第3話 旅行の準備

 


 声のする方へと視線を向ければ、そこに居たのは珊瑚だ。

 去年まで窓辺に立っていた彼女が教室内にいるのはなんだか不思議な光景に見える。

 クラスメイトの女子生徒が「何度も呼んだのに」と俺達に文句を言って去っていく。珊瑚が彼女に対して軽く頭を下げるのは、教室に来たはいいが中に入るのは躊躇われ、そこを彼女に声を掛けられて案内されたのだろう。

 察した宗佐が慌てて珊瑚に謝罪し、女子生徒にも遠目ながらに感謝を告げた。


「珊瑚、なにかあったのか?」

「お弁当のお箸、宗にぃのも入ってたから」


 持ってきたよ、と珊瑚が宗佐の机に青色の箸箱を置く。

 普段宗佐が使っているもので、俺も見覚えがある。それを見た宗佐が慌てて鞄を漁り「あ、本当だ」と間の抜けた声をあげた。

 どうやら箸箱が入っていないことに今気付いたようだ。


 普段、芝浦兄妹の弁当は別々に作られている。宗佐の分は新芝浦邸で母親が、珊瑚の分は旧芝浦邸で祖母が。

 だが量を多く作ったり朝方に用事があったりと、どちらかが二人分をまとめて作ることは珍しくない。そしてそういった時、おばさん――宗佐と珊瑚の母――は箸箱やらソースを入れ忘れたりするのだ。

 もちろん毎度ではないのだが、かといって極まれとも言える頻度でもない。元々が月に数度あるか無いかなので体感では毎度のように感じられるが。

 そのたびに、俺は温和でおっとりとしたおばさんの事を思い出しながら「宗佐のドジは遺伝か」とだいぶ失礼なことを心の中で考えていた。


「わざわざ持ってきてくれたのか、ごめんな」


 宗佐が詫びつつ、机に置かれた箸箱を弁当の入っている袋にしまう。

 それに対して珊瑚が肩を竦めて返した。兄の世話をするのは今に始まったことではない、とでも言いたげだ。


「良いの。移動教室のついでだから。……それで、旅行の話なんですけど」


 次いで珊瑚が俺達に視線を向け、小首を傾げると「行きますか?」と尋ねてきた。

 その仕草に、声に、俺はおやと疑問を抱いた。

 心なしか彼女の表情と声に覇気がないように思える。どこかぼんやりとしているような、少し虚ろとさえ言える様子だ。

 といっても具合が悪いだの今にも倒れそうだのと言ったものではない。俺自身「どうしてそう見えるのか」と問われれば返答に困るだろう。


 ただ、なんとなく様子がおかしい。その程度だ。

 だけどそんな些細な疑問であっても一度胸に沸くとしつこく残る。

 他でもない、珊瑚の事だから猶更。


「おい、妹。どうした?」

「健吾先輩の妹じゃありませんし、どうもしてないですよ。……でも、皆さん行きたいのなら聞いてみますね」


 気丈に振る舞いたいのだろうが、定番の返しもどことなく声色が沈んでいる。次いで彼女はスカートのポケットから携帯電話を取り出すと、ここでは煩くて話が出来ないからと教室の隅へと向かい電話をかけだした。

 どこに電話を掛けたのかも分からなければ、誰と話しているのかも、何の話をしているのかもここからでは聞こえない。

 ただ唯一事情を知る宗佐だけは、眉尻を下げ珊瑚を見つめながら「みんなが来てくれた方が良いかもな」と独り言のように呟いていた。


 珊瑚の様子も、それを見る宗佐の様子もおかしい。

 家族旅行ではないのは分かっているが、さりとて仲の良い兄妹二人旅という雰囲気でもない。

 だがそれを宗佐に問うより先に、通話を終えた珊瑚が戻ってきた。


「もう一部屋、用意してくれるって言ってました」

「……本当に大丈夫なのか?」


 何をどう聞いていいのか分からず漠然と問えば、珊瑚はコクリと一度頷いて返してきた。

 その様子もまたどこかおかしい。元気がない。

 普段の彼女ならば漠然と尋ねてくる俺に対して「健吾先輩の方がおかしいですよ」とでも言い返して笑っただろう。いや、そもそもこの旅行だって「新婚旅行とも取れる二人っきりの旅を邪魔しないでください!」くらい言って寄越しそうなものだ。

 だというのにやはり彼女はどこかボンヤリとしたまま、それでも時計を見上げるとそろそろ行かなくてはと話を終いにした。


 何かおかしい。

 でも、それをどう聞けば良い……?


 そう俺が言い淀んでいる間にも、珊瑚が一度頭を下げて教室を去っていく。

 その背をもどかしい思いで見送れば、今度は宗佐が小さく溜息を吐いた。



 ◆◆◆



「それで、明日から旅行に行くの?」


 驚いたと言いたげに尋ねてくるのは、義理の姉――早苗さん。それに頷いて返しながら荷物をまとめる。


 夕食中、宗佐から一泊旅行に関してのメールが送られてきた。

 といっても内容はシンプルで、出発時間と待ち合わせ場所、宿泊先、それに宿泊費や宿での食事代は不要であること。

 それらが手短に綴られ、最後に添えられていたのは、


『急で申し訳ないけど、出来れば皆に来てほしい』


 という一文。

 これは珊瑚の心情を代弁したものなのか、それとも珊瑚を想う兄としての願いなのか。

 そのどちらなのかは分からない。だがなんであれ俺に断る理由はないと手早く了承のメールを返しておいた。


 幸い、明日から連休とはいえ予定はない。月見も同様らしく、桐生先輩は今日と明日が『履修登録期間』とやらで登校する必要はないという。

 つまり全員がこの旅行に同行可能ということだ。

 元々二人だけの旅行に三人追加となれば、この急な話を早苗さんが不思議に思うのも無理はない。


「いくら大型連休前とはいえ、観光地で桜が見られる季節でしょ。それに大人ならまだしも、子供が連絡して翌日の部屋を追加できるって、知り合いの宿かしら?」

「かもしれないけど、とりあえず俺としては素泊まりでも行けるなら良いよ」

「……健吾君、あなたさては明後日デパートの屋上でヒーローショーがあるのを知ってたわね」

「まさかそんな、俺に子守を押しつけて早苗さんと母さんが婦人服バーゲンに行こうと企ててるなんて思ってもない」

「お義母かあさん大変! 情報漏洩よ!」


 計画が! と悲鳴じみた声をあげて早苗さんが母さんのもとへと走っていく。

 危なかった。今回の件を「珊瑚の様子がおかしいから俺達は……」だの「せっかくの兄妹旅行なんだし外野は……」だのと遠慮していたら、明後日はデパートの屋上でヒーローの活躍を眺めることになっていた。

 母さんと早苗さんには申し訳ないが、今回は諦めてもらおう。

 ……もしくは、弟の健弥が犠牲になるか。大丈夫、いつも行くデパートのイベントでは中学生から同伴者として認められる。


 そんなことを考えながら一泊分の荷物を鞄に詰め込む。

 聞けば宿には浴衣があり温泉にはシャンプーなんかも揃っているという。となれば男の俺に用意するものはさしてない。

 鞄もさほど大きくなく、普段使う鞄より少し大きい程度。これが旅行の荷物なのかと我ながら思ってしまうほどだ。


 ……もっとも、それも通常の男子高校生の話にすぎない。

 敷島家では、荷造りを終えたはずの鞄から更に荷物が減る。


「……なんで男子高校生が温泉旅行にヒーローの変身ベルトを持って行くんだよ」


 と、いつのまにやら鞄の中に入っていた変身ベルトを取り出す。それと同時に転がってくるのは手のひらサイズのボール。

 もしやと思って再度荷物を出してみれば、出るわ出るわ旅行にはいっさい関係のない子供用玩具。そのうえ、本来入れたはずのものが無いときた。

 いったいどうして携帯電話の充電器を入れたはずなのにハンディ深海魚図鑑にすり替わっているのか。俺は温泉に浸かってなにを学ぶんだ。

 この家では旅行の準備もままならないことを改めて思い知り、俺は盛大に溜息を吐くと、


「バカ双子! 俺の充電器どこにやった!」


 そう声を荒らげながら、犯人双子が遊んでいるであろうリビングへと向かった。



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