行水
さてと。
同じ年の頃の少女らよりも背が低い少女、毬も《まりも》は二の腕を擦りあげて気合を入れた。
両腕を広げるほどの大きさで、底に拳を当てて肘窩までの深さがある桶に半分入っている水を、竹筒の中にすべて注がなければいけないのだ。
その際、一滴も溢してはならない。
なぜなら、この水は穢れているから。
九月九日。重陽の節句。
年に一回、大物の妖怪らと対峙した陰陽師らの狩衣を洗う大行事がある。
大抵毎年、一着から三着。
妖怪を調服、もしくは取り逃がしたとしても、狩衣はその日の内に封印して、この日まで厳重に保管。
そして集めた菊の朝露で洗浄。するのだが。
大物の妖怪の妖気は菊の朝露を以てしても、すべてを浄化できない。
だからこそ、名誉ある洗い手は、道々七つの植物の力を借りて、徐々に浄化してもらい、最終地点の白菊湖にて流すのだ。
毬もの歩行速度で、およそ半日で辿り着く予定であった。
さてと。
慎重に桶の水を一滴たりとも溢さず竹筒に注ぎ終えた毬もはまた、二の腕を擦りあげては竹筒を抱えて、桶を託した師匠にお辞儀をして、門を出た。
すべてを終えるまでは口を開いてはいけないので、七つの植物たちには真心を込めて頭を下げ、力を借りるのである。
銀のおばな。
桃のなでしこ。
白のふじばかま。
赤紫のはぎ。
青紫のくず。
黄のおみなえし。
紫のききょう。
七つの植物の力を無事に借りられた毬もは今、漆黒の空と純白の湖の狭間に立っていた。
二色の世界がもたらす荘厳さに、思わず感嘆の溜息が漏れそうになるのを慌てて口を閉ざして封じ、竹筒を白菊湖に流し始めた。
努めて焦らないように。
竹筒から流された水は、力を借りた植物の色の泡を立てながら、純白の湖に沈んでいく。
最期の仕上げに、竹筒も湖に沈めて、静かに合唱。
泡音に最期まで耳を傾けてから、踵を返した。
稀代の陰陽師の多くは、この洗い子に選ばれていたと云うが。
さてさて、毬もはどのような陰陽師になるのであろうか。
(2021.9.9)
「行水の捨所なし虫の声」(上島鬼貫)
「美しい声で鳴く虫たちを思うと、行水で使った湯を捨てる場所がないよ」
【参考文献 : 新総合図説国語 改訂新版 東京書籍株式会社(高校の時に使っていた教科書)】
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます