ぼくらはきっと呼吸をやめない

十一

お金じゃ買えないものがある

「お金じゃ買えないものはない」

 常喜じょうぎ先輩はいつだって唐突。

 放課後の視聴覚室には私たち以外まだ誰も来ていない。独り言のように無造作に投げ出された言葉は、間違いなく私に向けられたもの。けれど、たとえ他の部員がいたって先輩は変わらない。前置きもなくいきなり本題を切り出してくる。誰を相手にしてもそうなのに、「えっ?」と聞き返されているのを見たことがない。声質なのか、話し方なのか、それともタイミングなのか。不思議と聞く者の耳にしっかり届く。


 先輩の主張するその内容は、するりと頭に入りこんで来た。だからこそ私は、スマートフォンの液晶から顔をあげ、反射的に異議を唱えていた。

「そんなことはありません。お金で買えないものはあります」


 窓際の席に座った先輩の表情は逆光でよく見えなかった。それでも、ほんの一瞬、空気が揺らぐのを感じた。

 驚いた?


 部活の一環として、こういう会話をすることがある。ちょっとしたゲームみたいのもの。先輩だって「お金で買えないものがない」と本気で信じてはいない。そのはず。反論を期待して議論のきっかけを作っただけ。

 だから、私が異を唱えるのは予測できただろうに。 


「たとえば?」

 あまりにも素朴な問いは普段通りの先輩のものだった。

 だからだ。

「愛とか」

 思わずそう言ってしまったのは。

 違和感のあったあの雰囲気を引きずっていたら、こんなこと口走らなかった。たしかに、それは本心。でも臆面もなく言い放っていい台詞じゃないでしょ。頬が熱い。


 ふっ、と先輩が息を漏らす。

 笑った? まさか。失笑という感じではなく、けれど明確にため息と呼べるほど長くもない。ささやかな音となって溢れたその感情がどんなものなのか、私にはわからなかった。

 やっぱり、今日の先輩はなんか変。大まじめに「愛」なんて言われて戸惑うなってのが無理な話かもしれない。でも、どんな詭弁だって笑わず受け止めてくれるのが先輩じゃ。このくらいのことに反応するのはらしくない。


○○まるまるなものは存在しないという命題が偽だと証明するのは簡単だ。○○なものを挙げればよい。つまり、お金で買えないものはないに対してはお金で買えるものを、だ」

 至極当たり前のことを指摘されれば肯くしかない。

「ここで考えて欲しいのは。お金で買うという行為だ。金銭で購入するためには、それが存在していなければならない。ないものは買えない」


 先輩がどういう方向に持って行こうとしているのか理解した。それでも私は無駄な抵抗を試みる。

「先物取引なんか現物がないのにお金だけ動いているじゃないですか」


「それは現時点で存在しなくとも、将来的に作られると確約されているだろ。いわば引換券を買っているようなものだ。権利の売買を行っているわけで、そしてその権利は存在している。だから、ないものは買えないの例外たり得ない」

 そう語る先輩は落ち着いて、おかしなところはない。さっきのあれはなんだったのか。私の勘違い?


「要するに、お金で買えないものはないには、この世に存在するものでという前提が隠れているわけだ。ないものを購入できると仮定したら『お金で買えないものはないを否定する論』を買えることになってしまうからな。むろん、両者が同時に成り立つことはないからその仮定は間違っている」


「先輩が言いたいことは、こうですね」もう、先回りしてしまう。「お金で買えないものとして愛をあげた私は、愛の存在を証明しないといけないと」

「そいういうわけだ」

 静かに首肯する先輩の声はかえって無慈悲に響いた。

 半年つきあった彼氏にフラれたばかりの私に愛を証明しろっていうの?

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