3 二人の話

 パッヘルの記憶が失われてからも、グラントは毎日『魔女の墓』を訪れていた。

 空が木に覆われた森の中では、天気の観測さえもままならない。今日ここにきて初めて、空が曇天模様だということを知った。今にも雨が降り出しそうだった。


 彼は構わず大岩の脇に腰かけ、そのまま仰向けになった。


 幻夢の森一掃作戦――先方は随分と思い切ったことをしでかそうとしているようだ。

 五十年前もパッヘルは記憶と共に魔力を失っていた。ところが、魔力だけが自然と彼女の元へ戻ったのだった。ある朝突然、『魔法が使えるようになった』と彼女が騒ぎ立てたのである。


 その時、少なくとも記憶喪失から一年以上は経過していたように思う。

 すると、今回も魔力の回復に長い時間を費やさねばならないのか。もしくは、何か別のきっかけがあったのか。後者だとするとそれはいったいどんなきっかけだったというのか。

 必死に思い出そうとするが、何分大昔のことだ。印象に残った出来事は多々あれど、それがどの時期の出来事だったかまでは覚えていない。


 討伐隊はすでに動き出しているだろう。早ければ明日、明後日には戦いが始まってしまう。それまでにパッヘルの魔力が回復する見込みは限りなく薄い。

 ならば腹を決めるしかない。自分のすべきことはただ一つ。生命に代えてもこの娘――パッヘルを守り抜くことだけなのだから。




「ねえ、ねえってば!」

「ん?」

「『ん?』じゃないでしょ! 急に私を放ったらかして自分の世界に入らないでよ」


 見上げてみると、パッヘルは所在なさげに大岩の近くに佇んだままだった。


「なんじゃ? そんなところに突っ立っとらんでさっさと座らんか」

「う、うん……」


 なんとなく居心地が悪そうにしながら、パッヘルが隣に腰を下ろす。


「どうした? 便所か?」

「違うわよ! そうじゃなくて、なんか申し訳ないなって気がするだけ。ここはあなたとその……パッヘルの、二人だけの秘密の場所なんでしょ?」

「パッヘルはお主じゃろうが」

「そうなんだけど……」


 彼女に教えてもらったこの場所を、彼女に教えてやるのはこれで二度目だ。

 五十年前のように感動してはしゃぎまわって転んでしまわないか少し心配だったが、思ったよりも薄い反応でひと安心だ。

 いや、本音をいえばがっかりもした。反応が薄いのは空が曇っているせいでもあるだろう。


「こんな場所で、二人でずっと何をしてたの?」

「特に何もしとらん。こうやって寝そべって、時間が経つのを待っとった」

「ふふ」


 パッヘルはくすりと笑った。


「なにそれ。熟年夫婦みたいじゃん」


 ふと彼女の肩に小鳥がとまる。彼女は近くに転がっていた木の実を細かく割り、小鳥に与えてやっていた。

 そんな様子を眺めていると、彼女が記憶を失っていることなど忘れてしまいそうになる。その仕草も笑顔も、あの日のままではないか。


「……晴れた日にまた来たいな」

「ふむ。毎日通ってれば、そのうち晴れるじゃろ」

「なんなの? その草の根理論みたいなの」

「何事にも根気が必要だということじゃ」

「でも、ちょっともったいないよね」


 周囲をキョロキョロとパッヘルは言った。


「何がじゃ?」

「二人だけの秘密ってとこがさ。晴れた日にアザミたちと一緒にピクニックでもしたいなーなんて」

「ああ、わしは別に構わんよ。二人だけの秘密にしようと躍起になっておったのはおぬしのほうじゃ」

「そうなの?」

「誰にも後を尾けられぬように、魔法まで使っておったわい」

「なんていうか、私……ケチな性格だったのかな」

「そういうわけじゃない」


 二人の会話はしばらく途切れた。

 その沈黙の妙な気まずさから、目の前にいる娘が自分のよく知るあのパッヘルではないということを思い知らされる。二人のあいだに、気まずい沈黙など存在しなかったはずだ。


 風も少し強くなり、木々がざわめき始める。いつの間にか小動物たちの姿が消えてしまっていた。彼らに倣ってそろそろ雨から逃れておいたほうがいいかもしれない。


「さて、そろそろ……」


 身体を起こし、館へ戻ろうと提案しようとした時だった。


「ねえ」


 パッヘルは曇った空をぼんやりと眺めていた。


「ん?」

「二人の話を聞かせてよ」

「二人っていうと、それはアザミとガナールのことかの?」


 とぼけるようにグラントは言った。


「ち、が、う、でしょ!」


 言いながら、グラントに向き直る。、


「あなたとパッヘルのこと。あなたと……記憶を失う前の私とのこと」

「ああ」


 グラントももう一度空を眺める。やはり雨が近そうだが。


「それじゃあ、ちょいと昔話でもしてやろうかの。昨日の答えが聞きたいわけじゃろ?」

「そういうこと」


 五十年前まで母であったパッヘルと、五日前に娘になってしまったパッヘル。

 その中間の、もう一人の彼女は自分にとってどんな存在だったのか。


 ――もはや、考えるまでもない。


「わしはおぬしを愛しておった」


 パッヘルは驚くでもなく、ただじっとグラントを見つめていた。

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