第17話 一つの『その時』

 



 辿り着いたそこは他のエリアよりも広く、薄暗い中にライトアップされた水槽が並んでいた。


 この日のために飾られた水槽の中を真っ赤な金魚が泳ぐ光景は幻想的で美しい。

 金魚も多様に集められており、定番の真っ赤で小柄なものからドレスのような鰭を優雅に翻すもの。水砲眼と呼ばれる一風変わった風貌の金魚も展示されており、種類は豊富だ。

 更には水槽のライトアップを目立たせるため他のエリアよりも暗くなっており、静かでいて趣のある和楽器の音楽がゆったりと流れている。

 特別展示と謳うだけあり、このエリアだけ隔離された別世界のような雰囲気が漂っている。


「あ、」


 と、小さく珊瑚が声をあげたのは、宗佐と月見の姿を見つけたからだ。

 メインであろう一際大きな水槽、その前に設けられた長椅子に二人が並んで座っている。

 だが珊瑚は近付いて声を掛けることはせず、近くにあった水槽の陰にさっと隠れてしまった。俺もまた彼女に続く。


 ここからでは宗佐達の声は聞こえないが、それでも話が盛り上がっているのは見ているだけで分かった。

 周囲の展示を指さしたり、話し込んだり、時には楽しそうに笑い合っている。傍目から見てもその姿はお似合いで、まさに二人の世界といった様子だ。


 だからこそ、それを眺める珊瑚の横顔に影がかかる。

 辛そうで、苦しそうで、その表情は今にも泣きだしそうで俺の胸をしめつける。


 頬を赤くさせ嬉しそうに話す宗佐の隣。今月見が座っているあの場所こそ、珊瑚が『妹』ではなく『芝浦珊瑚』として望み続けた場所だ。

 ほんの少し、数歩近付けば辿り着けるはずのこの距離は、彼女の目にはさぞや遠くもどかしく映っていることだろう。

 それが分かるからこそ、せめてこの場を離れようと声をかけようとし……、


「……ちょっと、覗いていきませんか?」


 俺を引き留めるような彼女の言葉に、「え?」と小さく声をあげた。

 珊瑚は悪戯っぽい笑みを浮かべている。目を細めて、口元は楽しそうに弧を描く。それでいてどこか辛そうで、無理に取り繕うとしているのが分かる。


 どれだけ望んでも叶わなかった光景。

 そしてこれから行われるであろうやりとり。


 今の珊瑚は目を背け耳を塞ぐだけでは足りず、本当は今すぐにでもここから逃げ出したいはずだ。

 だがそんな悲痛な思いを抱きつつも、その反面、彼女の中には『最後まで見届けたい』という気持ちもあるのだろう。

 誰よりも早く宗佐に恋心を抱き、誰よりも長く宗佐と共に居て、そして誰よりも宗佐を近くで見ていたから猶更。傷つくと分かっていても、最後の瞬間をこの目で見たいと考えているのだ。

 その葛藤の末にこの言葉を選んだというのなら、俺が異論を口にするのは野暮でしかない。


 だからこそ、俺もまた歪みかける表情をなんとか押さえて笑ってみせた。


「そうだな、ここまで振り回されたんだから、最後まで見届けてやらないとな」

「少し覗くだけですもん、後から言われても知らんぷりすればバレませんよ」


 悪戯っぽく珊瑚が笑う。

 それに応えるように、俺もまた意地の悪い、まるで悪巧みをするような笑みを浮かべた。……多分、そんな笑みを浮かべられていたと思う。



◆◆◆



 宗佐と月見には気付かれないであろうギリギリの場所まで近付き、水槽の影から二人の様子を窺う。一つ水槽を挟んだ場所、ここからでもやはり二人の声は聞こえない。

 たとえば誰も来ない静かな校舎裏であれば声が届いたかもしれないが、生憎とここは水族館の、それも特別展示場だ。そのうえ、今から何か始まるのか徐々に人が増え始めている。騒がしいのも仕方ない。

 だが告白するにしては些か人が多すぎるようにも思え、どうするのかと宗佐へと視線を向けた。


「宗にぃ、まだ言ってないみたいですね」

「あぁ、ここじゃ落ち着かないから、もしかしたら……」


 移動するかもしれない、そう言い掛け、俺と珊瑚が揃えたように息を呑んだ。


 何かを話していた宗佐が意を決したかのように真剣な表情に切り替え、改めるように月見に向き直ったのだ。距離を置いたこの場所からでも意気込みが伝わってくる。

 対して月見もまた何かを察したのだろう、ほんの少し背筋を正して正面から宗佐を見つめ返している。

 二人の顔は薄暗い中でも分かるほど真っ赤で、宗佐の手が月見の手を強く握っているのが見えた。


 まさに、『その時』を予感させる空気。


 だがそのまま宗佐が硬直状態で止まってしまうのは、いざ告白すると決意するや途端に緊張が勝ってしまったからだろう。

 宗佐を見ても月見の反応を見ても、明確な言葉がいまだ発せられていないのが分かる。


 なんて焦れる。

 見ているだけの俺でさえ息苦しさを覚える。


 そんな緊張感を十秒ほど続け、さすがに宗佐も覚悟を決めたのか、改めるように月見を見つめておもむろに何かを言おうとした。


 ……だが次の瞬間、


 一瞬にして赤い照明が会場内を染め、華やかな音楽が響きわたった。

 それと同時に沸き上がった歓声に、俺は虚を突かれて周囲を見回した。


「な、なんだ!?」


 先ほどまで薄暗かった空間が真っ赤に染まり、色とりどりの花が咲き誇り花びらが舞い上がる。もちろん全て壁に映された映像でしかなく、これが演出なのは言うまでもない。

 周囲の観客も楽しそうにそれらを眺め、とりわけ壁に巨大な金魚のシルエットが映り四方を泳ぎ回ると歓声は大きくなった。


 いったい何だと慌ててパンフレットを取り出して調べれば、これは定期的に行われる映像演出のようだ。

 説明を読んでいる間にも映像は止まり、音楽が薄れるとあっという間に元の展示場へと戻っていった。時間にすればたった数分、三分にも満たない程度のものだ。


 だからこそ、どうしてこのタイミングで……、と恨むように溜息を吐き、展示場を出て行く客達を眺めた。


 出鼻を挫かれるとはまさにこの事。

 これほど致命的にタイミングを損なっては、再び告白に挑むのは難しいだろう。


「なんだ、やっぱり今回も……」


 今回も駄目だったか。そう溜息交じりに苦笑しながら珊瑚に話しかけようとし……、

 彼女の横顔に出かけた言葉を飲み込んだ。


 悲しそうに細められた目は、それでも正面をじっと見据えている。小さく開かれた唇からは消えそうなほどか細い声が漏れた。

「宗にぃ……」と。

 その声を聞き、彼女に見入っていた俺はすぐさま前方の二人へと向き直った。


 客達が移動していく中、宗佐と月見はいまだ長椅子に座っている。二人の位置は何も変わっていない。

 だが先程まで緊張を隠しきれずにいた宗佐は今は表情を緩め、頬を赤くさせながら頭を掻いている。

 そんな宗佐の隣に座る月見は……、泣いていた。

 堪えきれないと言いたげに何度も目元を拭う。だがその表情は嬉しそうで、宗佐が何かを言うたびに深く頷いているのがここからでも見える。



 二人の様子から察することなどただ一つ。


 あの瞬間、まるで宗佐の告白を掻き消すように音楽と歓声があがった。

 

 ……だけど、宗佐の言葉は月見にはちゃんと届いていたのだ。



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