番外編 太陽と月の慌ただしい夜 後編


「うっ、くぅ……」


 枝葉の擦れる音に、二人の視界は明転した。


 意識が、ある……。


「ここは……!?」


 身体を打つ激しい痛みは無く、些細な擦り傷しか負っていない。


 まだ生きている……。


 思いがけなかった状況に、何が自分達を守ってくれたのかソールは周囲を見渡し、すぐにその答えを知った。


「……なるほど。そういう事ですか……」


 力を失い、危機に瀕した彼女達を受け止めたのは緑茂る枝葉だった。

 墜落した先には幸運にも低木が在り、これが小さな体を受け止めたようだ。 


 事なきを得たことにソールはひとまず安堵し、共に墜落したはずのマーニの安否を確認する。

 彼女はすぐ下に居た。


「良かった……無事ですか? 怪我をしていませんか? どこか痛いところはありませんか?」

「……すこぶる最悪な気分よ。貴方のせいで顔がまだ痛いのだけど?」

「こんな時に貴方は……はぁ、もういいです……」


 枝葉に身体を預けたままのマーニが相も変わらず、神経を逆撫でる言葉を浴びせてくる。

 ムッとなるソールだったが、無事らしいマーニの姿を見て熱を抑えた。


 衝突を避けて命永らえることのできた二人は、三度みたび飛行が出来ないものかと試してみる……が、やはり飛ぶことは出来なかった。


「くぅ……っ」

「ダメ、みたいね……。私も飛べないわ」

「マーニも同じ状態ですか……」


 微かな期待と希望を砕かれ、憂い現実を突き付けられた二人は地面に降りらざるを得なかった。



「この場所は……」


 低木から地上に降り立った二人を待ち受けたのは、進児の部屋とはまるで違った世界だった。

 面積はかなり広く、草木も無い大きく開けた場所があり、所々に奇妙な建築物がそびえ立っていた。

 ある物は堅牢に、ある物は柔和に、ある物は珍妙と多種多様に構えている。


 はからずして二人が訪れたその地は公園だった。

 彼女達にとって奇妙に見えた建築物は、遊具や水道、人が腰をかけるベンチ等であった。


 日が地平線の向こう側へ沈んでいる時刻という事もあって、辺りは生命の活気が静まった虚ろな雰囲気が漂っている。

 進児の部屋で籠り続けていたが故に、此処が公園であることを知らないソールは戸惑いを隠せない。


「あぁ……ど、どどどどうすれば……っ」


 とても見慣れない光景に、ソールは愕然とした。

 この世界の土地勘が全く無い彼女達には、ここが何処で進児の家からどのくらい離れているのか全く判別がつかないからだ。


 連れ戻すはずがこの事態に及んだことにソールは自身の無力さを悔やんだ。

 外の世界の知識は他の大精神より何倍も修めてきたはずだが、この状況を打破できる知識は乏しい。こうなるのであれば地理を学習するべきだった。


「どうするも何も、私のやることは変わらないわ。あの子達のもとを目指す。それだけよ」


 膝を突きそうなまでに落ち込むソールに対し、マーニは勇ましいまでに毅然な態度を崩さなかった。

 邪魔ソールや予期せぬトラブルが起こってしまったが、気持ちは変わらない。手段を一つ失っただけで、己が純粋なる目的を断念できるはずがない。


 意志は依然として固く、今度は己の足で歩き始めるマーニ。

 歩む方向にこれといった確証はなく、漠然とした道程になったとしても彼女は構わなかった。


「!?……お待ちなさいっ。このような事態でも行こうとするのですか……!」


 進むも退くも出来ない、酷く困難な状況に置かれている中、それでも凛として歩み行こうとするマーニを、ソールは呼び止めた。


「そうよ。どこかの誰かさんと違って、私はこれくらいの事でめそめそ嘆くことしか出来ないほど弱気じゃないの」

「めそめそ嘆いてなんかいませんよ! ですが、いったい何が貴方をそうさせるのです?」

「私は自分に正直なだけよ。今までもこれからも」


 歩を進めていたマーニは、ソールの言葉に思うところがあったのか歩みを止め、ただその場に留まっているだけのソールの問いに対し、自論をぶつけた。


「自分の心に蓋をしない、嘘を付かない。それが私という在り方なの」

「マーニ……」


 本来ならこれに反駁していたはずだが、ソールはそうする事を得なかった。

 今までにもマーニの行動にはその片鱗がちらついていた。


 初めて彼女に会った時、ソールは属性の近い大精神という事から深い親近感を抱いた。

 血の分かち合いもないマーニを妹として接触を図ったソールは、彼女にこの世界の知識を共に学ぼうと誘った。


 最初は大変良い反応を見せてくれたのだが……時が経つにつれ「へえ」や「そうなの」と薄味な感想が返ってくるだけとなり、やがて無視して突っぱねるようになった。


 勤勉なソールと違い、マーニは興味の無いことには嘘であっても関心を寄せることすらしない。

 ありのままでありながらも、率直過ぎるが故に他者との確執を生みやすい。マーニはそういう物なのだ。


 これでもソール以外との大精神の親睦はおかしなくらいに良好なのだ。

 だがそれは、彼女の性分を理解した上で対応している者、一周回って逆に気が合いやすい者、何とも思っていない呑気な者のどれかに分かれるだけで済んでいるからだ。


 結果として一番……いや、唯一と言うべきか仲が良くないのはソールだった。


 口を噤んでいるだけのソールは、マーニに対してある念を抱いていた。

 それは危惧だ。


「……貴方の、己に忠実な振る舞いが大きな過ちを犯さなければ良いのですが……」


 確信は無いが、やがてはそうなるのではないかと憂慮を込めて警告する。

 対し、マーニは氷のような視線でそれを迎えた。


「あっそ。じゃあ私はもう行くわ。無事に帰れると良いわね。それくらいは祈ってあげる」


 そんな馬鹿馬鹿しい事は杞憂に過ぎないと言わんばかりに冷たい視線を納め、マーニは再び歩を進めた。


「あっ、待――」


 それじゃ、とマーニが別れを告げようとした――その時、彼女の背後で大きな影がうごめいた。

 うごめく影はすたすたと近付き、ソールの視界に全容を見せた。


「――!!?」


 マーニの行動を阻もうとしたソールの身体が、石像の如く硬直する。

 大きな影は全身の至る所に毛が生えており、四本の足が地面に向かって伸びている。

 短い呼吸の音が聞こえている事から、それが何かの生命体である事がわかった。


 闇の中から現れた生命体……それはだった。


 しかし、街灯しか明かりのない暗夜に加え、小さな体躯のソールの視点では恐ろしい生き物に見えた。

 あの姿はまるで進児の遊んでいたげえむ、、、に出てくるもんすたー、、、、、ではないか。


「…………?」


 マーニが、先程とはまるで様子の違うソールの形相に疑問符を浮かべている。

 鈍いことに彼女は背後の生命体にまだ気付いていない。


 この状況、放っておけば襲われてしまう。助けなければいけない。

 危機が迫っていることを知らせるため、ソールはマーニに伝えようとした。


「っ……ぁ……あ……!」


 ……はずだったが、驚愕のあまり上手く言葉が出てこない。

 自身の声が不発を起こしている事に、ソールは文字通り唖然するのだった。


「? なによ?」

「うっ、ぅしっ、うしっ……う、ぅ……っ」

「……? だからなんなの? おろおろしていないではっきりと言いなさいな」


 後ろぉぉぉぉ、と言いたいのだが、声になるはずの音が不発を起こして空しく大気に散っていく。

 もどかしく、だが負けじとソールは身振り手振りを行い、何とかしてマーニに危機を伝える。

 狼狽しているせいで妙な姿に見えているかもしれないが、果たして……。


「……ぷふっ! あっはははっ! 滑稽ね! ついに頭がとち狂ったのかしら? ふ、ふふふ……っ」


 やはり妙な姿に見えていたようだ。


 挙動不審なソールの姿がツボに入ったのか、危険が迫っているにも関わらずマーニは笑い始めた。

 堪えきれず吹き出した彼女の表情は爽やかで、他人ヒトに癒しを与えてくれる力があるだろう。状況が状況でなければの話だが。


「それは『後ろ』という意味ね? ふふっ、もう何なのよ。おかしな事をして……」


 だが、やっとソールの伝えたかったメッセージの意味を理解したらしく、マーニは後ろを振り返った。


「――わんっ!」

「………………え?」


 大精神マーニと犬のご対面。


 犬は挨拶とばかりに一吠えし、鼻を近づけてひくひくと動かす。マーニの匂いを嗅いでいるようだ。

 そして、彼女をペロペロと長い舌を這わせて舐め始めた。

 ざらりとしていて生温かく、ぬめっとしたものが何度も何度もマーニに擦り付けられる。


 洗礼受難を受け、唾液塗れになったマーニは、思考が一旦処理落ちを起こした後に、ぞわり。

 一瞬で真珠のような珠肌が粟立った。


「ひ……!」


 さっ、と顔を蒼白させたマーニは硬直し、そのまま支えを失った人形のように傾いていく。

 どさり、という音を立て、彼女の肢体が地面に横倒れた。


「マーニ!?」


 目の前で息づく大きな危険を顧みず、ソールはマーニのもとへ駆け寄った。

 倒れたマーニは、美貌を備えた女神とは思えない姿で白目を向けている。

 身体を揺さぶり呼び掛けてはみたが、返事が戻ってこない。どうやら意識を失ってしまったらしい。


「クゥーン?」

「!」


 下目に掛けた獣の鳴き声。ソールはハッとして頭上を仰いだ。

 視線の先で獣が、あろうことか鼻先を近付けている。


 殺される――!?


 これは獣が自分達を捕食しようとしているのだと、ソールは考え及んだ。


 彼女の中で危険を知らせる警告がうるさく告げている。

 早く逃げなくては――と。


「く……っ!」

「クーン? きゃう! きゃんきゃん!」

「!! ひぃ……!」


 マーニを背中に担ぎ、何処に行けば良いのか方向の定まらないソールは、獣が追いかけている事に気付き全速力で逃走を始める。

 飛べない今の状態では、生き残る手段は自分の足のみだ。


「わああああぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」


 迫り来る命の危機(?)から脱するため、ソールはひたすら足を動かしてがむしゃらに逃げ回る。

 こんなに走ったのは初めてが、その逃走は世界ランカーにも引けをとらない見事な走りっぷり――背後に身の危険が迫っているというハンデがあるが――だ。


 実を言えば、獣――犬は彼女達を襲う気などこれっぽっちも無かった。

 ただ構いたかっただけだったのである。

 マーニを舐めたのも、親しみを伝えただけで危害を加えるつもりは無かった。


 しかしソールからして見れば、獣が自分達を餌と見なし喰らい付こうとしている様にしか見えなかった。


 あれに追い付かれてしまえば、喰われる。ソールはそう思った。

 おそらくあの大きな口の中には鋭い牙が何本も生えているのだろう。その牙で自分達の肉を裂き、内臓を平らげ、骨の髄に至るまで噛み砕くかもしれない。


 これが弱肉強食。自然界における食物連鎖のことわり

 小さく弱き生き物は、より強く大きな生物に食べられ、血肉の一部となる。当てはめるなら自分たちは前者の方、弱き生き物だ。

 

 ソールは、かつて進児鶏肉チキンにかぶり付き食している出来事を思い出した。

 自分達も美味しく食べられ、残滓となったあの骨になってしまうのだろうか。

 噛み千切られ、しゃぶられたバラバラの骸……そんな無惨で恐ろしい末路を想像するだけで顔が青ざめ、身震いを起こしてしまう。


 ……食べられたくない。

 そんな憐れでみじめな最期など迎えたくない。


「食べられたくなあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁい!!」


 あまりに悲し過ぎる結末は絶対に避けねばならぬと、ソールは執拗な追跡から逃げ回り続けた。




「はぁ、はぁ…………っ。た、助かりました……」


 獣の追跡を何とか振り切ったソールは、遊具の中に身を隠していた。

 矮小な彼女ではせいぜいこれが限界だった。


 遊具はその内側に十分な空間――ソール達にとっては広大過ぎるが――が広がっており、そこに身を隠すことに成功したソールは陰から外を見張った。


「状況は……良くなってはいませんよね。うぅ、困りました……」


 時折遠くから獣の鳴き声が聞こえる。迂闊には出られない。


「足が……動けない……」


 ソールの足は悲鳴を上げ、二度と全速力で逃げることはできそうにない。

 それに身体が気のせいか虚弱しているようにも感じる。


 もし今ここが見つかってしまえば終わりだ。

 困難な局面に立たされたソールは挫けそうになりつつ、それでも獣が去ってくれることを願って見張りを続けた。


「……ん……ぁ……?」


 徘徊する獣の動向をしばらく見張っていると、呻く声が耳朶に届いた。

 安静にしていたマーニが意識を取り戻したようだ。


「わ、私……いったい……?」

「気が付きましたか。どこか頭を打っていませんか?」

「何があったの……? 酷い事があったような……」

「貴方はあの獣に舐められて気絶をしていたんですよ。おかげで身体がべっとりとしているようですが……」

「え……はっ! いやっ、嫌あぁぁぁっ! べとべとしてるぅぅぅぅ!」

「あ! こらぁっ! 私の衣で拭くのはお止めなさい!」


 気絶する前の出来事を思い出したマーニはパニックを起こし、ねっとりと付着している忌まわしい生物の体液をソールの装束に擦り付ける。

 おかげで装束の一部がぐしょぐしょのよれよれと化した。


「あぁ、衣が……マーニ! こんな事をして、みっともありま――」

「ケダモノに舐められたケダモノに舐められたケダモノに舐められたケダモノに舐められた……!」


 マーニは頭を抱え、同じ言葉を繰り返し繰り返し唱えている。あの獣に舐められたのがかなりのトラウマになってしまったらしい。

 いつもとは違ったその姿にソールはさすがに引いてしまうも、声をかけずにはいられなかった。


「だ、大丈夫ですか……」

「もう散々よっ!! 貴方は邪魔をするし! 力は失うし! ケダモノに舐められるし!」

「落ち着いてください。騒ぐと気付かれてしまいますよ……っ」

「ううぅ……うぅ……! こんなの……いったい私が何をしたと言うの……!?」

「それは……」

「私はただ望んで動いたまでよ! そうしたかっただけ! そうしたかっただけなのに……うっ……うぅ……!」


 酷く冷静を欠いたマーニは思うままに当たり散らし、タガが外れたように泣き始めてしまった。

 苛み、美しい顔を涙でくしゃくしゃに歪めるマーニの様子を見て、ソールは返す言葉に窮した。

 言いたいことは勿論あったが、今それを言うのは酷に思えて渋ったからだ。


 それ故、板挟みに陥ったソールはどうしたら良いものかと考え込む。


「……もういいです。しばらく休息を取りましょう。私も走り過ぎて疲れました」


 今の自分に出来ることは、疲れ果てた身体を休め少しでも活力を得ることだ。

 現況を放り投げるような結論だが、緊張の糸を張り続けるよりかはまだ良い。

 もしかしたら飛行の力も取り戻せるかもしれないし、獣もその内に去るかもしれない。


 頼りない希望を抱き、ソールは泣き腫らすマーニの隣に腰を下ろした。


「……………………」


 何もないまま、ひたすらに時間が過ぎていく。

 いつもはどうしていただろう。自分から話しかけていたか、他の大精神の騒ぎを止めていたのがほとんどだったかもしれない。


 マーニは未だ咽び泣き、落ち着くまでまだ時間が掛かるようだ。

 すっかり落ち込んでしまったマーニを元気付けてあげたいが、こんな時に限って何をすれば良いのか思い付かない。


 ……いや、聞きたいことはあった。


「どうして貴方は外へ出たのですか?」


 ソールは、何故マーニがこのような行為をしでかしたのか彼女に尋ねてみた。

 今ならその理由を語ってくれるかもしれない。


「何よ、急に。放っておいて。貴方のそういう所嫌いよ」

「嫌いと言われても構いませんが、気にはしますよ。この際、私に打ち明けてくれませんか?」

「………………」


 涙を拭っているマーニは、何も言わない。

 やはり嫌いな相手には口が堅いかと諦めかけた……が、


「……ウサギさんに会いたかったの」

「え……?」


 意外な事に、マーニはソールの求めに応じて口を開いてくれた。

 すっかり沈黙を貫くと考えていた分、驚きが染み出てくる。前も後にも進むことのないこの辛苦な状況のせいで話しても良いと思ってくれたのだろうか。


 しかし、彼女が明かした内容に些か耳を疑う単語があった。


「う、ウサギさん? ウサギって、動物のウサギの事でしょうか……?」

「ええ、そうよ。他に何があると言うの」

「……はぁ。何という事でしょう……」


 眩暈のような感覚を覚え、額に手を当てるソール。

 もっともな反応で、マーニが脱走を行った理由が「ウサギに会いたい」だなんて誰が予測できようか。


 彼女マーニからしてみれば真っ当なものかもしれないが、怒りを通り越して呆れてしまう。今まで必死に彼女の暴走を止めようとしていたのが馬鹿馬鹿しく思えてくる。進児や他の大精神みんなに話したら愉快な反応が見れそうだ。


「そのような事で……貴方は軽はずみなんですから……」


 積みに積み重なった疲弊が表情にどっと浮かび、マーニを窘めるソール。叱りつけるエネルギーも、今は不完全燃焼を起こして出そうにない。


「何とでも言いなさいな。私はどうしてもすぐにあの子達に会いたかったのよ……運命だと確信したから……」

「運命?」

「貴方がパンゲアに言ったのでしょう? 月にはウサギが居るという話を。パンゲアからその話を聞いて、運命を感じて居ても立ってもいられなくなったわ」

「……そういう事でしたか」


 マーニの話に思い当たる節があり、ソールは納得した。


 確かに以前そのような話をパンゲアに話したことがある。部屋の押し入れにあった図鑑を読み、得た知識を彼につい語ったのだ。


 書物は素晴らしいものだ。ありとあらゆる知識と思想が詰まっていて、新たな境地を知ることが出来る。

 ことわりを悟り、以前よりも見識が深まる感覚が堪らなくて、誰かに言わずに居られない事も何度かあった。


「……んん??」


 と、そこでソールはハッとある事に思い至った。


(パンゲアから聞いたということは……このような状況を誘ったのは全て私の、せい……?)


 だんだんとソールの肌に嫌な汗が浮かんでくる。


「………………」


 予期せぬ因果だ。マーニが逃げ出し、地面に墜落し、居場所に迷い、獣に殺されかけた原因の大元を作ったのは自分だったのだ。


「のおおぉ……おぉ……!」

「?」


 まるで恥ずかしい過去でも思い出したような苦い声を絞り出し、苦悶するソール。彼女は自らが気付かぬ間に犯していた事に気付き、己を責めたてた。


 脳裏に、先程までマーニを責めた自分の姿が浮かぶ。

 マーニを責められる資格は無い。彼女が自らの思惑で起こした騒動とはいえ、自分が種をまいたせいでこのような窮地を招いたとも言えるのだから。

 非は無いとしても、ソールは呵責に苛まずにはいられなかった。


「…………ねえ」


 大袈裟に己を責めているソールを、誰かが呼びかけた。

 声の主はマーニだった。


「? はい、何でしょう……?」

「ウサギって、可愛いわよね?」

「え?」


 意表を突いた問答にソールは面食らった。

 だがマーニは、ソールの反応を窺うことなく続ける。


「ウサギ、可愛いでしょう? 貴方はそうは思わないのかしら?」

「はぁ……あ、いえっ、愛嬌があって可愛いと思いますよ。例えばこの地では日本白色種という種類が生息していまして……」

「見たことがあるわ。白い毛並と赤い瞳が印象に残っているわね」

「それだけではありませんよ。遥か遠くの地ではアンゴラウサギと呼ばれる毛の長いウサギがいるんですよ」

「まあ。それは本当なの? 初めて聞いたわ。ねえ、もっとウサギさんの事を聞かせてくれるかしら?」

「え? えぇ……」

「ダメ、なの……?」

「い、いえ。そういうわけではありません……続けますね」


 マーニにせがまれ、ソールは知っているだけの知識を彼女に語ることになった。


(何故ウサギの知識を喋ることになったのでしょう。私はウサギよりも白鳩派なのですが……)


 成行きに流されたこの状況に、ソールはわずかな戸惑いさえ覚える。

 だが話に食いつくマーニの喜ばしい表情、星空を目の輝きを見よ。まるでお伽話に登場人物に自分を当てはめ、夢見る少女のようではないか。


 マーニの純粋な姿を見て、途中で止めるはずがない。ソールの中で姉としての本能が活動を始めている。


「もっと、もっとお話を聞かせて」


 にこうも頼まれては、応えてあげたくなるではないか。


「ええ。では――」


 マーニの期待を受け、なおも彼女の求める話題を話し続ける。

 見た目は違えど、性質の似通った光属性姉妹らしい光景がそこにあった。


 久し振りにマーニと楽しげに会話を交わすことが出来たソールは、胸の奥に温かいものを感じた。


 それからも二人の仲睦まじいやり取りは続いた。



「ありがとう、ソール。素晴らしいお話を沢山聞けて感動しているわ」

「それは良かったです。では此処から出ましょう」


 十分過ぎるくらいに語り明かしたソールは立ち上がり、外の様子を確認した。

 獣の姿は何処にも見当たらない。咆哮も聞こえない。

 今の内なら脱出できるかもしれない。


 だが、ソールの催促に対しマーニは渋った。


「そ、それは……嫌よ。どうせお父様の所に連れ戻すのでしょう? 戻ったらもう二度と会えないもの。大精神はいずれトールキンに行く事になっているわ。だから……」

「躊躇う必要はありませんよ。我が主にトールキンでもウサギを創造してもらうよう頼むのです」


 ソールの妙案に、マーニは……何故か「あ」と一声。気が抜けたようにぽかんとし始めた。

 おかしな反応を見せる彼女に、ソールが気付かないはずもなかった。


「どうかしましたか?」

「……そうね、その手があったわ」

「はいぃ?」


 突如始まった謎の議論に、ソールは理解不能を示すことしか出来ない。

 マーニのおかしな様子の真相はこうだった。


「私ったらウサギさんを探すことに執着して思い至らなかったわ。どうしてそんな素晴らしい事を考えつかなかったのかしら?」

「えぇっ、真にそのような事を言っているのですか?」

「とっても素敵な名案よ。お父様にお願いしてみるわ!」

「はぁ。それはなによりです……」


 ソールの反応もよそに、マーニは感銘を受けたように納得している。

 迷惑染みたマーニの天然ぶりにソールは呆れ、またも深い溜息を零した。

 何にせよ、これで戻ってくれると言うのなら願ったり叶ったりだ。


「貴方の意思はそれで良いのですね? 後で二言を言っても一切承知しませんからね。それでは――」


 行きましょう、と言おうとした時、不穏な気配が一つ生まれた。


 二人の身がぞくりと震える。

 生まれたばかりの気配は少しずつ、確実にこちらに近付いて来ている。


 まさかこれは……あの獣が自分達の居場所に気付いたのかもしれない。


「ひ……っ」

「あ……あぁ……!」


 歯がカチカチと小刻みに音を鳴らし、身体が震え始めてきた。

 迫る気配は途絶えることはなく、より迫って来るのを感じる。


 最悪の状況だ。気配の主は自分達の居所を完全に突き止めている。

 隠れられそうな場所は、もう無い。走っても、今の足では獣を振り切れる力は残っていない。


「ソール……っ」

「だ、大丈夫です……! きっと、生きて帰れますよ……っ」


 絶体絶命の危機が迫り、あまりの恐怖を少しでも和らげようと、ソールとマーニは互いの身体を堅く抱き締め合った。もしかしたら最期を迎えるなら命運を共にしたいという意思も潜在していたのかもしれない。


 戦慄の時はひしひしと確実に近付いてきている。

 こちらに這い寄る気配はあと少しのところまで近付いてきていた。


「私、怖い……!」


 マーニの怯えが、身体の震えと自分を抱き締める力の強さから伝わってくる。

 せめて彼女は守らねばと、ソールは恐怖と闘いながら意思を固める。自分の身が骸になろうと、マーニだけは生きて逃がさなければならない。


 絶望を滲ませ、おののいているソールとマーニはさくらんぼのような赤い頬を寄せ、這い寄る音の方を凝視する。


「「………………っ」」


 怖気で感覚が研ぎ澄まされているのか、それとも異常を起こしているのか、周囲が異様なまでの静けさに包まれた――――その瞬間。


「「ひぃっ!!?」」


 闇夜の下、それは現れた。


 暗闇から伸びたが壁を掴み、間髪を入れずにぎょろりと顔を覗かせた。

 何とも恐ろしい表情だ。禍々しい目玉が目立ち、とてもこの世の生物とは思えない。


「「ひゃああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!」」


 最期の訪れ。

 女神達が終幕の恐怖に慄き、悲鳴の二重唱を奏でた。

 お互いの身を抱き締める力も一層強くなる。 

 

 ――ああ、我が主よ。

 ここで命を絶やしてしまうことをお赦しください……。

 

 寒慄し、舐め付ける恐怖を直前に、ソールは進児への詫び言を思い述べる。

 まだ始まってもいない大精神の使命を果たすことが出来ないまま終わりを迎えるのは極めて遺憾だった。

 

 現れた来訪者、、、はソールとマーニに終わりをもたらそうとするつもりか、ゆっくりと彼女達に近付き始める。

 夜闇に溶け込みそうな漆黒の外套を羽織って。


「「あぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ…………あぁぁ……?」」


 戦慄の調べは尻すぼみ、何故か疑問形へと変わっていった。

 彼女達の前に現れたのが犬ではなかったからだ。

 二人はしばしば目を瞬かせ、現れた人物、、をまじまじと観察する。


 来訪者の体躯は、自分達と同じくらいの背丈。

 顔は何かで覆われていて、よく見るとそれは仮面だとわかった。

 目にする者の気分を害しそうな、趣味の悪過ぎる仮面は以前見覚えがあった。


「…………相まみえた」


 二人の前に現れたそれは、闇の大精神アンブラだった。


「あ、アンブラ……なぜここが、わかったのですか……?」

「…………深淵は舞い降りる時、全てを覗く……」

「「???」」


 最初は何を言っているのかわからなかったが、時間が経つにつれようやく理解が追い付いた。


 この大精神は夜闇があれば何処にいても見つけることが出来るのだろう。

 いつの間にそんな能力をどうして身に付けたのか甚だ疑問だが。


「……さあ、根源、、へ至るぞ」


 妙な言葉遣いのせいで何を言っているのか伝わりにくいが、帰るという意味は何となく伝わった。


「力の衰弱を感じる。長く留まる事は我ら大精神にとって不芳だ……」

「衰弱……ですが、私たちはもう既に空を飛ぶ力を失っているのですよ。戻るまでに身が持つかどうか……」

「ソールの言う通りよ。もしかして……貴方もこの憐れな迷子のお仲間になりたかったのかしら?」

「なぜ私を見て言うのですか!? 私は貴方を連れ戻しに来たからこんな目に遭っているのですよ!」

「ご立派ねえ。同情を禁じ得ないわ。いや、憐憫が適当かしらねえ」

「助けてもらっておきながら何という言い草ですか……!」

「別に貴方に助けて欲しいだなんて言ってないもの」

「~~っ!!」


 何気ない挑発から、諍いを始める二人の女神。先程までの仲の良さが台無しだ。


「…………少し、待つがいい……」


 性懲りも無く言い争う女神達に対し、温度差すら感じられる寡黙なアンブラは手を差し伸ばすと、目の前にうにょんと黒い靄のようなものを出現させた。


「……この深淵を通れ。されば在るべき場所へかえる……」


 靄の外縁はゆっくりと円形に渦巻いて、沼のような淀みを感じさせる。

 中心部はぽっかりとどす黒い穴が開き、奥には空間があるらしいのだが、光を一切通さない不気味さに些か不安を覚えてしまう。


 形状しがたい闇に、ソールはこの前に本で見た「ブラックホール」と言うものを連想した。

 しかし「在るべき場所へ」ということは、これを通れば元の居場所に戻れるのだろうか?


「「………………」」


 ソールとマーニは何も言わず、お互いの顔を見交わす。

 今はあの恐ろしい獣が闊歩するこの場所に居たくはない。

 シンパシーを感じた二人はアンブラの後に続き、逃げるようにの中へ歩み消えた。



「あいててて……っ」


 カーテンの間を、木漏れ日のように光が差してくる穏やかな朝。


 頭の中で鐘を叩き鳴らすような鈍い痛みが這い、苦悶する進児。鈍痛は二日酔いによるものだ。

 酒に溺れた情けない体たらくながらも、昨晩よりは幾分か回復してきたそうだ。


 ストレスから衝動的に暴飲してしまったが、やはり酒は控えるべきかと反省するのだった。……二度と飲まないとは言わないが。


 鈍痛で頭を抱える進児の傍らには、ソールとマーニの姿があった。

 アンブラの働きによって、二人は無事生還を果たす事ができた。もし彼が助けに来なければ二人はここにいなかっただろう。


「悪い神ね。何も言わないなんて、時には嘘も必要と学んだのかしら?」

「っ……口を慎みなさい。そのような話を聞かれたら主の気に障りますよ」


 小悪魔のように微笑むマーニが、口を引き結び何事も無かったと言わんばかりの姿勢を見せるソールに詰め寄る。


 脱走の件は進児に報告せず、他の大精神にも口外しないように言付けておいた。

 規則を破って何か大惨事が起これば、罰を受けるのは進児なのだ。大精神が自らの思惑で不手際を起こしたとしても例外なく罰が彼に下されるだろう。


 進児を守る為とはいえ、何事もなかったかのように隠し通すとはどうかしている。自分の堅実な性根が抵抗を起こしているが、そこは無理に我慢を貫くことにした。

 あの時以来アンブラはまた身を隠したが、彼の性格からして今回の件を告げ口することは無いはずだ。


 終わり良ければ全て良し、と言うか……果たしてこれで良かったのだろうか?


「? 何か言った?」


 二人の会話が耳朶に触れたのか、進児が尋ねてくる。

 関心の目を向けられ、ソールの身にひやりと冷たいものが走った。


「い、いえ……ただの世話話です」

「へえ、ソールとマーニが世話話をするなんて珍しい事もあるんだな。今日は夕立でも降るんじゃないか?」

「あ、あはは……」

「いやー、属性的にお前ら姉妹みたいなもんなのに仲が良くないようだからどうしようかと思ったけど、どうにかなるもんだな」

「………………」


 マーニは優雅そうな表情で進児の話を聞いていたが、彼の言葉が癪に障ったらしく、瞳に宿していた微笑が失っていく。

 一歩前進と勝手に捉えた進児はまだ痛む頭を抱えつつ、朝食を用意するために席を離れて行った。


「いいですか、マーニ? もう二度と自分勝手な事はしないことです。此処を抜け出すなどあってはなりませんよ」


 残されたソールはマーニに、慎しみを持った行動を取るよう念を押す。


「そうねえ。危険を冒すような真似はしないわ。もうあんな恐ろしい経験は御免被りたいものね……」


 苦い記憶を思い出したのか、マーニの麗美な表情が少し険しくなる。

 無理もない。あの時、数々の痴態を見せてしまったのだから。


 特にあの恐ろしい生き物は二度と思い出したくない。気分が悪くなる。

 忌わしいトラウマと闘うマーニだが、やがて穏やかな落ち着きを取り戻してソールに対面した。


「でも今回だけで自重するつもりは無いの。私って気まぐれだから、お出掛けしないなんて保証はできないわよ?」

「な……!? 何ですって~!? 気を失った上に大泣きしていたのはどこの何方どなたなんですか!」

「んー、さあてねえ? 貴方じゃなかったかしら? ぷふっ、自分で自分の痴態を暴露するなんて可笑しい話ね」

「~~!!」


 反抗的姿勢が見えたマーニの挑発に、があっ、と熱を上げていくソール。

 深まったはずの絆が嘘だったかのように、二柱の女神がまたも争いを開幕しかけた――その時、


『本日の~ワンちゃん~』

『クゥ~ン』

「「!!?」」


 反射的に身体がわなないた。


 嫌な予感。

 人間のそれとは異なり、温度に鈍いはずの身体が悪寒に襲われる。

 テレビから儚くも温かみのある音楽が流れ、おぞましい鳴き声がソール達の耳朶にかじりついた。


「ま、まさか……さっきの鳴き声は……!」

「おっ、『本日のワンちゃん』か。見るの久しぶりだなー。何年ぶりだろ?」


 戦慄するソールとマーニの様子など露知らず、朝ご飯を持って戻ってきた進児が呑気に懐古の念を湧かせている。


『●●県●●市。この町のとある家庭に住んでいるのが――』


 次第に表情が青ざめていくソールとマーニは恐る恐る……停止寸前の機械のようにぎこちない動きでテレビに少しずつ振り向く。


『わふっ!』


 トラウマを植え付けた天敵、、が、二人の視界に映った。


「「いやあァァァァァァァァ――――――ッ!!!!」」

「おぉっ!? ど、どうしたんだお前ら!?」


 女神達の情けない叫喚が、進児の部屋をびりびりと揺らす。

 ソールとマーニが悲痛な叫びを上げる意外な光景に、進児と他の大精神は驚き、呆然のままにそれを見届けた。


 この時の出来事は、彼女達にとって掘り返したくない苦い記憶として刻まれた。

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