第三話 初めまして、
真人に背中を押してもらったものの、やはり俺の中では何かがわだかまったままだった。結局それをどうにもできず、転校初日、俺は微妙なスタートを切る。
「えっと……
用意していた「中途半端な時期ですが」や「残り短いですが」といった言葉は、担任が俺の紹介の際に使ってしまった。とっさに思いつく言葉すらなかった結果、クラスはなんとも言えない空気に包まれた。
自分でもよく分かっている。予想外に短く終わった挨拶に反応できなかった人が大半だろうと、まばらな拍手から推測した。けれどそれによって生まれてしまった一発目の空気は、きっと俺のイメージに大きく影響する。
そんなこんなで、この日話しかけてくるクラスメイトはほとんどいなかった。
「ふう。四階きっつ」
家のドアを開ける前に、腕で額の汗を拭った。ただでさえ暑さが残っているのに、四階まで上がる手段が階段しかないなんて。屋外の階段を、しかもこの暑さの中でこんなに上がったことは今までにあっただろうか。
中に入ると、早速エアコンのリモコンを手に取った。設定温度をこっそりと二度ほど下げる。それから洗面所に行き、手を洗うついでにバシャバシャと顔も洗った。
「だめだ。気持ち悪い。シャワーでも浴びるか」
顔が水に濡れても、その水はぬるく、不快感を拭えない。鏡の自分にそう話しかけると、俺は制服を脱ぎ始めた。
シャワーと、その間に部屋がオアシスになったおかげで幾分かは気持ちがすっきりした。
母さんは、しばらくは引継ぎで遅くなると言っていた。昼も夜も恐らく俺一人だ。
「しまった」
帰りがてらコンビニに寄ってくればよかった。今から外に出る気持ちにはなれない。後悔しながら冷蔵庫を覗いてみると、昨日の夜に食べたカレーの鍋らしきものが存在感を放っていた。
思い返せば今日の朝はカレーではなかった。いつもなら、夜にカレーが出た翌朝は大抵カレーなのに。
ブブ、とテーブルの上のスマートフォンが震えた。母さんからの連絡で、「カレーばっかりでごめんね。全部食べちゃってね」とのこと。
「えっ、まさかこれ全部。昼も夜も?」
鍋のカレーを二度見した。確かに、これは明らかに一食で食べる量ではない。
買いに行く必要がなくなったのは幸いだけど、さすがに何か違うものが欲しくなった。結局は追加で食べられる軽いものを買いに、日が落ちてからコンビニに出かけた。
母さんは、俺が起きるのとほぼ同時くらいに家を出て行く。それはこの一週間変わらなくて、明らかに疲れの色が見えてきた。
俺はといえば、特に何かあるわけではない平々凡々な日々を送っている。相変わらず友達はできずにいるけれど、どうせあと半年、無理に作る必要もないと割り切った。
授業が本格的に始まり、どの科目でも受験対策を意識した「先生からのおまけ講座」みたいなものが、ひと言ふた言追加される。
「高校かあ」
休み時間、ふと口から出た言葉だった。そういえば、まだこのあたりの高校についてきちんと調べていない。家からほどよく近くて、偏差値も自分の学力で問題なく受かる場所を、とだけ頭にあるくらいだ。
のらりくらりと考えていると、その日に新学期一発目だという進路希望調査が行われた。この日は志望校を記入した紙を提出するだけで、この進路希望調査票の内容に沿った三者面談が後日行われるらしい。帰りのホームルームで配られたそれを、俺は白紙の状態のまま持ち帰り、明日に提出する許可をもらった。
放課後、クラスメイトが次々と席を立つ中、俺は真っ白な進路希望調査票をぼんやりと見つめていた。
「いよっ。わ、真っ白じゃーん」
「うわっ! びっくりした」
ひょい、と白紙の進路希望調査票を覗き込んできたのは、同じクラスの男子だった。名前を覚えるほど関心を持ってはいないけど、ちょっと目立つ存在の彼の顔は記憶している。
「えっと――」
申し訳なさそうに顔を見ると、彼は自己紹介をしてくれた。
「あ、俺?
彼はそう言いながら、俺の前の席の椅子に腰を下ろした。
そう呼んでくれていいとは言われても、俺は人をあだ名で呼ぶことをあまりしないので、言葉に詰まってしまった。しかし彼は、俺の様子など構わずに続けた。
「ほら、トーモ」
彼の拳が、マイクのように俺の口元に差し出される。渋々「トモ」と小さく呟いてみた。彼――いや、トモは満足げに笑った。
「距離の近い人」。この時、トモの対して抱いたイメージはこれだけだった。けれど不思議と嫌悪感はない。顎あたりまで伸ばされた髪はさすがに長すぎるのでは、と思うけれど、多めのほくろは可愛いなと思った。
この学校には「進路指導室」というものがある。そこで貸し出されている本を高校選びの参考にすればいい、とトモは案内してくれた。
移動中に、家が同じ方面だということが分かり、俺たちは炎天下の中を並んで歩いていた。
「まあ、この時期に転校して、いきなり進路聞かれてもね~、そりゃ困っちゃうよなあ」
トモは前を向きながら、んん、と体を伸ばした。
「母さんの仕事の都合だから。仕方ないっちゃ仕方ないけど」
俺は歩道と縁石を、ぼんやりと交互に見ていた。
「太智ってさ」
「え?」
名前を呼ばれ、ふと顔を上げる。じっと観察するような瞳が近くにあったけど、トモは「いや、なんでも」と言って、誤魔化すような笑みを作った。
「この先は? 太智、方向どっち?」
「俺はこっち」
大きな交差点で立ち止まり、俺は左側を指さした。するとトモのテンションは急に高くなった。
「なんだよ、俺も一緒。もしかして俺ら、ご近所さんなんじゃねえの?」
それはさすがにないだろうと心の中で思っていたのだが、なんとトモの予想は的中する。「ご近所さん」どころではない。彼は俺が引っ越してきた団地の一階に住んでいたのだ。
住んでいるのが同じ団地だと分かってからというもの、俺たちはほぼ毎日、一緒に下校をするようになった。そうでない日は決まってトモに予定のある日だった。大抵女子が隣にいる。――とは言っても、何人かの女子をローテーションしているようなのだが。
トモのおかげで、九月が終わる頃には新しい友達もできた。
「男子はおがたんって呼んでくれるから、太智くんもよければそう呼んで」
またあだ名……。クラスの女子をあだ名で呼んだことなどないので、さりげなく名字で呼ぶと、すかさず指摘されてしまった。
「えーっ、なんでおがたんって呼んでくれないのぉ? トモだけずるーい」
緒方は口を尖らせた。彼女は男子の下の名前を呼び捨てにしているらしいが、トモだけはあだ名で呼んでいる。俺も他の男子の例に漏れず、気がつけば呼び捨てに変わっていた。
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