第10話 神の見放された日


 そこは真っ暗闇だった。


「――――え?」


 暗闇に囲まれていた。

 何も見えない。どんな光景も映らない。見渡してもあるのはただの闇。


 限りなく黒に染められた空間は、宇宙で数多の恒星が一斉に輝くのを止めたように思えた。


 さっきは何も見えないと言ったが、正しくは違う。

 光が一切差し込んでいない真っ暗闇のはずなのに、矛盾な事に自分の姿は見えていた。


「…………なんだよ、ここ……?」


 どうしてこんな奇妙な場所に俺は居るんだ?


 きっと誰もがまず抱く基本的な疑問。だがそれは……妙な事に薄らいでいく。ここに居るのが普通であると錯覚し始めている自分がいる。


 おかしい。ここに居て良いはずが無いのに……何故おかしいと思ったのかわからなくなってくる。


 この奇妙な感覚と闘っていると、俺と闇しか存在しないはずの世界に一つの変化が起こった。

 いや、変化が起こったのではない。既に何かが居たんだ。

 いつの間に現れたんだろうと思いながら、その正体を確かめてみた。


 目を凝らすまでもなく、それは人だ。だが――


「は……!?」


 同じく闇の中にぽつんと立つ人物の姿に、まぶたが驚愕で限界まで剥かれた。 


 そ、そんな馬鹿な……! こんな馬鹿な事があり得るはずが無い!


 異常な状況に遭遇してしまい、思考が混乱を起こし始めている。

 混乱しているのは、アレを認めたくないからか。だけど誰もがこの状況に遭えばそうするはずだ。

 なぜならば――


 目の前に立っている人物。そいつは――自分自身だったからだ。


 もう一人の俺が……目の前にいる……! 


 何から何まで寸分の狂いも無い……まるで姿見の前に立っている気分だ。

 なぜ俺がもう一人いるのかわからない。これは現実なのか……?


「お前は……誰だ? なぜ同じ姿をしているんだ?」


 不気味なものに対する恐怖がじわじわ侵食してくるのを覚え、それに耐えながらも自分の姿を模した人物に恐る恐る尋ねる。


 もう一人の俺はただ黙ってこっちを見ている。

 と、思いきや……もう一人の急に物悲しげな表情を浮かべ口を開けた。

 そして、目と口からどす黒い液体がごぼごぼと音を立てて出てきた。


「うわ……っ!」


 得体の知れない液体が流れ落ち、奴の足元まで滴っていく。

 両目は溢れる液体のせいで黒く染まり、もはや目玉があるのか確認できない、おどろおどろしい見た目に変わり果てた。

 肌の色も血の気を失い、とても人間とは思えない無機な灰色へと変色していく。


 さらには腐り始めているのか、身体中から肉片がぐずぐず落ちていった。

 肉片があちこちから千切れ落ちて、そこから流れるはずの血も非常に黒かった。


「う…………っ」


 おぞましい光景に、氷のように冷たい寒気が身体の内側を這っていく。

 黒い液体に塗れた奴の足が一歩……一歩……と、纏わり付く液体の踏み弾ける音を伴わせて進行を始めた。


 もはや自分に似せようとしなくなった――もしくは姿を維持できなくなったか――ゾンビがゆっくりと近付いてくる。


 早く……逃げないと! 

 なんとなくだが、捕まったら殺されてしまう……!


「くっ! なんだよ、これ……!」

 

 あ、足が……思い通りに動かせない!


 まるで脳からの指令が上手く伝達してないみたいだ。

 こんな時に限って都合悪く動けないなんて!


 そうしている間にも奴は近付いてきている。

 動けない俺に余裕を持っているのか、それとも満足に動けないのかやけに歩くのが遅いが、却って不気味さを増し、近付けば近付くほど心胆が寒くなってくる。


「やめろ……く、来るな……! こっちへ寄るんじゃないっ!」


 死に物狂いで逃げようと抵抗を続ける……が、何をしても徒労に過ぎず、身体は金縛りを受けたように動かない。


『……ヨ。オモイ……セ。ワ……ハシュ……ク……ナ……ノ……』


 声が聞こえた。

 喋ったのではなく、直接頭に響いてきたのだ。


 声は男とも女とも判別できず――自然な人の声ではなく、いろんな音をかき集めて辛うじて声になっている感じ――言葉は断片的で何を意味しているのか解らない。


 これは……あいつの声か?


 何かを訴えている? 俺に何を求めているんだ……? 

 お前は、一体何者なんだ――?


『――――』


 動けない間に、ついに化物、、が手の届きそうな距離まで詰めてきた。

 真っ黒な眼窩は目が潰れているように見えるが、悲しげに睨んでいるのが何となくわかる。恨めしくも見えた。


「っ……あ、うあ……!」


 見ればそれだけ正気を削ってくる、醜悪で痛々しい姿が視界を占めた。

 心臓の鼓動と戦慄は既に限界に近付いてきている。呼吸も苦しい。


「やめろ……やめてくれ……!」


 所々に骨の見え始めた腕が伸びて、白黒の手が俺に触れようとしてきた。


「あぁ……うわああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ――――!!!」


 叫喚を上げた――次の瞬間。

 空間が昼白に明転した。





「っ……はぁ……はぁ……!」


 ここ……は……?


 漆黒だったはずの世界は、いつもの見慣れた光景に変わっていた。

 見渡し、一面に趣味と私物があるのを見て、そこが自分の部屋と確信した。


 さっきの光景は……夢? 全て夢……だったのか……。


「……な、なーんだ。夢かあ」


 夢であったことを知り、解放された事もあってか、ほっと息をついた。

 心臓はまだばくばくして、今にも発作を起こしてしまいそうだ。


 良かった……もしあれが現実だったら死んだかもしれない。思い出すだけで嫌な気分になるな……。


 それにしても……奇妙な夢だったな。恐ろしいのに……どこか印象的だった。

 あいつは何者だったんだろう? 気になるが、夢に聞いても意味ないか……。


 時刻はまだ二度寝できる余裕があったが、またあの悪夢を見てしまうのではないかと不安が過り、このまま起きることにした。

 身じろぎすると、汗を吸った部屋着が肌を舐める。


 うわ……濡れた服が張り付いて気持ち悪い。悪夢を見てしまったせいで、びっしょり汗をかいたようだ。


 早く服を脱いでシャワーを浴びないとな。

 そうと決めた俺は早速準備に移る。

 風呂場へ行こうとした時、ベッドの横に置いてた自分のケータイが鳴った。


「ん? 誰だぁ?」 


 人がせっかくシャワーを浴びようとする時に電話とは。

 ケータイを取って見ると、電話を掛けてきた相手はバイト先の店長だった。


「…………」


 はあ……店長かあ。気が重くなってきた……。


 あの薄毛店長からの電話は大抵ろくでもない事が起こるんだよな。

 電話に出たくはないが、出ないのも後が面倒だから仕方なく出ることにする。


「お疲れ様です。皆本です。はい……はい…………えぇ?」


 ほら、やっぱりな。




「ただいま……」


 疲労困憊の状態でやっとの帰還。


 は、果てしなく疲れた……。


 極度の疲れと睡眠不足から、足元がふらふらして覚束おぼつかなかった。頭も痛い……。

 今の俺はきっとゾンビに見えてるだろうな。すれ違った通行人も俺を見て怖がってたし。


 店長からの電話は、従業員が一人勝手に居なくなったので代わりにやって欲しいという理不尽なものだった。

 おかげで俺は合わせてざっと二十一時間も勤務する羽目になった。

 最高記録をまた更新。後輩に「いつ寝てるんですか?」ってドン引きされちゃったよ……。


 日を跨いでの帰宅。約一日ぶりに帰って来たというのに、一ヶ月ぶりに帰ったような錯覚に見舞われる。


「オォフ……!」


 体力も気力も底を尽き、力尽きて倒れるようにベッドに突っ込む。

 ひどく疲れた。しばらくは動きたくない……。


「……う…………うぅ…………!」


 唸り声を漏らし、頭をぐしゃぐしゃに掻きむしる。

 行き場の無いストレスが限界を超えて発破を起こしてしまったのだ。


「あの……店長め……!」


 なんで俺がこんな目に遭わなきゃいけないんだ……!

 従業員が少ないからってコキ使いやがって……俺は工場の機械じゃ無いんだぞ!

 そりゃ食わなきゃ飢えるし、他には遊ぶぐらいしかやる事は無い。夢も志望も無いが……だからってこの扱いはあんまり過ぎだ!


 うぅ……身体中が悲鳴を上げてやがる……。

 辛い。苦しい。もう嫌だ。働きたくない。動きたくない。

 今日は何もしたくない。このまま寝てしまおう。


『――我が主! 聞こえますか!』


 どっぷり眠ろうとした所を、誰かが邪魔してきた。


 ソールの声だ。彼女がまた来たんだ。


 何故か慌てているようだが、今の俺はへろへろに疲れている状態だ。悪いけど今は対応していられない。

 そればかりか、彼女の呼びかけが鼓膜を刺すように痛くて鬱陶しい……。 


 こんな時に現れるのはやめてくれよ、ソール。

 疲れているんだ。ほっといてくれ……。


『大変です!! 一大事です!! 国が二つに分かれ、人同士が大きな戦争を起こしています!!』


 トールキンに何かあったらしいが、どうでもいい。さっさと消えてくれ。


『マーニです! 彼女が掟に背き、戦争を誘発したのです!』



 うるさい。喚くのはやめろ……。



『私たちだけでは手に余ります! どうか我が主のお力で彼ら人間をお止めになってください!!』



 …………うるさい。



『?……我が主よ、私の声が届いておられないのですか……!? どうか力添えを……っ!!』

「っ……!」




 ………………うるさい!




「……ああっ! ああもうっ! うるさいんだよっ!!」

『!? 我が主……!?』


 あまりに耳障りで耐え切れなかった俺は、ソールに向かって怒鳴りつけた。

 感情は昂り、抑え切る事が出来ない。

 突然の事にソールは目を丸くさせ、困惑している。


「うるさいうるさいうるさいっ!! トールキンがどうだって俺は知るもんか! お前らで何とかしろよ!」


 荒ぶり、思っていること全てを吐露して彼女にぶつける。


 こんなにキレたのは久し振りか……いや、初めてかもしれない。

 自分で驚くぐらいに激怒してしまったが、今の自分の言動を悔やもうとする気持ちは無かった。


『な、何を……? 一刻も争うこの事態にそのような……トールキンが荒廃してしまうかもしれないのですよ!』

「んな事知るか! どうでもいいんだよっ!! 大体お前達にはトールキンを守る役割があっただろ! 何やってんだよ、さっさと止めてこいよ!」

『そ、そんな……!』


 ソールは余程のショックを受けているようだが、構ってはいられない。


 あっちの奴ら人間が戦争? 大規模な殺し合いをしてるのか? 知らねえよ、そんな事!

 俺だって死ぬ程疲れてんのに、休ませてくれないのかよ……!


 ああ! ああっ!! かんり……カンリ……管理……!

 ふざけんな! こんな仕事やってられるかよっ!


 あの時「異世界を創りたい」とほざいてた自分を殴ってやりたい。

 この前までは異世界に希望を抱いてたが……期待を裏切り、あまつさえ面倒を起こして生活を乱してくる。これからも苦しめ続けてくるに違いない。


 何が異世界だ……。

 行くことを許されず、面倒な管理だけをやらされる。希望も夢もあったもんじゃない。


 もう要らない。こんなお荷物なだけの世界は……






 消えてしまえばいいんだ――!






「トールキンの神様なんかやってられるか! 管理なんて知るか! お前らがどうなろうと知るもんか! 勝手に生きて勝手に死ねよ!」

『あ……あの……我が主よ……どうかご慈悲を……この世界を……!』

「うるさいっ!! そんな事よりも俺は寝たいんだっ!」


 当惑しているソールの懇願を撥ねつけ、外からの一切合切を遮断するように布団を被った。


 何も聞きたくない。何もしていたくない。今は現実を忘れていたい。


 布団の内側、光の入ってこない闇の中で無心になろうとする。何も考えないで済むからだ。

 あの後もソールは何度も呼び続けていたようだが、現実から逃避したい一心で耳を塞ぎ続け……いつの時か眠りに付いた。

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