第6話
*
運命の女、か。
小さく口の中で呟いて、手の中で弄んでいた
「画家になりたいから美術の専門学校に行かせてくれ、って親に頼んだら『そんな食えない仕事なぞさせられるか』って怒鳴られて」
耳にすっかり意気投合した二人の会話が舞い戻ってくる。
ある意味で、その親は正しい、とぼんやり思った。芸術家や物書きは、得てして食えないものだ。それを娘に勧めない親は、親として正しく、芸術家や物書きとして間違っているだけの話だろう。
「ご飯をお腹いっぱい食べられたって、自分の魂を不自由な人生に売り渡すより、ずっとマシだ、このわからず屋って家を飛び出してね。ありったけのお金集めて、そのままフランスに行っちゃった」
それは思い切りの良いことだ、と私は感心した。本当に芸術家の魂そのものを体現したような話に、どこか眩しいような気分にさせられる。
「でもね、親は正しかったの。本当に、その日のご飯にすら困る毎日で、どんどん借金が増えて……って、ごめんなさい、こんな暗い話」
隣で耳を傾けている私の表情が、どんどん暗くなっていっていたのだろうか、おんなは少し申し訳なさそうにして、弱ったような顔で謝罪した。
「……いえ、そんな」
とは言え、私はこんな時、どんな風に声をかければ良いのか分からなかった。店内に、何となく気不味い沈黙が落ちる。
マスターが、いつものように使いもしないショットグラスを拭きながら、
「それで、貴女はここに来たのですか?」
マスターは黙りこくってしまった私の代わりに、柔らかい声でおんなに聞いた。だが、たいがい彼も慰め方が下手くそだと思う。死んだ理由を聞かれて、喜ぶおんながどこにいるだろうか。そう思ったのに、おんなはさっきまでの暗い表情を振り払うように小さく笑った。
これは、前言を撤回すべきかもしれない……私は死してもなお、おんなというものを理解できていないらしい。マスターの方がよほど良く分かっている。沈黙は、罪だ。
「ええ、さっきのは、ちょっとだけ嘘をついたわ。ごめんなさい。本当は分かってるの、どうして死んじゃったのか」
これは少し雲行きが怪しくなってきたぞ、と思った私の予想通りに、語られた真相はまた言葉に詰まらされるものだった。
「借金が
何でもないことのように肩を竦めてみせる姿は、思わず目を背けてしまいたくなる程に痛々しい横顔だった。それは、合わせ鏡の己を見ているかのようで、なおのこと直視しがたい現実でもあった。
こういう時、太宰治あたりならば上手い具合に慰めたりしたのだろうかと思うが、あれはダメだとすぐに心の中で首を振った。あのおとこは、おんなの持つ闇に引きずり込まれていく、というよりも己の持つより大きな闇に進んで相手を引きずり込んでいくという厄介な奴である。むしろこれが決意の死などであれば、
今日はどうにも、
叱咤の声が、どこか遠くに響く。それは己の内なる声か、苦楽を共にした友の声か。目を背け耳を塞いでいたものが、私に語りかけている。私がどうしようもなく恐れていた過去は、考えていたよりもずっと優しく、どうしようもない熱量で、私の魂にひびを入れた。
*
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