第13話 12
スポーツ用品店の一角で、ハンガーにかかったウェアーを取っては眺め取っては眺めていたら、ちょび髭のあるエプロン着けた人の良さそうなおじさんが寄って来た。
「ランニング用? 競技用?」
いやーちょっと始めようかなと思ってまして。そうなの。初心者だとこういうのがいいかなぁ。これとかこういうヤツもいいんじゃない?
ハアと答えながら、実は芝居でマラソンマンの役をやる事になったのでその衣装の為に見ているんですなんて言えなくなっていた。
「きれいな口紅」が終わり、じゃあ次は来年の6月の公演だと思っていたら、
「12月8日 緊急劇団会議。団員はできる限り出席する事」
と劇団員全員にお達しがあった。なんだなんだと思っていたら、その三日前の稽古が終わった後、田丸さんと駒込さんに話しがあるから残れと言われた。
「実はな、今度の会議で、来年三月に稽古場公演をやる事を発表する予定なんだ。
演出は駒込がやる。役所ひかるの「崩れた絵画」という作品だけど読んだ事ある
か?」
ないですと首を横にふる。
「この作品で、マラソンマンが出るんだけど、それを君にやってもらおうと思って
な。それで、3月って年度末だから、奥村の仕事の方の都合とかはどうなの
かってのを聞きたいってわけなんだよ。年度末だと忙しくなるとかあるだろ
う?」
そうかそういうことか。普通の時間の飲食系だと、会社の歓送迎会とか卒業パーティーとかで忙しくなるのかもしれないけど、深夜の焼き鳥屋に年度末なんか関係ない。
関係ないんで大丈夫です。と言うと、田丸さんも駒込さんもニコッと微笑んで、駒込さんは「奥村よろしくな」と握手を求めてきた。
そして、緊急劇団会議の日にそれが発表された。他のキャストは、欣二さん。美代子さん。菊池さん。吉田さん。主役はみっちゃん。
僕がやるマラソンマンはセリフが多く、ストーリー前半に出てそのまま出ずっぱりという役だ。よーし、気合い入れて頑張るぞー!とテンションが上がり、まだ本読み稽古も始まってないのに衣装の下見でスポーツ店に来て店員にからまれていたのだ。
ちょび髭のおじさんのおススメウェアーのプッシュにちょっとびびり、ああ、また来ますぅ。と愛想笑いをしながらそそくさと店を出ていった。
この作品は、登場人物に名前は無く「男1」「男2」「女1」「女2」と数字で表されており、僕は「男2」だ。通りすがりの人たちが、道に置かれたテーブルとその上のごちそうを見て、それぞれの反応を示していく―というストーリーだ。毎回のそしてもういつものように、よーしこの演技でオレの実力をみんなに証明してやる!という勝手にわいてきた自信の塊だった。
「今回、お前は、途中までセリフ喋りながら走り続けているんだ。止まっていても足踏みしているの」と駒込さんに指示されたので、休日の早朝にスウェットやパーカーで走るっぽい恰好に着替え、本当に久しぶりに近所の公園まで走ってみた。
高校の時に軟式テニス部だった僕は、練習開始前のアップのグラウンド5周が嫌
だったので、走ってないのに走りましたと言い、顧問に「嘘つくんじゃねえ」と殴られたぐらいランニングなんて嫌いなのだ。でも久しぶりに走ると汗をかいて気分がイイ。・・・とはならずに、1キロくらい走った所で既にゼエゼエという呼吸になってしまった。しまった最低でも5キロくらいは走ろうかと思っていたのに。でもまあ初日はこんなもんだろう。役作りの為に走るなんてカッコいいなオレ。と自分を納得させて、帰りはプラプラと歩いて帰って来た。
本読み稽古が開始となる。
ストーリーは、最初はみっちゃんと美代子さんの親子が歩いていて、道端にテーブルとごちそうを見つける。そこに薬屋の欣二さんが通りかかり、三人で誰もいないのにごちそうがあるのをどうしようか議論するのが一景。その次の二景の最初に、マラソン途中の僕がテーブルのジュースを飲んでしまい関わっていくのだ。
「あなた、それを飲んで大丈夫なんですか?」
「え?でも、これはあれする為にここにあるんじゃないですか?」
「あれって、あの事ですか?あの・・・マラソンとかの途中でよくある」
「そうですそれです」
「でもこれはあれとは違うと思いますよ」
「そうなんですか?」
「おそらく・・・あれって、よくテレビのマラソン中継とかである、水とかを
こうやってこうする」
「そうですよ」
「なんて言いましたっけ?」
「えーと・・・」
「たしか、給水。って言いませんでした?」
「そうそう。給水です。よくご存じでしたね」
とまあこんな感じで、「あれ」とか「これ」で何かを示す事が非常に多い芝居だ。最初から最後までこんな感じのセリフがほとんどである。正直言って、声に出して読んでいても、どこを読んでいるのか分からなくなるくらい。読んでいても「これですか」「あれですか」など似たセリフのオンパレードなので、どんどんパターンが同じになっていってしまう。
一番経験値の少ない僕だけじゃなくて、みっちゃんも美代子さんも欣二さんも菊池さんもセリフの言い方に苦しんだ。田丸さんも駒込さんも本読み稽古の時から僕たちに訴えているのは、同じ「そうですか」でも、そのセリフの出る前のセリフの流れによって、全然異なる意味や出し方になるはずだ。興味のない事の同意だと軽い「そうですか」になるし、自分が思った通りなら強い「そうですか」になる。早くそこを捕まえないとこの戯曲は「ただセリフを喋っているだけ」になってしまうぞ。
そうは言われても、やっぱり出来ない。最初に読んだ時に頭の中でセリフの言い方が固まってしまっているから、その言い方が違うと言われるともう引き出しの中は空っぽである。
役者の中で唯一ダメ出しされていないのは吉田さんだった。吉田さんは菊池さんと新婚夫婦という設定で3景から出てくるが、本読み中に主にダメ出しをされるのは菊池さんばかりで、吉田さんはわりかし平然としている。僕はどうしてなんだろうと思い吉田さんに「どうやってるんですか?」と尋ねてみた。すると
「別に。これ読んだ時にさ、「これ」ってのはこのパンを指してるんだな。
「あれ」ってのはこのかばんを指してるんだなぁと思って。で、そのまんま
読んでみた。それだけなんだよ」
へ?さっぱりわからん。でも分からないですって言うのもなんだか悔しいので、なるほど参考になりましたとその場は言っておいた。
そんな風にダメ出しが乱発していて、年の瀬も押し迫りキャスト以外の劇団員は仕事や家庭の都合で稽古の欠席も増えていき、稽古場が閑散とした中で本読み稽古は終了した。
焼き台の上に並べられた焼き鳥がパチパチと爆ぜて、それをお兄さんがくるッくると手際よく回していく。なるほど焼ける音でもお客さんは楽しんでいるんだなと実感する。
ここは近所の焼き鳥屋。高校時代に同じクラスだった加賀が、正月になって地元に
戻ってきたので、やはり同じクラスだった坂口と一緒に飲みに来たのだ。加賀は高校卒業後、自衛隊に入隊したので、そこでの集団生活や訓練の様子をアレコレと話してくれた。
「で、どうだ?勉強になるのかよ」
「へ?」
「分かんないかな?奥村が焼き鳥屋で働いてるって聞いたからこの店にしたんだ
ぞ。他の店で色々見て技を盗んだりするんだろ?」
「ああそっか。まあ勉強にはなるよ。こうやってカウンターに座って見る事って
無いからな」
「どうなんだよ?ゆくゆくは焼き鳥屋やりたいの?」
「・・・・・」
言葉が出なかった。確かに店に来るお客からは「独立できるようにがんばんな」的な事はよく言われるが、将来も焼き鳥屋をやろうなんてつもりは一切無かった。
「奥村はさ、芝居の劇団に入ったんだよな」と坂口がフォローしてくれた。
「芝居?それっていくらもらってんの?」
痛いところつきやがる。「いや・・・どっちかって言うと払ってる方だよ」
「じゃあ、役者になって売れるの目指してんのか?」
「そういうわけじゃないけど・・・」と言葉を濁していると、
「なんだよ煮え切らないなぁ。店持つ為にがんばってるわけでも、役者で売れる
ためにがんばってるわけでもないのかよ。それじゃどうやって食ってくんだよ。
もう二十歳すぎたんだぞ。ガンバレよ」と励まされてしまった。
「ん・・・うん」とうなづき、生ビールのジョッキをぐっとあおっていたら、
「あのさぁ、坂口は旅行の添乗員になりたくて専門行ってるんだろ?オレは自衛隊
で色々学んでいる。でも奥村は、どこも中途半端でハッキリ言って前進してない
じゃないの?足踏みだよな足踏み。人生の足踏み。前に進んでるつもりになって
るけど進んでないの」
加賀はそう言って、「俺いい事言ったな今?そうじゃない?」と自分の言った事に納得したように喜んでいた。
夜中の正月の住宅街を歩いていると、他に人通りはほとんど無かった。
「ゴメンな。俺が劇団に入った事言っちゃったからあんな事になっちゃって」
並んで歩く坂口が謝ってきた。もう加賀とは別れて二人だけになって少し歩いたところでだ。
「ああ。まあしょうがないよ」人生足踏みだと言われて平気だったと言えば嘘になる。けど的を得てると思った部分もある。
「でもさ、去年観た芝居、警察官のやつと寿司屋のやつ。両方とも面白かったぞ」
「ありがと。いつもすまんネ。チケットとかお願いしちゃって」
坂口は小学校からの友達で、面倒見のイイ男だ。劇団員は公演ごとにチケットを配られて、それを買い取らないといけない。そのチケットを友人達に配って金を集めてもらうのをいつも坂口にお願いしているのだ。
「いいよ気にすんなって」と言った後、坂口はなんだか考え込む表情になって、
「でもさ・・・オマエ、舞台に出てくるとなんか面白いんだよな」
「あ・・・そうなの?」突然の誉め言葉?なのか?
「なんかさ、オマエ出てくると楽しくなって見ちゃうんだよ。
あれなんだろうな?」
「さあ・・・」と答えながらもちょっと喜んでいる自分がいた。
「次に出るやつも面白いんだろ?」
「まあ・・・今、稽古中だからさ」返事に困る。正直言って、ダメ出しばかり
もらって稽古で何一つうまくいかない中で、面白いものを作っているような自信は全くなかった。
「がんばれよ。応援してっからな」
こんな俺の演技を観て楽しいと言ってくれる人がいたのか。それが長年の友達で内輪の事だとしても嬉しい。次もがんばろうかってちょっとでも思える。そうか。喜んでくれる誰かの為にやるのを「お客に見てもらう為の演技」っていうのかな。それなら、今までの僕は、周りに認めてもらって自分が納得するような「自分の為の演技」しかやってなかったのかもしれない。
「マスター!あけましておめでとおぅ!」
よぉおめでとう!と加山さんが答えて、おめでとうございます。と僕がぼそぼそと挨拶するこのパターンをこの夜は何度やってるのやら。今日は1月4日の夜で、今日からお店を開く水商売の人が多いので、この日も「鳥よし」は盛況だ。
「マスター、正月太りなんじゃないの?」と飲み屋のお姉さん達にからかわれて、自分のお腹を叩きながら「3キロくらいしか太ってねえよ」と笑って返す加山さんも嬉しそうだ。まだ正月だからかみんながどこかうわついた気分でいる。そのためか、お年玉と言ってチップをくれるお客さんも何人かいるから、僕も少し気分良く働いていた。
朝のゴミをまとめて出そうとしていると「ようちゃん。今年もよろしくな」とカウンターで焼酎水割りに梅干しを入れてチビチビやってるマッサージ師の太一さんが声をかけてきた。
「あ、今年もよろしくお願いします」
「しかしまぁ、ようちゃんは相変わらずゲイっぽいよね」
「太一さん、正月一発目がそれですか?おかわりって言っても焼酎入れないで
水だけにしますよ」
「ガハハハ。ごめんごめん。ようちゃん見るとつい言っちゃうんだよな」と、体重百キロ越えのでかい体を揺らして笑っている。
太一さんは加山さんと長年の友達で、マッサージ師の腕はかなりいいらしい。腕のいい人は個人の名前で指名が入るそうなので、マッサージ紹介所みたいな事務所に一晩待機して電話で指名があったら行く。という仕事のやり方みたいだ。で朝に仕事が終わってふらっとこの店に飲みに来ている。来ると客がいなくなるまでダラダラといて加山さんと話していたりするので僕ともいろいろと話すようになり、お客さんなのにちょっとな言い方が出来るくらいの間柄になっていた。
時間が経ちお客もいなくなってきて、カウンターに太一さんだけが座り、加山さんと二人で後片付けをしている時に「どうなのよ?演劇の方は?」と聞いてきた。
「まあ・・・三月にまたやるんで、今その稽古やってますよ」
「そうか。がんばってんだな・・・役者になりたいの?」
「いやそういうわけでも・・・」自分的に芝居やってる=役者を目指してます。って図式がどうにも照れくさい。
「あのさ、ゲイってのは役者に向いているんだぞ」
「そうなんですか?いやいやでも俺ゲイじゃないですよ」
「でもゲイっぽいだろ。ゲイの人って感性が違うからさ、他の人と違う演技が出来
るんだよ。今売れてる役者だって、ゲイのやつ多いぞ」と有名な役者の名前を何人か出してあれとあれはゲイだ。と言い出した。そういう有名な俳優に呼ばれたマッサージ師仲間が施術中に誘われたとかいう情報らしい。
「役者の、売れるとか売れないとか、うまいとか下手とかってどういう事なん
でしょうかね?」
太一さんは、「ヘ?」という顔になった。
「だから、野球選手だったら、打率とかホームランの数とかで成績が数字で出る
じゃないですか。でも役者っていい演技とか上手いとかって数字じゃ出ません
よね?」
「そうだなぁ・・・スターって呼ばれたのが、みんながみんな芝居が上手かった
かって言うとそうじゃないしなぁ」と有名な何人かの名前を出しては「あれは下手だった」とやり出した。そして高倉健の名前を出すと、加山さんが「ふざけんなお前、健さんの悪口言うんじゃねえよ」と脇から入ってきた。加山さんは健さんの大ファンなのだ。しばらく高倉健の演技について言い合いが続く―。
「でもさ、高倉健だけじゃないけど、有名な人って芝居の良し悪しは別にしてて
も、何かやってるとそれ観てて面白いんだよな。つい見ちゃうって言うか・・・
だから、演技力のあるなしだけじゃなくて、そういう部分も必要なんだよな」
太一さんはそう言いながらグラスの中の梅干を箸でつつきながら「まあどうすれば役者として成功するか分からないから、難しいんだろうけどよ」と笑った。
年が明けると、稽古は「半立ち稽古」と呼ばれるものになっていく。
これは、役者はまだセリフは入っていないから、脚本を片手に持ったまま思ったように動いてみるという形の稽古だ。それを見ながら演出家は動きを直していく。
今まで僕が演じてきたのは警察官と寿司屋であり、なんだかボンヤリとしたイメージを持つことが出来た。「警察官ならこう動くだろうな」「寿司屋ならこうやってハキハキ動くだろうな」とか。だが、今回は「マラソンマン」でコレやアレというセリフの多い役柄だ。
女1「これをアレしようなんてつもりは、私達全然なかったんですよ」
男2「でも、今こうなっちゃってますよね」
男1「これは大変ですよ。ここまでアレしちゃうと」
女1「だから不可抗力ですって」
男1「私もさすがにこれはまずいなぁと思います」
女1「だから私達じゃないんですって。ねえお母さん」
女2「そうですよ。私とこのコだってこれ見てびっくりしているんですから」
男2「じゃあ、コレをあれしたのは誰なんですか?」
こんなセリフのやり取りの中で、どうやって動けと言うのだ。セリフをしゃべる事に集中しすぎると動きが止まってしまうし「そろそろ動かないといけないかな」なんて考えながら動いてしまうと、とても不自然な動きになってしまう。
稽古を重ねていくと、日に日に演出の駒込さんの表情が暗くなっていった。
駒込さんは、今回の「崩れた絵画」で演出するのは二度目だ。ただ、一度目の演出は船井さんの一人芝居の演出だったので、二人以上の演出をするのは初めてになる。しかも脚本はコレやアレという指示代名詞が多くて演技として表現するのが難しいものだ。
駒込さんの頭の中では「こういう言い方でこうやって動けばいい」というのが
分かっているのだろう。でも演じている僕達はそこまでは分かっていない。僕達が動いていると「はいストップ」と止めて「どう言えばいいのかなぁ」とブツブツ言いながら出てきて、駒込さん自身で演じてやってみる。そのままの言い方や動きを役者がコピー出来ればいいのだけど、やっていても「さっきの駒込さんとはなんか違うぞ」というのはおぼろげに分かるし、駒込さんもまた「はいまたストップ」と止める。そんな事の繰り返しで、稽古場の雰囲気はどんどん重くなっていった。
僕奥村洋平は、自分の演技の出来なさ加減に我ながらびっくりしてしまうほどだった。自分は役者として着実にステップアップしていたつもりだったが、「演技出来ないんだなぁ」とひしひしと感じていた。
演技出来ないポイント①は、まずマラソンマンとして舞台に出ていて3分間すぎると何をしていいか分からなくなり、ただセリフの順番を待ってしまっている。当然のように駒込さんから「何かしてくれ」と言われ、じゃあと何か考えてやってみるが、それもただやってるだけ、自然にやった事には見えなくなってしまっていた。
演技出来ないポイント②は、芝居はお客さんに見せる為のものだが、そのお客さんの視線という感覚が全然無かった。「自分が客から観てどう観えているか」という事が分かっていない。だから「ミカンがありましたよ」と言ってミカンを出すという演技なのに、ミカンがお客から全く見えないような角度で出したりしていた。
演技出来ないポイント③は、自分の動きのイメージが全然出来なかった。駒込さんに「こう動いてみてくれ」と指示された動きをなんとかやろうとしているのだが、大きな動きになると「気恥ずかしさ」を感じて緊張して身体が固まってしまい、身体が全然動かなくなる。頭の中の自分は「これくらい腕を伸ばしてるんだろう」と考えていたが、実際はその半分くらいしか腕が伸びてなかった。という事が多々あった。
演技出来ないポイント④は、毎回演技を止められてダメ出しされると「ああ自分って才能無いんだ」とその都度へこんでいた。「落ち込んで悩む=役者として苦しむ」とどこからか間違った思考を持ってしまった部分もある。でも毎回稽古でへこむ役者ほど空気を重くするものは無い―。しまいには、自分で演じてみせる駒込さんを見ながら「駒込さんがこの役やればいいんじゃないかな」とまで考えてしまっていた。
主役のみっちゃんも苦しんでいた。みっちゃんは出番が一番多いのに、銀行の仕事が時間通りに終わらないので稽古に遅刻したり休んだりという事がちょくちょくあり、稽古不足は誰の目にも明らかだった。いつもニコニコして周囲を和ませているみっちゃんだったが、稽古の時にあまり笑わなくなっていった。
みっちゃんだけでなく、母親役の美代子さんも、薬屋役の欣二さんも、新婚夫婦の妻役の菊池さんも、みんな表情は暗い。新婚夫婦の夫役の吉田さんはわりかし平然としているものの、演出も役者もこれだけの人間がどよんと澱んでいると、吉田さん一人だけじゃどうしようもない。こんな状態で果たして本番を無事に迎えられるんだろうか?と役者である僕自身が一番不安だった。
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