雨上がりはコーヒーと共に
ねこせんせい
1話完結
外ではしとしとと小雨が降っている。
雨に濡れているのに、楽しそうに小走りで駆けていく学生。鞄を傘代わりに髪を濡らさないようにする会社員。そして。
カランカラン……
カウンターが3席にテーブル席が2つしかないとても小さな喫茶店に、来客を告げる鐘が鳴る。私はこの古ぼけた喫茶店で本を読んで時間を潰している。
カウンター席の椅子が引かれて、ドサっと座る音と同時に男の声がコーヒーを1つ注文した。それを聞いて頷いたマスターがサイフォンを温め始め、徐々にコポコポという音と共に店内にコーヒーの匂いが満ちていく。
私は店の奥のテーブル席でカウンターを背にするように座っているため、どんな人が店内に入って来たのかは分からなかった。その人は意外そうな声でマスターに話しかける。
「今時珍しいね、禁煙じゃない店なんてさ」
「灰皿をお使いになりますか?」
「このご時世世間の目が厳しいからね、俺はもうすっぱり止めた派だよ」
ハハハと笑って男は椅子の背もたれに身を委ねたのか、木がギシリと軋む音が聞こえた。
その話を背中から聞いていた私は、感じるはずのない煙草の匂いが鼻腔を刺すのを感じた。その匂いをかき消す様にコーヒーを口に含み、味を堪能してまた本に目を落とす。しかし私は先ほどまでとは違い、本に目を通しているが内容は頭に入ってこなかった。
私はまだ、この匂いを忘れられずにいるのね。
私は自嘲気味に鼻を鳴らして本を閉じる。視線を窓の外へ向けると、雨は先ほどよりも強くなっていた。強くなっているとはいえ、本降りには程遠い雨足である。
ガラスに当たる雨粒を見ていると、あの日の事を思い出す。
あの時も小雨が段々と強くなり、彼は逃げるようにしてこの店へと入ってきた。
「おや、珍しい時間帯に来ましたね」
マスターは意外そうな声を上げているが、注文も聞かずにコーヒーの準備をする。常連客の1人なのだろう。
その日も私は奥のテーブル席で、カウンターに背を向けて座っていた。この喫茶店に私以外にも常連がいるとは思いもしなかったので、少々興味が湧いて後ろを振り返った。その時私は彼と目が合った。
彼は優男風で、すらりと伸びた白い指がタオルで優しく髪を拭いていた。彼はにこりと笑いかけてこちらに会釈する、私も釣られて小さく頭を下げると、彼はカウンター席から離れ、私とは対面の席に腰掛けた。
「始めまして、貴女もこのお店の常連さんですか?」
彼の急で少々不躾な行動に驚きながらも、本を閉じて真っ直ぐに相手を見て対応する。
「どうしてそう思ったんですか?」
私は質問を質問で返す。
「マスターはね、常連さんのカップには赤く薄い線の入ったカップを出してるんだ、知らないよね、マスターってばそういう所に茶目っ気があるからさ」
「とは言え、常連客は貴方達2人だけなんですけどね」
そう言ってマスターは、彼のための赤く薄い線の入ったコーヒーカップと、私のおかわりのためのコーヒーを運んできた。
私はまだ彼のことを訝しんでいたが、彼は楽しそうにニコニコと笑いながらこちらを見ている。非常に邪魔くさい。
「あの、私に何か御用ですか?」
「自分以外にこの喫茶店に常連さんが居たなんてビックリしてね、つい気になっちゃったのさ。所で今読んでる本は一体なんて本なのかな?」
彼はどうあっても私と話がしたいらしい。私としては静かに本を読んでいたいのだが、彼の言葉では無いが同じ常連客のよしみとして、話し相手になることにした。
「なんて事のない小説です、いつも通りにここでコーヒーを飲みながら暇潰しに読書に来ました」
そう言って私は本に栞を挟み、先程マスターが注いでくれたコーヒーに口をつける。
「僕もちょくちょくこの店のコーヒーを飲みに来るんだけどね、いつも通りってことは静かに本を読みたいって所かな」
分かっているなら彼は何故私に話しかけるのだ。
「その目は分かってるならさっさとどこか行けって感じだね。でもまぁいつもは本を読むのなら、たまには誰かと話すってのもマンネリ化しなくて良いんじゃないかな」
彼は楽しそうにニコニコ笑っているくせに、意外と強引に話を進めてくる。話し相手になると決めたのだ、少しの我慢と思って付き合おうと腹に決めた。
「私の方も自分以外にこの店を贔屓にしている人なんて初めてです。マスターには失礼ですが、貴方も変わり者なんですか?」
「マスター、苦笑いしてるよ。まぁ僕はこれが目的かな」
そう言って彼は胸ポケットからタバコの箱を取り出した。
彼のことを何も知らないのにこう言うのも何だが、意外な理由だなと思った。優男風の彼が好むような嗜好品には思えなかったのだ。
「今時分、煙草の吸えるお店なんて限られてくるからね。マスターの美味しいコーヒーと煙草、幸せな一時だよね」
彼はそういうと煙草を1本箱から取り出し私に見せてニコッと笑う。吸ってもいいのかどうか尋ねているのだろう、私は黙ってコクリと頷いた。私は煙草にこれといった偏見もないので、勝手にどうぞと言ったところだ。
彼が煙草の煙を燻らせると副流煙が私の鼻腔を突く、ここ最近は煙草を吸う人がいなくなってきたため、余り馴染みのない匂いではあったが嫌いな匂いではなかった。
「メンソール、というやつですか」
「そそ、思い出の匂いというか、別にこの匂いに何の思い出があるわけじゃないから、思い入れがあるとでも言ったほうがいいのかな?」
私は込み入った話に首を突っ込みたくはないと思い、気にした風もなくまたコーヒーに口をつける。
「君は優しい人なんだね」
彼はニコニコしながら煙をあさっての方向に吐き出す。
「もしこの話が分かれた彼女が吸っていた煙草だとか言われても困るだけなので」
頬杖をついて首を傾げながら話をしていた彼が小さく笑った。彼の笑顔は色々あって見る人を飽きさせないものがあった。
「おや、雨が上がってきた。僕は雨宿りが終わったからそろそろ帰るけど、君は次いつこの喫茶店に来る?」
「ナンパですか?」
「常連さん同士の交流だよ」
彼の屈託のない笑顔に私は溜息を吐き、半ば諦めて本を鞄に仕舞いながら彼に自分のルーティーンを教える。
「私は雨が降った日にここに本を読みに来るんです。貴方がどういう基準でここに来る常連客かは知りませんが、雨宿りに飛び込むくらいです、多分今後会うこともないでしょう」
彼は煙草の火を消して、天を仰いでうーんと考え込んでいる。嫌な予感がする。
「じゃあ待ち合わせをしよう。雨の日に僕はここに煙草を吸いに来る。君は本を読みに来る。たまたま偶然2人は出会うんだ。なかなかロマンチックだろう?」
自分で決めたルールに人を乗っけておいてロマンティックも何もあったもんじゃない。
「それじゃあマスター、私は帰りますので。貴方ももし機会があったら会いましょうね、常連さん」
そう言って私はカランカランと鈴を鳴らし、雨雲の晴れた空の下家路についた。
あれから2週間、私はあの時の約束など記憶の片隅にもなく、時雨模様の空を眺めて今日は喫茶店にでも行こうかと考えていた。この天気だと傘を持つかどうか悩ましかったので、折り畳み傘と買ったばかりの新刊を鞄に入れて喫茶店へと向かった。
いつもの鈴を鳴らして店へ入るとマスターの人の良さを携えた笑みが私を迎えてくれる。それと同時にマスターはサイフォンを温め始める。
そして私は定位置に陣取ろうとした。そしてそこで怪訝な顔をしてしまう。
「やぁお嬢さん、相席しませんか?」
「すっかり忘れてたわ……本当に来るとは思わなかったわ」
「出会うはずのない2人が出会う、やっぱりロマンチックでしょ?」
わざわざ席を離れるのも億劫なので、私は彼の対面である定位置に腰を下ろす。鞄の中から真新しいカバーのかかった本を取り出して、軽い溜息を吐きながら本に目を落とす。
少ししてからマスターがコーヒーを運んでくる。マスターは苦笑いしながら私に話しかけてきた。
「彼、貴女が来るまでコーヒー1杯も飲まずに待っていたんです、少し話し相手になってあげてください」
そう言ってマスターは私達の前にお揃いのコーヒーカップを並べる。
私は本から目を離しコーヒーを口に含む。彼もそれをみてどこか嬉しそうにコーヒーを飲み始めた。
「呆れた、本当に来るかどうか分からない、しかも自分から勝手にした口約束を信じてここに来たのね」
彼は煙草のケースをトントンと叩き、1本の煙草を取り出して徐に吸い始める。
「やっぱりマスターのコーヒーと煙草は最高の相性だね。ね、マスター」
「私は煙草を吸わないものでして分かりかねますが、褒めていただきありがとうございます」
人が話しかけているのに彼は私の頭ごしにマスターと会話し始めた、こいつは一体何なんだ。私が先ほど閉じた本をまた開こうとすると、彼は測ったかのように私に話しかけてくる。
「今度の本はどんな本なんだい?」
私は開きかけた本の表紙を彼に見せる。恐らく聞いたことのない表題だろうし、彼には何の興味もないだろう。
「あぁ、由良先生の新刊か、相変わらず遅筆だけど発売していたんだね」
私は驚いた。彼のいう由良という作家は発行部数は少ないものの、綺麗な文章を書くのでいつも心待ちにしている作者だった。マイナーな作者なため、いつも訪ねる変わった書籍を取り扱う本屋にしかおいていないのだ。少々虚を突かれた私は思わず前のめりになってしまった。そして彼はすぐにネタばらしをする。
「これ、この間君が読んでた本だよね。面白いから一気に読んじゃったよ」
「よく由良先生の本を見つけましたね、ネタは面白くありませんが本を見つけた事には驚きました」
彼は煙草を咥えたままテーブルの影から私が前に来たときに読んでいた本を取り出したのだ。
「あ、やっぱりこの本ってレアものなんだね。もうここら中の本屋を探し回って疲れちゃったよ。でもそれに見合うだけの面白い本だね、特に文章が綺麗でどんどん本の世界観に惹き込まれていく。結局全巻買って見終わっちゃったよ」
彼は満足げな笑みを浮かべると、まるでたった今本を探してきたかのように一息ついて、まだ熱が篭っているコーヒーを小さく啜った。
綺麗な文章、彼にもそういう風に感じたのか。私はその小さな一言で彼にほんの気持ちばかりの興味を抱いた。
「面白くて一気に読みたくなるのは同感ですが、私としては言葉を噛み締めながらゆっくり読むことをお勧めしますよ。由良先生の心の情緒が伝わってくる気がします」
私がそういうと、彼は嬉しそうにニコニコとこちらに笑みを向けてくる。眩しい。
「初めて君の方から能動的な言葉が聞けた。やっぱり町中探し回って正解だったよ」
「……マスター、コーヒーのお代わりをお願いします」
私は少し気恥ずかしく感じて、まだ半分以上残っているコーヒーをグッと飲み干し、ぶっきらぼうにマスターにコーヒーを注文した。コーヒーを持ってくるマスターの顔も、何となくいつもより柔らかいような気がした。気がしただけのはずだ。
「新刊、読み終わったら僕にも読ませてくれないかな?」
「貴方もう由良先生の本が売っている店知っているんですよね、自分で買った方がいいんじゃないですか?」
私は不思議に思い、素直に疑問を投げかける。
「こういうのは手間がかかったほうがいいんだよ。ほら、君から本を借りればまた君に会う口実が生まれる。ロマンチックだろ?」
私は呆れるように嘆息をつく。
「貴方は随分とロマンチストなんですね、私はリアリストなのでよく分かりませんが」
それを聞いた彼が、ニンマリとした笑みを浮かべて私の顔の前で指を横に振り、チッチッチと舌を鳴らす。
「由良先生の本を好きな人がロマンチストじゃないとは言わせないよ。まぁリアリストという点は僕の知らない君がいるだろうから、否定はしないけどね」
「……確かに由良先生の世界観は夢に溢れています。それは私が持っていない世界を覗くことが出来るから好きなのであって、私はロマンチストにはなれないんです」
「自分にない世界を諦めきれないのなら、君はやっぱりロマンスを持っていると思うけどね」
彼はそう言ってコーヒーを一口啜る。何となくその仕草とさっきの言葉が、人生の先輩からの助言かのようで、心穏やかになるのを感じる。それと同時にこの人に諭されて少しムッとしてしまった。
どうもこの人と話していると、自分のペースが乱れてしまう。何か話題を転換しないとと思った私は、彼の手元にある煙草が目に入った。
「煙草、そんなに多くは吸わないんですね」
「あぁ、これはね、この店でマスターのコーヒーを飲むときにしか吸わないんだ。君の小説と同じだよ。じゃあ話にも上がったし、1本頂こうかな」
彼はこの喫茶店の店名が入ったマッチ箱を開け、慣れた手つきでマッチを1本擦る。
リンの燃える匂いもまた、ここのコーヒーを引き立てるように、鼻腔の奧で何かをくすぐった。
彼がゆったりと紫煙を燻らすと、前と同じように副流煙を私にかけまいと横を向いて煙を吐き出す。
「煙草、別に好きではないんですね」
「そうだね、むしろ苦手だったくらいだよ。まぁ今でも好きではないかな」
「そうなんですか」
私は彼の煙草のことについて、何か踏み込みにくい何かを感じていた。つい話題を探して煙草のことに触れてしまったが、失敗だったと頭の中で小さく反省する。
「君は本当に優しいね」
「嫌な予感がするだけです」
私は入れ直してもらったコーヒーを口に含んで、目を逸らす。
「優しいだけじゃなくて、勘もいいとは驚いた。実はこれね、昔付き合ってた彼女が吸ってた煙草なんだ」
彼はこちらに含みを持たせた笑みを寄越す。
「嘘つきは嫌いです」
彼は苦笑いしながら、吸いかけの煙草を灰皿に押し付けて、暫くひしゃげた煙草に目を落としていた。
「ま、遺品みたいなものさ……これは嘘だと思う?」
「答えに困る真実を混ぜるのも嫌いです」
「君は驚くほど勘がいいなぁ」
彼は鞄に煙草をしまうと、窓の外に目を向けた。それに釣られて私も外を見ると、いつの間にか雨は上がっていた。
「この続きはまた雨が降った時にでもしようか」
そう言って彼はスッと立ち上がり勘定を済まそうとする。そんな彼を見ていると、何か心が締め付けられるような感覚に襲われる。
「あのっ!」
私はつい声を出して呼び止めてしまった。どうしよう、何を言えばいいんだろうか。
「新刊……お貸しします」
彼は心底驚いた風にこちらを見つめる。気まずいが口に出してしまったものはしょうがない。
「私はロマンチストではないですが、貴方の口から嫌な気持ちを吐き出させてしまったことが、気になってしょうがありません。ですのでまた雨の日、この本を持ってここに来てください」
彼はその言葉を聞くと、とても深い優しさを携えた笑みで、本をそっと受け取るとそれを鞄の中に仕舞い込んだ。それじゃあまた、と一言添えて入口の鈴を鳴らして出て行った。
何となくだけど、こうしないと彼はもうここには来ないような気がした。約束、守ってくれるだろうか。
私も勘定を済ませて外に出る。雨はあがっていたが、どこかどんよりとした雲が空を覆っていた。私は足早に帰路についたが、この曇天のような深いため息を吐くよりなかった。
このところぐずついた天気が続くが、雨を降らすまでは行かない天気が続いていた。この天気は自分の心を移した鏡のようだ。
寝起きの私の髪は湿気でボサボサになっており、軽く手櫛で解かしてベッドに腰掛ける。そして私は何日も心に住んでいるモヤモヤした気持ちに手を置くが、その気持ちが解かれることはなかった。
たった2回しか会ったことのない人に、しかも雨の降っている間しか話したことのない人に、私は不快な思いをさせてしまったかもしれない。
考えすぎ。そう思ってしまえばそれまでなのだが、彼の笑みの中に物憂げなものを感じていた。それに踏み込んでしまった私は、自分の手でこの気持ちを解決したかった。
自分で蒔いた種は自分で刈り取る……いや違う、私は彼を救いたいのかも知れない。
私の世界は本の中にしかなかった。リアリスト、とこの間彼に言ったが、私の現実は他人から見たら惨めなものだ。現実の私は何にも馴染めず、1人本の中の空想世界に逃げることしか出来ない弱い人間だ。
あの喫茶店は、私が現実と空想の境目に居れる数少ない場所で、あそこで本を読むことが今を生きている私の中で唯一の楽しみと言っても過言ではない。
そんな私の唯一現実と繋がれる空間に、土足で踏み込んでくる人がいた。
でもその人は、踏んではいけない場所を踏まないように優しく入り込んできた。
そんな人を傷つけてしまったかも知れないと思うと、普段心を足蹴にされている私には耐えられなかった。だからその人が笑ってくれなくなるかもと思うと、胸が締め付けられる。保身かも知れない、でもその人には笑っていて欲しかった、それが私の我儘だったとしても。
空は携えていた雲の中から、大粒の雨を降らし始めた。今外に出たら傘が何の役にも立たず、びしょ濡れになることは確実だった。でも私は折り畳み傘を大きく開き喫茶店まで走り出した。
私が喫茶店についた時には、雨なのか汗なのか分からない状態でずぶ濡れだった。驚いたマスターは急いで店の奥からタオルを出してくれた。それを受け取って髪を拭くと、鼻腔にあの匂いを感じた。
彼は私がいつも座っている席の対面に座って煙草を吹かしていた。
「流石にこの天気だともう来ないかと思ってたよ。取り敢えず髪を拭いて、温かいコーヒーを飲もうか」
彼はそう言って立ち上がると、椅子まで私の手を引いてくれる。その手の温もりに冷えた頬が熱を帯びる。
「貴方はそうやっていつも簡単に女性の手を気軽に取るんですか?」
彼はふふっと笑って私を椅子に座らせた。
「今日は一言目から食ってかかるね」
そう言って彼は対面に座る。
今日はこの間の失態を取り返すために来たのに、早くも目的とは違う方向に進んでしまった。私のコミュニケーション能力が嫌になる。つい恥ずかしくなり俯いてしまった。
今の私は現実と空想の境目の現実側に足を踏み入れている、それが私にとってどんなに勇気のいることか、彼には分からないだろう。
「今日の君は何か覚悟を決めてきた、っていう顔をしてるね」
前言撤回、彼は既に何か察しているようだった。これは腹を括って話すしかないのかも知れない。
勇気を出せ、私。
「私はその……所謂不登校児で、と言っても大学生なので単に自主的に休んでるだけなのですが、所謂虐めにあってるんです。だからせめて自分だけは誰かを傷つけるようなことはしないように、と思っています。いました。でも私はこの間貴方の踏み込んではいけない所に足を踏み入れてしまって、貴方に不快な思いをさせていないかと……」
私は勢いよく顔を上げると、肝心の彼はニコニコ笑って私の話を聞いていた。それは私の境遇を憐れんでとか、話を聞いていないで単にニコニコしているだけでなく、母親に頭を撫でられながら話を聞いてもらっている、そんな気分にさせる笑みだった。
「大丈夫、君の優しさは十分伝わっているよ。だからそんなに悲しい涙は流さないでいいよ」
私は知らないうちに涙を流していたらしい。この間の失態といい、ここ最近は心が動かされっぱなしだ。
「そうだね、君を悲しませてるのが僕のせいなら、君には話していいかな、煙草のこと。でもそんなに悲しい話でもないんだ」
彼はそう前置きをすると、吸っていた煙草を揉み消して、新しい煙草をもう一本取り出して火を付ける。
「そうだね……どこから話せばいいかな……僕が小学生の時、僕の父親は蒸発したんだ」
彼は明日の天気のことでも話すように話し始めた、それは彼にとってもう消化したことだからなのだろう。
「ギャンブル狂いで、母親のパートの給料をギャンブルに当てて、負ければ母親をなじり、勝てばキャバクラへ通う、そんな父親が他所に女を作ってある日突然いなくなったんだ」
彼は軽い溜息を吐く。
「ショックではあったけど、母親の気持ちを考えると清々したよ。母親はいつも僕に対して泣きながら謝っていた、母親は何も悪くないのにね」
マスターは頃合いを見てか、私達にコーヒーを運んできてくれた。彼は身体の冷えた私を気遣って、飲むように促した。
「そんな父親が、最近僕のところに戻ってきたんだ、骨壷に入ってね」
コーヒーを飲んでいた私は、驚きの余りむせそうになった。
「あぁごめんよ、ちょっと僕の話口調の割には衝撃的な言葉だったかな。まぁ父親は一緒に蒸発した女に捨てられでもしたのかな、ホームレスをやっていたらしいんだ。そんな父親が心不全か何かで亡くなったらしく、無縁仏になる一歩手前で父親が住んでいた公園から期限の切れた免許証が見つかったらしいんだ。それから辿って僕の元まで骨壷が回ってきたんだ、この煙草と一緒にね」
そう言って彼は煙を明後日の方向に吐き出す。
「父親が死んでも何もショックは無かった、でも自分の父親のことを何も知らない僕が、唯一父親のことで知ることが出来たのが、この煙草を愛煙していたと言うことだけだったんだ」
彼は虚空を見つめ、何処か寂しそうな雰囲気を漂わせながら紫煙を燻らす。
「雨の日だったんだ、骨壷と煙草が届いたのが。だから僕は雨の日はこの煙草を吸うことに決めてるんだ。特に深い意味がある訳じゃないけど、その方が父親のことを感じることが出来る、そう思ってね」
先ほど一瞬だけ見せていた寂しげな雰囲気は、揉み消した煙草と共に消し去れれたのか、彼はまたいつものようにニコニコと笑っていた。
「次の雨の日には僕はもうここには来ない」
私はどきりとした。
「何故、ですか?」
私に心の底から揺さぶられるような動揺が走る、しかしこれは何処か心の中では想像していたことだった。彼はほんのひと時、ここで雨宿りをしていただけなのだろう。
彼は何処か困った風にしながらも、笑みは絶やさず私の冷えた手を取る、すると彼の手の温かさと共に心にも温かさを感じた。
「正直僕は、その骨壷をどう処理していいのか分からなかった、というか今でもそれが正解なのか分からないが、母親と同じ墓に入れようと思うんだ」
彼に握られた手に力が入る、彼は母親まで亡くしていたのか。
「母親は最後まで僕に謝っていたんだ、父親と一緒に居れなかったことを。詰られても捨てられても、一度は愛した人だからね、家族でいたかったんだと思う。僕とすれば母親を捨てた最低の父親だけど、また帰ってくるんじゃないかと心の何処かで思っていたのかもね」
「だから貴方が、両親を寄り添わせるんですか?」
私は彼の取る行動が、やや残酷にも思えた。それは彼自身に対しての自虐に思えたからだ。大好きな母親と大嫌いな父親を一緒にする、彼はそれに耐えられるのだろうか?
「正直それが正解なのかは分からない、でも僕は両親の墓を守るために地元に戻ろうかと思うんだ、両親の出会った地でね」
私は言葉に詰まった、これ以上何を言っても彼の意思は堅いと思ったからだ。でも私は彼を引き止めたかった、私の空想と現実の境目に現れた彼が、私を現実に引き戻してくれるような気がするから。
彼は相変わらず、人の心が読めるかのように私の手をギュッと握って優しく話しかけてくる。
「君も見えている筈だよ、君のことを心配してくれる人や、手を差し伸べてくれる人がいるのを」
私の脳裏には、母親であったり、高校から一緒に同じ大学に入った友人だったりと、心配してくれる人の顔が浮かぶ。でも私がこの喫茶店から出られないのは、そんな心配してくれる人達のせいじゃない。自分のせいで、自分が殻に籠っているせいでこの空想から抜け出せないでいる。
私は自分の足で晴れた空の下に出るのが怖い、彼はそんな私をこんな短い時間で引っ張り出してくれそうなのだ。そんな彼が居なくなるのがこれ以上ないくらいに切ない。
「正直私は貴方の強引なところに、今でも戸惑いを隠せません。ですが、私みたいな人間には貴方のような眩しい人が羨ましいんです。だから私は貴方のその不躾なくらいに眩しい太陽で照らして欲しいんです」
彼は私のそんな言葉を聞いて、クスクスと笑い出す。何がおかしいのか私には全然分からなかった。
「そんな熱い告白されたのは人生で初めてだよ」
私の顔は急に真っ赤になる。何もそんなつもりで言ったわけではないのだ。
「ち、違うんです、これはそういう意味じゃなくて……!」
「新刊、まだ読み終わってないんだ。だから今度はいつになるか分からないけど、そうだな……突き抜けるような青い空の日に、この喫茶店で待ち合わせをしよう」
「やっぱり貴方はロマンチストですね」
私はそう言ってにっこりと笑う。
「君の告白には負けるよ」
そう言われた私は彼の手の甲に爪を立てる。彼は嬉しそうに痛がっていた。
彼は本当に優しい人だ、鞄から覗かせる新刊に挟まれた栞は、巻末に挟まれていたのだから。それを見た私は、彼がまたここに戻ってきてくれることを確信することが出来た。
私はふと我にかえり、雨が上がり青空が広がり始めているのを見て取った。
あれから3年、私は事あるごとに喫茶店で時間を過ごしていた。本を読んだり宿題をしたり、嬉しいことがあればマスターに報告し、悲しいことがあればマスターのコーヒーで心を温めた。
この喫茶店はどうやって生計を立てているのかさっぱり分からないぐらいに閑古鳥が鳴いているが、唯一の常連である私は少しでも店の傾きを抑えようと、マスターのコーヒーを飲みに店に通っている。
いや、正確には違う。彼が帰ってきた時にこの場所が無くなっていたら、彼は道に迷ってしまう。だから私が道標となれるように、いつまでもここに通い詰めるのだ。
私がぼーっとしていると、先ほど入ってきたサラリーマン風の男は店を出たらしく、気が付けば店の中にはまた私とマスターだけになっていた。
私は静かな店内で、不思議と今までの事が走馬灯のように駆け巡る。
1年生の初めに引きこもってしまった為に、単位が足りなくて4年では卒業出来なかったが、両親は何も言わずに学費を出してくれたし、一足先に卒業した友人とは今も休みの日にはよくランチに行く。私を目の敵にしていた連中は、私が胸を張って前向きに生活しているだけで何もしてこなくなった。結局のところ自分より弱いものを虐げたかったのだろう、やはりというか、彼女たちは大学を中退してしまった。
ふと色んな事が詰まった3年間を頭に浮かべていると、カランカランという鐘の音とともにお客さんが来たらしい。私はその音を聞いて我にかえり本に目を落とす。
私が本へ目を落とすと、ギシッという音を鳴らして目の前の席に人が座っていた。その人の顔はニコニコと人懐っこい笑みを浮かべており、私が気付くのを待っていたらしい。
「帰ってきたんですね」
私は冷静を装って、短く言葉を放つ。
「やっぱりここのコーヒーの匂いは落ち着くね」
彼は意図してか、私の言葉に相槌を打たない。
私は彼の前にすっと灰皿を滑らすと、彼の手がそれを止めて優しく握ってくる。私はドギマギしてしまい、急な展開に彼の顔を見れなくなってしまった。
そんな私を見て、彼はクスクスと笑う。指先まで真っ赤になった私を見て、我慢出来なかったのだろう。
「もう踏ん切りはついたんだ」
彼のその言葉を聞いてやっと彼と視線を合わせると、彼の胸ポケットには煙草は入っていなかった。
「空も晴れてきたし、そろそろ君に逢いたいと思ってね。思わず飛び出してきちゃったよ」
そんなタイミングでマスターが彼のコーヒーカップにコーヒーを注いで持ってくる。そのコーヒーカップには、相変わらず赤い線が入っていた。
「マスター、捨てずに取っておいてくれたんだね」
「貴方は大事な常連さんですからね」
マスターはそう言って優しげに笑みを浮かべる。
そんなやりとりをしながらも、彼は私の手をずっと握ったままだ。私は茹で蛸のように赤くなりながら、彼の手の温かさを感じていた。そんな時に彼がふと変わったことを言い出す。
「2人の再会を祝して、乾杯でもしようか」
「コーヒーでですか?」
彼の唐突な提案に私は頭に疑問符が浮かぶ。そんな私の不思議そうな顔に目もくれずコーヒーカップを掲げる。それに続いて私も空いた手でコーヒーカップを掲げる。
「2人の赤い糸が繋がり続けますように」
そう言って彼はコーヒーカップに入った赤い線をくっつけるようにしてカップを鳴らす。
「貴方のロマンチストなところ、全然変わってませんね。むしろ前よりも上回ってます」
彼はそんな私の言葉を聞いて、何故か嬉しそうにしている。
彼は窓の外に視線を向けた。そこには雨は完全に上がり、突き抜けるような青い空が広がっていた。
雨上がりはコーヒーと共に ねこせんせい @bravecat
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