1-4.『私の数少ない友人たちよ』

 地下階段を降りたアルバートとワイスは、やがて行き着いた一枚の鉄扉てっぴの前で立ち止まる。


 経年劣化によりび付いたその表面には、赤いペンキで『生命の実験室Zoe's Atelier』の走り書き。

 汚れて黒ずんでいる上、字の端々からしずくが垂れ固まっているせいで、まるで誰かの血で書いたようにしか見えない。


 謎の威圧感を放っている薄気味悪い扉を前に、アルバートとワイスはどちらからともなく目配せする。


 ——お前が開けろよ。


 とでも言いたそうに、ワイスは段ボール箱を抱えたまま肩をすくめてみせる。

 アルバートは嫌々ながら、アタッシュケースを持っていない方の手で扉を押し開けた。


 部屋に一歩、湿った空気が二人を出迎える。鼻腔びくうに入り込むかすかな薬品臭さ。視界の端でワイスがしかめっ面をする。

 わずかな光量の蛍光灯が仄明ほのあかるく照らし出す部屋の様相に、二人はそろって表情をひくつかせた。


 壁を埋め尽くすのは、古今東西の魔除まよけの仮面。眼窩がんかうつろろで目玉などどこにも無いのに、じっと来訪者を見つめている気がしてならない。

 冷たいコンクリ床の上に墓標じみて立てられた棚には、様々な生物のホルマリン漬けがところ狭しと並ぶ。

 そのどれもが、瓶の中から抜け出そうともがき続けているように見えるのは……気のせいだろうか。


 部屋の奥には、薄汚れたカーテンで仕切られた簡素なベッドが二つ。

 隣には書類が山積みにされた事務机デスク。手前にあるキャスター付の丸椅子に、この部屋の主の姿は無かった。


「ゾーイ、いるか?」


 呼び掛ける声に返ってくるのは、天井で所在なさげに回るシーリングファンと、明滅を繰り返す蛍光灯の音だけ。

 かつての備品倉庫を貸し切って作り出された珍妙な空間は、遺体の安置室のような静謐せいひつに満ちていた。


荷物ブツだけ置いてさっさと帰ろーよ。絡まれると面倒じゃん、アイツの話長いし退屈ー」


 ワイスがだるそうに腕の力をゆるめ、垂直落下した段ボール箱が床に叩き付けられる。

 荷物は丁寧に扱え——普段ならそう注意しているところだが、アルバートの意識は眼前の“異常事態”に向いていた。


「なぁ、ゾーイが自分から外に出ると思うか? 日光なんか浴びたら一瞬で消滅しそうな、あの陰気な根暗ねくら女が——」

「私なら、ここにいるよぉ?」


 突然、不気味な風鳴りのような声と湿った息が耳元に吹きかけられる。

 いつの間にか二人の間には、長髪の女が突っ立っていた。


「「ッ!!」」


 目を見開いたアルバートとワイスは反射的に己の得物を突き付ける。

 こめかみに銃口、喉元にナイフ。確実な死が数ミリ手前に迫っても、女はやつれた顔に平然と笑みを浮かべてみせた。


「ははは、そんなものじゃ私は死なな――痛い痛い痛い」


 女の乾いた笑い声が、途中から狼狽うろたえた悲鳴に変わった。


「ちょっ、待ちなさいエーデルワイス、刺さってる刺さってる。待て。お手。おすわり」

「あたし犬じゃなーい」

「そこ頸動脈けいどうみゃくだから……いやこの程度じゃ私は死なないけどね。死なないんだけど、痛くないわけじゃないんだよ」

「大丈夫だって。先っちょだけだから」

「おい、やめとけ駄犬バカ。後でなにされるか分からんぞ」


 アルバートは銃を収め、なおも刃先をゆっくりと細い首筋に刺し入れようとするワイスの腕を掴んで止めた。


 渋々といった様子でナイフが下ろされると、さっきまでの狼狽ろうばいは一体どこへやら……女は二人を抱き寄せるようにそれぞれの肩に腕を回した。

 

「荷物だけ置いて帰るなんて寂しいじゃないか。私の数少ない友人たちよ」

「「お前と友達になった覚えは無い」」


 即座に腕を振り払われ、一言一句全く同じ否定の言葉を浴びせられても、女はただ肩を震わせてカートゥーンの骸骨のようにカラカラと笑うだけだった。


 胸元まで垂れる伸び放題の黒髪。

 東洋系の顔立ちは痩せこけ、まるで頭蓋骨に死人の青白い皮が張り付いたようだ。

 ゾンビメイクでもここまで血色悪くはならない。


 濃いクマをこしらえた目許めもと。光の差さない洞穴どうけつのような瞳には、深い叡智えいちと同等の狂気が渦を巻いている。


 痩身そうしんを包むのは暗緑色の手術着スクラブ。上から肩掛けにされた白衣はそですそが薬品で変色し、奇天烈きてれつな色味のマーブル模様になっていた。

 染み付いた腐臭を誤摩化ごまかすために消臭剤を吹きかけまくったのか、近寄るとキツいミントの匂いが目と鼻にみる。


 年齢不詳。本名不明。

 過去の経歴も一切が謎に包まれた女。


 分かっているのはゾーイという通り名と、雑居ビルの地下に構えられたこのの主であること。

 そして医師免許を剥奪はくだつされた闇医者にして、死について探求する哲学者である――ということくらいだ。


 外見だけ見れば二十代半ば——いわく『君たちより少しだけお姉さん』 らしい——だが、それさえも疑わしい。


 不健康という言葉を絵に描いたような女の姿を眺めていると、身に付けている手術着スクラブがところどころ黒ずんでいることに気付いた。


「……おい変態、お前さっきまでなにやってた?」


 なんだか猛烈に嫌な予感がして、反射的に問いかけてしまう。


が出来たよ、せっかくだから君たちにも見せてあげよう。……なに、遠慮はいらないさ。私の寛大な心遣いに感謝することだね」


 にたぁ……と陰湿な笑みを浮かべるゾーイを見て、アルバートは己の軽率な行いを後悔した。

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