は自分の幸せを諦めて。
復讐が何も為さないとは思わない、でも、こんな残酷な事はあんまりではないか。
「何で……何で俺に拘るんだ……、俺なんか忘れてどこか遠くで」
「は? 何言ってるのよ。――アンタはアタシを負かした。それはアンタにとって、世間から見ても小さな事だったかもしれない。でもね、……人生を変える衝撃だったのよ、感謝してるわ」
初めての敗北の味は、それまで天才少女とチヤホヤされてきた瑠璃姫に目的を与えた。
たぶん、それは相手が敦盛ではなくとも同じ事だったかもしれない。
だが、彼なのだ。
(あっくん……あっくんあっくんあっくんあっくんあっくん――――あっくん)
母が死んだ時も、部屋に引きこもる瑠璃姫を連れ出して敗北を与えたのは敦盛だ。
直前に彼の母が亡くなったというのに、彼女と違って彼には他人を思いやる強さがあって。
それが、……憎たらしい程に眩く写った。
(アタシはあっくんに勝てない、頭脳とかそういう話じゃない。人として、アタシは絶対に勝てない)
それは発狂しそうな真実だった、己が劣る。
なまじ天才と呼ばれ続けただけに、そう自負していただけに。
スペックという観点では、完全に勝利していただけに。
「――――ありがとう、あっくん。アンタはアタシに生きる目的を与えていてくれていたの」
「そんな感謝なんて要らねぇよッ!!」
「だからその通りかもしれないわね、今のアタシは死ぬまでアンタを精神的に虐めぬいて楽しむ。……それしか残ってないから」
でもそれが。
「嗚呼、嗚呼、嗚呼――なんて愉しいのかしらっ!! アンタに勝ち続ける事がなんて愉しいのっ!! これから先、死ぬまでずっとこの甘美な悦びに浸れるなんて、復讐して良かったっ!! 嗚呼、人生ってこんなに愉しいのねっ!!」
(瑠璃姫ッ、俺は、俺は…………ッ)
諦めない、絶対に諦めない。
嗤いながら彼女が立ち去る中、敦盛は諦めない事だけを胸に彼女を睨みつけていた。
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