第20話 『おめでとう』の言葉を

 


 特別展示エリアを出て感傷に浸りながら館内を歩くこと数分、俺のセンチメンタルな空気は背後から抱きついてきた人物によって一瞬にして掻き消された。

「健吾、ここに居たのか!」とやたらとテンションの高い男の声、それと抱き着かれても全くもって嬉しくない堅い男の体。

 誰かなど今更確認するまでもない。


「……宗佐」

「聞いてくれ健吾! 俺さっき!」

「分かった。とりあえず落ちついて、俺から離れて、そしてあの水槽に一度頭まで浸かってこい」

「あの水槽オコゼばっかり!」


 どうやらかなり興奮しているようで、宗佐のテンションはいまだかつてないほどだ。

 まぁ理由など聞くまでもないのだが、それでも『ずっと見てたから知ってる』などと言えるわけがなく「どうした?」とわざとらしく尋ねてやった。

 その瞬間に宗佐の表情が一際明るくなったのは言うまでもない。おまけにぐいと近付いて今でさえ近い距離を更に詰めてくる。冬の終わりと春の始まりの合間という季節なのに暑苦しい。


 きっと何も見ず何も知らず特に深く考えもせずに尋ねていたら、宗佐のこの反応に嫌な予感を覚えただろう。話し出す前に『十分に分かったから話すな』と冷たく拒絶したに違いない。――それでも宗佐は話すだろうけど――

 だが今は違う。にやける宗佐を前に拒否したい気持ちをぐっと堪え、話しだすのを待った。


「聞いてくれよ健吾、あのな、さっき……。俺、弥生ちゃんに」

「月見に?」

「こ、告白したんだ! それで、弥生ちゃんと付き合うことになった!」


 その時の感情が蘇ったのか、真っ赤になって宗佐が報告してくる。

 恥ずかしそうでそれ以上に嬉しそうで晴れやか、そんな表情を前に、俺は思わず苦笑を浮かべた。


 宗佐との仲は入学した時からだ。どうやら月見とは入学式前に出会っていたようで、はじめて会話を交わした時、すでに宗佐は月見に惚れ込んでいた。

 俺と話しながらもチラチラと月見の方へと視線をやり、自己紹介で名前を知ると「月見さんかぁ……」としみじみとした声で名前をを口にしていたのは今でも思い出せる。

 それから二人は徐々に距離を縮めていった。

 こちらがじれったくなるほどゆっくりとした進展ではあったが、それでも俺は二人を見てきた。時に呆れ、時に騒動に巻き込まれ、そして時に協力して……。


 その果てにようやく報われたのだと考えれば、散々騒動に巻き込まれ迷惑をかけられたものの俺の胸にも暖かな感情が込みあがり、「良かったな」と心からの祝いの言葉を贈り……、


 そして的確に脛を狙ったローキックを放った。


「ぐぅ……!」


 宗佐が呻きながら膝から頽れていく。

 俺のローキックが見事なほどにヒットしたのだ。あれは痛い……と自分でやっておきながら思う。


「健吾、俺に何の恨みが……」

「恨みなら数え切れない程あるんだが、正直今のはどうして蹴ったのか俺自身わからない」


 咄嗟に蹴ってしまったことを詫びれば、宗佐が文句を言いながら立ち上がり……、なぜか再び放たれた俺のローキックによって再び床に崩れた。


「……健吾」

「すまん、宗佐。大丈夫だ次はやらない」


 恨みがましく見てくる宗佐を宥めて立ち上がらせる。


 ……うん、大丈夫だ。今度は俺の右足も反応しない。


 身構えていた宗佐も安堵の表情を浮かべ、再び俺に向き直ると、今度は照れ臭そうに笑って頭を掻いた。

 本題を思い出してまた浮かれだしたのだ。その分かりやすさに三発目のローキックを放ちたくなるが堪えておく。


「そういうわけでさ、俺、弥生ちゃんと付き合うことになったんだ。弥生ちゃんも俺のことずっと好きでいてくれたんだって」


 改めて告げてくる宗佐の表情は緩み切っていて、いまだ片思い中の――それも宗佐を慕っている相手に片思い中ときた――俺からしてみれば、羨ましいを通り越して恨めしくさえ思えてくる表情だ。嫉妬を拗らせた男達の胸中が今なら分かる。


 だけど「良かったな」と返す俺の言葉は紛れもなく本物だ。


 宗佐は馬鹿で鈍感で間抜けでそれなのにモテる腹の立つ男だし、こいつの恋愛が成就することで悲しむ者がいるのも知っている。

 なにより珊瑚の切なげな表情が脳裏に過ぎり俺まで苦しくなるが、それでも友人として考えれば宗佐の想いが叶ったことは嬉しいと思える。


「それで、月見とは見てまわらないのか?」

「友達とまわるって約束してたらしい。せっかくだからサメの餌やり見に行こうぜ。もちろん水槽越しにな!」


 上機嫌で話しながらパンフレットを広げて宗佐が歩き出す。

 三年間の片思いの末にようやく結ばれたとなれば、友人のことなど忘れて二人の世界にどっぷり浸かりそうなものである。

 だが二人は「またあとで」と交わしてそれぞれ友人の所に戻ったというのだから、なんとも宗佐と月見らしい話ではないか。これもまたお似合いといえる。


 そんなことを考えつつ、俺は前を歩く宗佐を追いかけた。


「それで、どんな流れで告白したんだ?」


 興味本位を装って問えば、宗佐が一瞬にして瞳を輝かせ「聞いてくれるか!」と期待の色を見せた。

 言わずもがなこれは壮大な惚気話の開幕スイッチだ。待ってましたと言わんばかりの表情は見ているだけでうんざりしてしまう。

 だがそれを分かっていても俺が話しかけたのは、携帯電話で何かを打とうとしていた宗佐の手を止める為である。俺の思惑通り宗佐は話し相手を見つけたと携帯電話を鞄に戻し、強引に肩を組んできた。

 これから語られる惚気話のために逃がすまいとしているのだろうか。


 馬鹿だな宗佐、逃げるわけないだろ……。


 そう心の中で呟いて、俺は肩を組まれたまま水族館の順路に習って歩き出した。

 壮大な惚気話だろうと、今までの思い出話だろうと、なんだって全部聞いてやるつもりだ。

 それが俺なりの宗佐への祝いであり、そしてなにより、一分一秒でも長く珊瑚に心の準備をさせてやるために……。



 ◆◆◆



「あ、返事来た」


 宗佐が呟いたのは帰りのはバスの中。

 さすがにここまでくると俺には引き留めることが出来ず、バスの中で宗佐は珊瑚へとメールを送っていた。――これでも俺は頑張って時間稼ぎをしたつもりだ。なにせあれからずっと、それこそ水族館を見て回ってバスに乗り込むまで、終始宗佐の惚気話を聞かされていたのだ。一年生の入学式から振り返って高校三年間、ちょっとした高校生活のダイジェストである――


 とにかく、そんな状態で宗佐がメールを送り、どうやら今この瞬間に返事が届いたらしい。

 それを察し、俺の脳裏に珊瑚の切なげな表情が蘇る。


『大丈夫ですよ。私、ちゃんと『おめでとう』って言えるから……』


 普段の生意気な口調とは打って変わって弱々しく、儚く消え入りそうな声。誰にも言えず想いを拗らせ続けていた辛さが伝わってくる。

 だがそれを宗佐に言えるわけがなく、俺は見せつけるように突き付けられた宗佐の携帯電話へと視線を向けた。

 画面に映し出された文字は……。


『月見先輩の優秀な遺伝子に申し訳ない』


 ……これは酷い。辛辣にも程がある。

 というか『おめでとう』はどこにいったのだろうか。


「相変わらずシビアな対応だな」

「遺伝子ってことは子供だろ? 結婚どころか子供の話なんて、珊瑚は気が早いなぁ」

「あ、駄目だ全然効いてない」


 そんな会話を交わしながら宗佐が再び携帯電話を弄る。

 そうして幾度目かの受信音を鳴らした後、画面に落とす目を嬉しそうに細めた。


 まるで誰かを見るように、画面越しに『大事な妹』を見つめるように……。

 穏やかで嬉しそうで、それでいて恋愛めいた色を感じさせない『兄らしい』その表情に、俺はようやく珊瑚が『おめでとう』と言えたのだと察した。


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