4 背中越しに

「ふふ、やっぱりここにいた」


 頭上に聞き慣れた声が響く。闇の中を彷徨っていた意識が、すっと明るみを帯びていった。

 まぶたを開けるとそこに、逆光の中で自分を見下ろす誰かの影があった。すぐに目が慣れて、彼女の表情が読み取れるようになる。

 彼女は今日もにこやかに笑っていた。


「おはよっ」

「こんな状況で、随分と機嫌が良さそうだな」


 身体を起こしながら、グラントは言った。


「もちろん、機嫌はいいよ。どうやら無事だったみたいだしね」

「まあな。大した怪我じゃない」


 グラントは自らの腹部を指し示す。流れ矢を受けて出血が止まらなかった時はさすがにまずいと思ったが、味方の転送魔法でなんとか逃げてこられた。

 そしてこの『魔女の墓』で一人治癒魔法を施していたわけだが、いつの間にか意識を失っていたらしい。


「ところで戦況は? お前も一時撤退してきたのか?」


 パッヘルは黙ってかぶりを振った。


「終わった」

「お、終わった?」

「ええ」


 にっこりと頷く。


「討伐隊は全員撤退していったわ。怪我人は、一人で突っ走って流れ矢を受けた誰かさんだけ」


 グラントは唖然とした表情を浮かべた。


「嘘だろ。まだ陽が高いぞ……?」

「だいぶ、魔法の使い方もさまになってきたみたい」


 両手をかかげて、パッヘルは悪戯っぽく笑った。

 討伐隊の奇襲の第一報は朝食時だったはずだ。それから戦争状態に移り、わずか数時間で勝利してしまったということか。


「だって、五年前だったか? 前に攻めてきた時は三日三晩戦い続けて……」

「あの時は魔法が使えるようになったばかりだったからね」

「まったく……」


 ふうとグラントは呆れたような、安堵の息を吐く


「悪魔と契りを結んで得た力ってのは末恐ろしいな。国の精鋭たちをまとめて始末しちまえるなんて」

「あたしは契りを結んだ覚えなんてないもん」


 そう言いながら、パッヘルは唇を尖らせた。


「それに誰も始末なんてしてないわよ。ただ、魔法で相手の戦意を削いだだけ」

「同じことだろ」

「同じじゃないもん」


 それから二人は、どちらからともなく空を見上げた。

 雲一つない青空を渡り鳥が横切っていく。


「まあ……おつかれ」

「うん!」


 パッヘルはまた満面の笑みを浮かべた。




 母であったはずのパッヘルが記憶を失ってから八年ほどが経過していた。

 ぎくしゃくしていた時期もあったが、現在では互いに良き友といえるような仲となっている。もちろん母のことをあきらめたわけではないのだが、それ以上に現在のパッヘルとの関係が大事なものになりつつあった。


「それにしてもあなた、本当にこの場所が好きなのね」

「え?」


 唐突な言葉に虚をつかれる。


「この場所はあたしたちだけしか知らないんだから、転送魔法で直接ここに送ることはできないはずよ。わざわざ傷の治療のためにここまで歩いてきたってことでしょ」


 なんだか恥ずかしくなり、グラントは視線を逸した。


「あいつの魔法が未熟だったから、この付近に飛ばされたんだよ」

「屋敷から血の跡が点々と続いていたわよ」


 むぐっと口をつぐんでしまう。


「ちゃんと隠しといたけどね。ここは秘密の場所なんだから」

「それ、随分とこだわるよな」

「だって、お母さんだって秘密にしてたんでしょ? あたしはその意志をきちんと引き継いでいるの」

「母さんは別にそんな深い意味はなかっただろうよ。現実的な人だったしな」

「えー?」


 一時は母のことも二人のあいだで禁句となっていたが、いつしかすんなりと話せるようになっていた。


「さあ、そろそろ館に帰ろうぜ」 


 言いながら、グラントは立ち上がった。


「みんなもお前のこと心配してるだろうしな。いや、もう祝勝会の準備でもしてるかな」

「ねえ」

「ん?」


 パッヘルは座ったまま、グラントの服の袖を引っ張っていた。


「なんだよ。歩けねえだろ」

「ひとつ約束してほしいんだけど」

「ああ? なんだよ」


 表情を伺おうにも、彼女はうつむいていてうまく読み取れなかった。或いは、それは意図的なものだったのかもしれない。


「な、なんだよ……」

「もう二度と無茶しないでね」


 声色は相変わらず穏やかなままだ。


「無茶って……」

「背後の弓兵部隊が私を狙っているのを見て、単独で突撃したんでしょ? 私だってちゃんと気がついて、魔法で距離感を惑わせておいたのに……」

「いや……」


 一瞬だけ言葉を詰まらせる。


「も、もしものことがあったらと思ってよ。戦は大将を失ったら負ける。つーか、お前を失わないための戦なわけだから……」

「そんなの関係ないわ」


 パッヘルは言った。それから、顔を上げて真っ直ぐにこちらを見つめる。


「もしあなたが死んでしまったら、私は……」


 思わず息を呑む。彼女の瞳がかすかに涙で濡れていたからだった。

 その時グラントは、初めて自分の内なる想いに気がついた。いや、とっくに気がついていたはずなのに、敢えてそれに触れようとしなかっただけなのかもしれない。


 パッヘルのことが好きだ。

 胸が張り裂けてしまいそうなほどに。


 悪魔と契りを交わして魔女になり、自分を育ててくれた母親だったはずの彼女――しかし、グラントが惚れたのはそんな彼女にではない。

 すべての記憶を失って、わけもわからぬままパッヘルの名と魔力を継いだ、目の前にいるこの女性を好きになってしまったのだった。


 はたしてその想いは罪なのだろうか。悪魔と契りを交わした魔女――とはいえ、彼女は何も覚えていないのだ。

 しかし、罪だと認識していたからこそ、グラントは真の心を封じ込めてきたはずだった。

 そして、それはこれからも変わらない――変わってはいけないことだと自分に言い聞かせるのであった。


「約束はできない」


 と敢えてそう返す。

 パッヘルは心外そうに目を丸めた。


「どうして?」

「命を懸けてお前を守ることが、俺に課せられた使命だからだ」


 パッヘルはしばらく閉口したままだった。その表情は思い詰めたようにも、ふて腐れたようにも見える。 


「だったら」


 やがて、口を開く。


「あなたが死んだら私も死ぬわ。それなら……」

「ふざけたことを言うな。とっとと帰るぞ」


 そう言い捨ててから、グラントはパッヘルに背を向けて歩きだした。

 その時、背中越しに確かに聞いたのだった。


「愛してるわ。グラント」

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