第5話  4

 土曜日の朝の伊勢佐木町は人気も少なく静かだった。開いていない店のシャッターの前には、真っ黒に汚れたおじいさんや昨晩飲みすぎた若者が転がっていた。

 そんな伊勢佐木町の真ん中を僕は歩幅大きく歩いていた。いよいよ「トラップワイフ」の本番、初めての舞台出演だ。これで「あのいて座の新人の俳優は誰だ?」「すばらしい」なんて話題になったらどうしようか? あの焼き鳥屋も辞めちまうか? 女のコにもモテちまうか? そしたらカノジョも出来るなぁ。かわいいカノジョにきらきらした目で「あなたの演技は最高ヨ!感動しちゃった!」なんて言われたら困っちゃうなぁ。う~ん、映画監督になるつもりだったけれど、映画俳優になっちゃうかもなぁ。忙しくなりそうだなぁ。困ったなぁ。あ、サインの書き方とか考えとかなくて大丈夫かな? 今日の本番観た人が感動して「サインください」なんて言われたら・・・あー、芸名もどうする? 本名だと家にまでファンが来ちゃうかもしれないし・・・う~ん・・・困った・・・・


 劇場に入ると、団員全員が客席に座って軽く朝礼をする。田丸さんが昨日のリハーサルでのダメ出し、スタッフとの再確認をした後、最後に「よろしくお願いします!」という大声で各自が自分の仕事にそれぞれ散っていく。

 役者は、衣装に着替えてすぐに舞台上に集合し、田丸さんが気になったシーンをやり直す。

 スタッフは、リハで気付いた所を修正していく。小道具が持ち道具の確認に走り回り、ガンガンガン!とナグリで釘を打つ音が響く中、吉田さんや湯座さんが田丸さんの言葉に耳を傾けている。

 

 「アンタ、緊張してるの?」

 客席に座っていたら、菊池さんが太い身体を揺らしながら横に立っていた。

 「いや・・緊張ってわけでもないですけど・・・」

 「奥村君さ、緊張しなさそうだもんね」 

「いや緊張しないわけでも・・・」と答えようとしたら、どこからか「菊池どこだー?」と大声がした。

 「ハーイ。今行きまーす!・・・まあいいわ。がんばんなさいヨ」

 とのっしのっしと去っていった。なんなんだ一体?


 お客さんが入ってくるのは、ロビーや客席にあるカメラを通して舞台袖のモニターに映しだされる。それなりに着飾った様子の老若男女が、ほとんどが二人や三人で連れ立ってチケットを受付に出していく。時間が進むにしたがって、座席の人影がどんどん膨らんでいった。もちろん僕の知らない人ばかりだ。こんなたくさんの人間が、わざわざ時間を取って、電車やバスを使ってこの劇場に集まってきたのだ。と言うと、僕が何かミスったりしたら、二百人以上の人たちが「今日は時間をかけて観に来たけどあそこでミスっていた」と思わせてしまうんだなぁ。そうしたら、いくらごめんなさいって謝ったって足りない。もう時間は戻らないんだから。

 時計の針はそんな僕の気持ちを見透かすかのように淡々と回っていき、開演3分前の1ベルのブザーが場内に響いた。

 ブウうううううう。

 すると、あれだけざわついていた客席の空気が変わっていく。お客さんたちの「本番始まるから準備しないと」という一人一人の気が発生していく。それは一つ一つは小さいけれど、場内でそれぞれがどんどんくっついていって、あっと言う間に大きな塊になっていくかのようだ。

 「よろしくお願いします」と吉田さんが舞台袖の役者一人一人に挨拶して舞台に入り、真ん中の板付き場所についた。

「二ベルお願いします」舞台監督が言うと、再度ブザー音が場内を騒がす。

 なめらかな音楽の後で緞帳がゆっくりと上がり、空気がまた変わった。

 緊張。集中。暗闇。声。熱。闇。光。の入り混じった空気に―。


 本番はトラブルもなく、順調に進んでいった。いよいよ警察官の最初の出番が近づいた。

 暗いドアの裏で、警部役の欣二さんと警察官二人で息をひそめている。きっかけとなる、湯座さんの「キャアアアア」が出た。

 ドアを開け、光の中に飛び出していく―。

 昨日のリハで見た光景とほぼ変わらなかった。ただ違うのは、何百というお客さんの目がこちらに向かっていることだ。たったそれだけの違いなのに、それだけじゃない。舞台上に漂っているものも吉田さんの顔も湯座さんの表情も、全部が違いすぎている。とてつもない緊迫感だ。本当に昨日リハをやった所と同じ劇場でやっているんだろうかと疑うほどに―。

 プハ。

 思わず噴き出した。「みんな真剣に何やってんの?いい年した大人が。ウソ?笑えるぅ」とか思ってしまった。一瞬してから、あヤベエ俺いま警官で殺人現場に踏み込んだ所だった、と思い直し、慌てて口を真一文字に結んだ。

 吉田さんに駆け寄って腕を抑えて、暗転―。舞台袖に戻ったら、誰かに「何笑ってんだ!」と怒られるかなとちょっとビビったが、誰も何も言ってこなかった。そうか、セリフの無い警官の表情なんて誰も見ていないんだなぁとホッとしたような寂しいような気持になった。

しかし、役者って、ちょっと笑ってしまっただけでそれまでの舞台をぶち壊しにしてしまうんだなぁ。たくさん稽古して、本番の緊張感を耐え続けても、演技が下手だとか顔が悪いとか声が悪いとかなんてボロクソに言われたりもするんだ。じゃあ、役者のやりがいってなんなんだろう?

 なんてことをぼんやり考えながらも、舞台の上では、役者と観客の時間が続いていた―。

  

 初回の公演は無事終わり、僕も舞台のすみっこでペコリと頭を下げてカーテンコールを味わった。役者全員が少し上気した顔で「お疲れ様です」を言い合っている。役者達はみんな劇場のロビーで来てくれたお客さんとあいさつをしているが、僕はこの回は誰も知り合いが来ないので楽屋に戻ったら、衣装の美代子さんがせっせと役者が途中で着替えた服を整理していた。

 「あら? ロビー出ないの?」

 「知り合い、来てないんですよ」

 美代子さんは「そうなの~。じゃあ夜の回に来るの?」と言いながら、スーツとワイシャツをハンガーにかけた。

 「あの・・・ちょっと聞いていいですか?」

 「なあに? どうぞ~」

 初舞台が終わったすぐ後ということで、僕の中にも高揚感があったのかもしれない。

 「美代子さんも仕事しているんですよね?」

 「仕事? まあ、スーパーのパートのおばちゃんだけどね」とメガネの中の目をクリっとこちらに向けて答えてくれた。確か、前に子供たちは大学生くらいだったと話していた覚えがある。

 「仕事だけで大変なのに、他の人が役者で出るための衣装を、なんでやってられるんですか?」

 ん?と眉間にしわを寄せている。何かうまく伝わらなかったみたいだ。

 「だから・・・自分が出るわけじゃないのに、何で人の事なのに出来るんですか? 衣装担当が仕事なら分かるんですけど、これでお金もらうわけじゃないですよね? なのに休日つぶしたりして、よく出来るなぁと思って・・・」

 美代子さんはようやく納得できたのか、アーアーと微笑みながら頷いている。そして、作業の手を止め、こちらをしっかりと見つめて喋り出した。

 「そりゃ私だって役者として舞台立ちたいよ。今回のだって、面白い脚本だから、出たいなーと思ってた。でもさ、みんなと一緒になって、きれいなものを造るのって、楽しいんだよ。」

 「きれいなものって、今回の「トラップワイフ」ですか?」

 「そぉ」

 「きれい・・・ですか?」汚いおっさんどもが怒鳴り合って建て込んでいる場面や出ている役者みんなの顔を思い浮かべたが、お世辞にもきれいなものとは言いにくい。こっちがちょっと腑に落ちてない表情なのを察して、美代子さんは「あのね奥村君」と言葉を続けた―。

 「どんなものでもね、演劇って、きれいなものなのよ。そりゃあ、すごいつまらないとか途中で寝ちゃったとか言う芝居もあるけどね・・・でもね、どんなものでも、表に出ていない裏方さんが何人もいて、その人たちが、良いものを造ろう。って気持ちでやっているじゃない。一個のお芝居でも何十人とか、大きいものだと百人以上の人の思いが詰まるの・・・だから、どんなお芝居でも、絶対に一番きれいなところがひとつはあるのよ。そういうきれいなものを、みんなであーだこうだって言いながら創っていくのって、結構楽しいのよね。」 

 「あー・・・そうなんすか・・・」と答えたが、イマイチよく分からない。

 「奥村君もそのうち分かるよ。舞台の裏方ってね、「大人の遊び」なの」

 美代子さんは、フフフと微笑んで、また衣装の整理のために手を動かし始めた。僕は、もうこの話を続けにくくなりながらなんだか手持ち無沙汰になってしまい、鏡の前のイスに座り、目の前にあったメーク用のドーランを手の中でカタカタと弄んだ。


 公演は、土曜日の昼の回と夜の回。そして日曜日の昼の回と三回行われる。

 最初の上演の昼の回が終わると、舞台上にライトを当てて、公演の記念撮影が行われた。

 劇団員とお手伝いの人と全ての人が舞台に集合して、先ずは全員集合した写真を撮った。その後、役者、舞台監督部、演出部、照明部、音響部、小道具部、衣装部、受付部、宣伝部、とそれぞれの部署で記念撮影を行う。田丸さんは大きなカメラを両手で大事そうに抱えて、それじゃみんな入んないぞ、ほらそこなにふざけてんだ、と大声を出しながらカメラを構えてパシャパシャやっている。

 「演技のダメ出しより怒ってますね」と隣の増井さんに小声で言うと、「じいさんの道楽だからな。これのために芝居やってんじゃないかと思うくらいだ」と小声で返って来た。

 「おまえ、このメンバーでもう一回同じ公演出来ると思うか?」と目線を客席に向けたまま増井さんが聞いてきた。

 「イヤ、出来るんじゃないんですか? また声かければ・・・」

 「・・・・例えばだけどよ、三カ月あとに、評判良かったからもう一回やりましょうって言っても、同じキャストがまた出れるか・・・裏方も同じメンツにするなんてまずムリだろうな。この公演終わったら劇団辞める奴だっているし、スケジュール開けらんない奴も出てくるし。もう二度と全く同じもんなんて創れないんだ・・・芝居ってそんなもんなんだよ。」

 ハア・・と答えながら、そうかそんなもんなんだなぁと思った時に、ハイチーズ!という怒鳴り声と共にフラッシュが光った。


 記念撮影の後は自由時間となる。役者は銘々が食事をしたり少し目を瞑って休憩したり脚本を読んだりし始める。どちらかと言うと、発声練習をしたり誰かとワイワイお喋りするのでなく、夜の公演の為にエネルギーをためるかのように誰もが静かに過ごしている。

 役者用の楽屋にはみんなの静寂が漂って、なんだかよそよそしい雰囲気になってしまったので、ドアを出て隣の裏方用の楽屋を開けてみた。こっちでは増井さんと松岡さんがイスに座って楽しそうに話している。

 「お? どうした警官?」とにこやかに松岡さんが聞いてきた。

 「いやちょっとあっちの楽屋、居づらくて・・・」

 増井さんがマイルドセブンをポンポンと灰皿に叩きつけながら「アイツら、集中しようとしてるんだろ?」と聞いてきた。

 「ええ。みんなピリピリしちゃって。欣二さんなんて座ったまんま目ぇ瞑って動きませんよ。なんか瞑想してるみたいです。」

 二人とも、ハハハやっぱなと笑った。

 「今回が三回公演するだろ? そうするとな、やっぱ人間がやることだから、いい時悪い時ってのが出てきちゃうんだよ。」と増井さんは手を波のように動かして表現した。

 「それで、さっきの昼の回が緊張感持って大きなミスもなくて比較的うまく出来たろ? そうするとその次の回ってのは、なぜだかどうしてもうまく出来ない確率が高いんだよ。」

 「なんでですか?」

 「それは、不安だった一発目がうまく出来た良かった良かったっていう役者の気のゆるみだったりするんじゃないか、と俺は思うけどよ。でも面白いのはな、そうなるからって役者が一生懸命気合い入れて緊張感持って、ってやったりしてもな、それはそれでやっぱり失敗するんだよ。」

 「そうそう。今度は緊張でアガっちゃってセリフ出なかったりするんですよ。」と松岡さんが同意する。

 「じゃあ・・・どうすればイイんです?」

 ゆるみも緊張もダメなら?という素朴な疑問だったが「そんなの知らねえよ。オレ役者じゃねえんだから。」と増井さんに笑われてしまった。

 「そこはねえ奥村君。その役者自身で探していくしかないのかなぁと思いますよ。その人なりの、ちょうどいい、うまくいく方法をさ」

松岡さんの穏やかな口調の中、マイルドセブンの煙がゆるゆると天井に登っていった。

 

 夜の公演の上演中、その時は突然やって来た。

 警部役の欣二さんが、夫と妻がいる席にて、夫が妻以外の女性と重婚していた場合は、夫を逮捕する可能性があることを長セリフでとうとうと語る場面だ。僕は、警部に同行した警察官として舞台上に出ていた。欣二さんはメガネの奥から鋭い視線を吉田さんに向けながら、舞台上をコツコツと動いてセリフを語っていた。

 「・・・というわけで、ご主人。以上述べた点が証明された場合は、私は今日連れてきた私の部下に、奥様ではなくあなたを逮捕しろと命令して―」

 うんうん。それで、警察署へ連行しなければいけなくなります。だよね。と、ドアの前で気をつけの姿勢で立っている僕は聞いていた。

 「命令して・・・・どこへ連れて行くんでしたっけ?」

 ん?

 「すみません・・・・いやー年のせいかな? どこへ連れていくのかすっかり忘れてしまいました」

 ゲ?・・・・セリフじゃない・・・・アドリブだ。しかも「忘れた」って思いっきり言ってる・・・

 「ちょっとお待ちください。どこだったっけなぁ・・・・もう少しで思い出せそうなんですが・・・・」

 吉田さんも湯座さんも、不安そうな目で欣二さんを見ている。欣二さんは腕を組み、演技でなく本当に考え込んでしまっている。

 「・・・いったい・・・僕をどこに連れていこうと言うんですか?」

 これまたアドリブで、吉田さんが間をもたそうと必死に叫んだ。

 「だからそれを思い出しているんです! いいから少しお待ちください! 黙っててください!」と欣二さんが逆ギレのように叫び返した。アドリブで繋ごうとしたのに黙ってろと言われ、吉田さんの抑えきれない感情が小さく口をパクパクさせている。

 これ・・・どうする? オレが「警察署ですよね?」と言ってもイイのかな? でもセリフ無いのに急に喋り出したらおかしいか? オオ、欣二さんが本当に悩みだしちゃっている。プロンプが舞台袖から小声で警察署と言って伝える・・・は、このタイミングだと出せないか。次の瞬間に欣二さんが思い出すかもしれないし・・・だいたい、欣二さん楽屋で目をつぶって集中していたんじゃないの? エー? このままうんうん唸っている警部をお客さんに見せ続けるの?

 「・・・ひょっとしたら・・・・主人を逮捕して警察署に連行しようというお話しですの?」

 沈黙を、湯座さんの高い声が破った。

 「そうです! その警察署に連行しようと言いたかったのです。」

 そうなると、逆にあなたの立場が危うくなりますねぇご主人。と、欣二さんは何とか元のセリフに戻っていった。出なかった一言が出ると、そこからは今まで止まっていたことなど無かったかのように、スラスラとセリフが出ていく。舞台上のみんなの目を見ると、ホッとした安堵の色を浮かべている

 暗転になり袖に引っ込んで即座に、欣二さんは吉田さん湯座さんに手を合わせてゴメンねゴメンねと謝った。いえいえ。大丈夫です。と二人とも答えていたが、その目は全く笑っていなかった。



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る