603
一歩、踏み出す。
背後の影を、靄が舐める。
退路など与えない、とでも宣うつもりか。
馬鹿め。誰が逃げるかよ、こんな飛び切りの鉄火場。
「る、うぅぅ」
骨が軋む。肉が引き攣る。五体が錆びる。
動脈を黒く染め上げる『呪血』の代償、身体能力の著しい低下。
深化させたことで見えざる鎖は更に重圧と締め付けを増し、雁字搦めに俺を括る。
打ち消すべく『豪血』を発動させようにも、縛式の十倍は燃費最悪な呪縛式に移行させた影響で樹鉄刀の内在エネルギーが枯渇寸前。
爪先を介し階層から直に熱量を喰い取らせているも、消耗の方が遥かに早い。
迂闊に別の色を累ねれば、何かアクションを起こす暇も無く乾涸びてしまうだろう。
「にっちもさっちも、てな塩梅か」
もどかしさと併せて、しかし鼓動は高鳴るばかり。
やはり劣勢こそ、命の瀬戸際こそ極上の甘露。たまらねぇな。
「六……いや、五か」
瞬きほどの間であれば『呪血』と『豪血』の両立を保てる。
あと五歩近付けば、その僅かな猶予で片を付けられる目算。
「お互い余裕綽々とは謳い難いザマだ。寂しい限りだが、これで最後と洒落込もうや」
俺が五歩を刻み終えるのが先か。
ハガネが刀を抜き放つのが先か。
「四歩」
対峙する彼我を繋ぐ直線。
それ以外の全ては、既に靄が呑み込んだ。
音も無ければ光も無い。
八方を終わりに囲まれた、完全な袋小路。
まあ、そいつに関しちゃ、今はどうでもいい。
俺達の決着まで邪魔をしないなら、どうでも。
「三歩」
「ぐっ、くぅ」
額に汗を滲ませたハガネが、震える手で緩慢に転生刀を抜いて行く。
想定よりも少しペースが早い。
あーあ。こりゃ向こうが先手だな。
「二歩」
刃毀れひとつ無い切っ尖が、聖銀細工の鯉口を離れた。
「一歩──」
振るわれる一刀。
虚空を斬ったという事象が、俺を斬ったという事象へと塗り替わる。
ところがどっこい。
「──残念」
断ち落としたのは頸に非ず。
特殊な歩法でハガネの感覚を騙くらかし、ほんのチョッピリ照準を誤らせた。
奴が裂いたのは、呪縛式の狼頭。
ついでに喉笛半分をアラクネの糸ごと断たれたが、致命傷には程遠い。
「豪血」
言葉と共に噴くドス黒い血。
石畳が罅割れる踏み込みで以て、最後の一歩を駆ける。
「六趣會『畜生道』ハガネ。雪代萵苣」
呪縛式を纏ったことで輪郭が膨れた、異形の腕を振りかぶる。
「返す返すも、寂しくなるぜ」
横薙ぎに振り払う。
「強者が一人、減っちまうのは」
血が、肉が、骨が、臓腑が。雑な花火のように、飛び散った。
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