雪下出麦 -ゆきわたりてむぎいづる-
椰子草 奈那史
第1話 雪の匂い
「ねえ、雪の匂いって知ってる?」
「……いや、知らないな」
僕はコートのポケットに両手を突っ込んだまま答える。
「雪に匂いなんてあるのかよ。いわば水の結晶だろ」
僕の不機嫌そうな態度を気にする様子もなく、紗英が微笑んだ。
「あるよ。
そう言いながら、紗英は跳ねるように僕の方へ戻ってきた。
「そりゃ、雪なんて年に一回くらい降るかどうかだけど……」
そんなことよりも僕が気になるのは、今立っているこの場所の尋常じゃない寒さと、次の列車がいつ来るのかということだ。
僕逹が立っているのは、東京から遠く離れた北の地をさらに奥へと進んだ山あいにある、とあるローカル線の駅のホームだ。
駅、といっても野ざらしのホームに小屋みたいな小さな無人の駅舎があるだけの質素なものだ。
辺りに目を向けると、鉛のような濃い灰色の雲が立ち込める空と四方から圧迫するように迫る黒々とした山々、そして駅舎の周りには茶色く枯れて折り重なった草ばかりの荒涼とした風景が広がっていた。
さらに11月も終わりに近い時期のこの地の気温は、ずっと温暖な地で育ってきた僕にとっては想像を絶する過酷なものに感じられた。
「なんか大変なところに来ちゃったな……」
僕の呟きに、紗英が鋭く反応する。
「すごい田舎だと思ってあきれてるでしょ?」
「いや、ごめん。ちょっと驚いただけで悪気は……ただ、昨日のこともあって、少し落ち込んでたのもある」
「……お父さん達も、私達のことを心配してのことだと思うの」
紗英はそう言って、ホームの柵にもたれかかる。
「ああ、わかってるよ……」
一瞬会話が途切れて、聞こえるのは微かな風の音だけになった。
「それより……さっき言ってた『雪の匂い』ってどんなものなのか教えてくれよ」
僕はこの気まずい空気を何とかしようと紗英に話を向けた。
「雪の匂い? ええと、うん……そうだなぁ」
紗英が頬に手をあてて考え込むような仕草をする。
「改めて説明しようとすると、難しいね」
「なんだそれ」
「それは、決していい匂い、とは言えないけど、かといっていやな匂いというわけでもなく、あえて例えるなら……さっき圭吾が言ってたように、氷の匂いに近いかな。ほら、かき氷だって、間近で嗅げば水とはちょっと違う匂いがするでしょ?」
紗英は答えを探すように中空を見つめながら、言葉を繋いだ。
「まあ、それなら少しわかるけど」
「でも、かき氷は鼻先から離したら、もう匂いなんてしないよね。雪が降る前って、周りがほんのりと氷のような匂いがするの。そして匂いだけじゃなく、空気の感触も、ただ冷たいだけでなくて、少し柔らかい感じに変わるというか……」
――そこまではさすがにわからない。
「ふーん、じゃあ今はどうなんだ? さっきから僕にはただひたすら寒いとしか感じないんだけど」
「今? そうだね……」
紗英は柵から身を起こすと、ゆっくりと何度か深く息を吸いこんだ。
一瞬の間をおいて僕に向き直り紗英が言った。
「するよ、雪の匂い。もうすぐここも降ると思う」
「本当かよ……」
深く息を吸い込んでみるものの、正直僕には違いがわからない。
僕は空に目を向けた。どんよりとした鉛色の空は先ほどと変わりはない。僕の目には、特に荒天が迫っているようには思えなかった。
「こんなんで雪なんて降るのか」
その時、見上げる僕の頬にぽつんと冷たいものが触れた。
えっ?
広がる鉛色の空から、白い粒がひとつ、またひとつと舞い降りてきた。
それは瞬く間に数を増やして、逆に空の色を塗りつぶすように視界を覆っていく。
「……ほんとに降ってきた」
空から視線を戻すと、紗英は少し誇らしげに親指を立てて見せた。
「ね? 言ったとおりでしょ」
「ああ、まるで魔法みたいだな」
「魔法かぁ……」
そうつぶやいて、降りしきる雪の中で紗英が微笑んだ。
「そんな魔法が使えたらいいのにね」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます